「琴寧、モカコーヒーには会ったのか?」
 帝は琴寧からの質問には答えずに、糢嘉の話題に変えた。
「ううん、私はまだ会ってない」
 弥宵と糢嘉が同じ高校に通っていると冬嗣から聞いたとき、琴寧は複雑な心境になった。
「琴寧は弥宵から芽羽を取り戻したいのか? それともモカコーヒーの女になりたいのか? どっちなんだよ」
 帝から核心を突かれてしまい、琴寧はうろたえた。
 芽羽は友情としての好き。糢嘉は恋愛感情としての好き。
 琴寧はずっとこの二人へと抱く『好き』という感情は別物だと思っていた。
 だけど今、弥宵が糢嘉と芽羽の二人に再会してしまったことで琴寧は自分の心が誰に向いているのかわからなくなっていた。
 琴寧は弥宵にだけは糢嘉も芽羽も渡したくはないと思っている。
 十歳のときも、高校二年生となった今も、琴寧の大切な人を弥宵が全部奪っていく。
「どうしてあのとき、モカくんは芽羽ちゃんじゃなくて弥宵くんの味方をしたのかな?」
「そんなのオレが知るかよ。そんなに気になるなら見舞いに行ってモカコーヒーに直接聞けばいいだろ」
 琴寧の父親の克騎(かつき)は医者で、糢嘉の担当医でもあるのだ。
 琴寧がこのことを初めて知ったのは糢嘉が退院した日だ。
 病院を訪れた琴寧は偶然、克騎と会った。
 克騎の隣にはおそらく患者であろう琴寧と同い年くらいの車椅子に座る少年と、その少年の家族がいた。少年は具合が悪いのかずっとうつむいている状態で克騎とも自分の家族とも話そうとはしない。
 車椅子に座っている少年が微動だにしないものだから、最初、琴寧は死んでいるみたいだなと不気味に思った。
 克騎は琴寧に気がつくと「琴寧、来てたのか」と、挨拶程度に軽く声をかけた。
 今は仕事中だ。娘と長話をしている暇なんてない。
 琴寧もそれを理解しているからこそ、空気を読んでその場所から即座に立ち去ろうとしたのだが、克騎の口から思わぬ名前を聞いたことで立ち止まる。
「松崎さん、糢嘉くんは今日で退院となりますが気をつけてお帰りください。糢嘉くんが目を覚ましたら、また来院してください。何か異変があった場合もすぐに病院にいらしてください」
 患者の家族は克騎に深々と頭を下げると、車椅子を押してエレベーターに乗り込んだ。
 エレベーターの扉が閉まるとエレベーターの前には父親と娘、二人だけになる。
 琴寧が克騎に声をかけようとしたら、
「宮谷先生、ちょっとよろしいですか?」
 克騎は看護師に呼ばれてしまった。
「じゃあ、また後でな」
 一瞬だけ父親の顔になった克騎が琴寧に優しく言うと、すぐに仕事としての厳しい顔つきへと戻りナースステーションへと向かった。
 琴寧の頭の中は、偶然、耳の中に飛び込んできた『松崎糢嘉』という名前でいっぱいだ。
 今日、退院したばかりだということは病室の前にはまだ患者の名前が記入されたプレートが残っているかもしれない。一刻も早く確認しにいかなくてはプレートが取り外されてしまう。
 琴寧は病室の前に貼られた患者の名前を一つ一つ確認していく。
 そこで『松崎糢嘉』という名前が記入されたプレートを発見した。
 琴寧は驚き、そして歓喜した。
 あんなに再会を願っていた愛しい人がまさかこんな近くにいたとは想像すらしていなかったからだ。
 いやでも、喜ぶのはまだ早い。
 同姓同名の別人の可能性もある。
 琴寧は糢嘉のフルネームは知っていても、どんな漢字で表されているのかまでは知らないのだ。

「お父さん、モカくんは病気なの?」
 その日の夜、入浴した後に冷蔵庫から缶ビールを取り出している克騎の背中に琴寧はたずねた。
 克騎は振り返ると神妙な表情で琴寧を見据える。
「琴寧は糢嘉くんと知り合いなのか?」
「うん。友達なの」
 琴寧は迷うことなく即答した。
 そうすれば、克騎から糢嘉の情報を色々と聞き出せると思ったからだ。
 帝と冬嗣から糢嘉と再会したということを聞いていた琴寧は「モカくんはお父さんが働いている病院に救急車で運ばれてきたの?」と探るようにして問いかけた。
 すると克騎は自分が糢嘉の担当医であること、糢嘉が十歳の頃から診察していること、糢嘉の持病について説明した。
 克騎から糢嘉の病気のことを教えてもらった琴寧は愕然とした。
 そしてやはり、あの車椅子に乗っていた少年はずっと探し求めていた糢嘉本人だったのだとわかると琴寧は嬉しくてたまらなくなったが、それと同時にキャンプ場で出会った元気な糢嘉の印象でしか残っていない琴寧には衝撃的な真実だった。
 だからといって、琴寧の糢嘉への愛情が薄れたわけではない。
 むしろその逆で、今度は自分が糢嘉を支えてあげたい。尽くしてあげたい。助けてあげたいと強く思うようになった。
 そして今、糢嘉はどんなふうに成長したのだろうかと琴寧は気になっている。
 せめて顔を見てみたかったが、車椅子に座る糢嘉はずっと顔を伏せていたので琴寧は今の糢嘉の顔を知らない。
 どんな顔でも構わないと琴寧はうっとりとして頬を朱色に染める。
 琴寧は面食いというわけではない。
 糢嘉の慈悲深いところや困っている人をほっとけないところ、そういった内面的なところに琴寧は惹かれているのだ。

「帝くんと冬嗣くんは、モカくんのお見舞いには行かないの?」
 お見舞いに行ったところで何を話せば良いんだと帝は途方に暮れる。
 帝は蓄積された憎しみの捌け口を弥宵と糢嘉にぶつけるつもりでいた。
 ところが弥宵はそんな帝の激昂など問題視にはしていない様子で、どこまでも黙秘を貫き通そうとする。
 糢嘉にいたってはキャンプ場での出来事も、そこで出会った友達のことも何一つ覚えてはいないのだから、帝は自分だけが空回りしているようで、自分は今まで何に対して怒っていたのだろうかと急に虚しくなった。
「帰るぞ」
 駅に向かって歩く帝の後ろ姿が遠ざかって行く。
 もう大切な友達を失いたくはない。踏みにじられたくもない。
 琴寧は数カ月振りに帝と肩を並べて歩いた。あの懐かしい無邪気にはしゃいでいた小学生時代がよみがえってくる。
 帝と琴寧、二人の姿と影が雑踏の中にまぎれ込むと、そのままありふれた日常の波へと溶け込んでいった。