電車を降りた後も糢嘉の反省会は終わらなかった。
 糢嘉にわざと聞こえるようにサラリーマンが弥宵に深々と頭を下げて何度もお礼の言葉を言っている。
 糢嘉はそんな二人を無視して改札口を足早に出ようとはせずに、弥宵とサラリーマンから目が離せないでいた。
 こう言っては非常に失礼極まりないが、本当に地味な中年サラリーマンだ。それでも弥宵にお礼を言う姿が必死で、それは今にも泣きだしそうな勢いで──。
 この凡庸なサラリーマンが普段どんな仕事をしていて、どんな生活を送っているのかなんて糢嘉にはわからない。弥宵にもわからない。わからなくてもサラリーマンを地獄へと突き落とそうとしていた綺麗な魔の手から弥宵が救ったのはまぎれもない事実なのだ。

 駅のホームには人々の群れが雪崩れ込むようにして行き交っている。
 糢嘉はその雑踏の流れには従わずに逆らっていた。
 糢嘉と同じく雑踏の一員には加わらずに立ち止まっている弥宵を糢嘉が凝視する。
 クラスメイトとはいえ、それほど親しくもない人物をじっくりと見つめる糢嘉の姿は怪しいこときわまりない。
 弥宵はサラリーマンに足止めをさせられているが、これは名誉ある足止めだ。
 学校を遅刻するなんて失態など教師はなんなく許すだろう。
(確かに、かっこ良いよな)
 糢嘉は(ひが)みではなく弥宵を素直に称賛した。
 弥宵を称賛することで、自分は素晴らしい行いをした人間には崇拝とまではいかなくても敬意を表することのできる人間なのだと、誰に説明するわけでもなく自己主張していた。
 でも、やはりこれは僻みを含んだ称賛だ。
 なぜなら(ちょっとルックスが良いからって)という妬みも心の片隅に潜ませているからだ。
 糢嘉は自分も弥宵のように誰もが認める容姿端麗だったなら、あのサラリーマンを英雄みたいに堂々と助けたかもしれない。といった今となってはただの見苦しい言い訳だと自認しつつも体中に鎧のごとくまとわせる。
 詳しい事情を聞くために駅員二人がサラリーマンと嘘をついた女性、そしてその嘘に加担した友達を連れて行く。証人である弥宵にも一緒に来てほしいと言われていた。
 当然のことながら糢嘉には一緒に来てほしいといった声はかからない。
 松崎糢嘉は誰にも興味を示さない。誰にも干渉しない。注目を浴びるなんてことはもってのほかだ。
 松崎糢嘉には誰も興味を示してこない。誰も干渉してこない。
 誰からも──。
「松崎」
 放っておいてほしいと思う反面、クラスの人気者から名前を呼ばれることに悪い気分はしない。
「僕と同じ電車だったんだ。松崎はいつもこの時間の電車に乗っているの?」
「まあ、だいたいは……」
「僕はいつもはこの一つ前の電車に乗っているんだけど、今日のお昼は学食じゃなくてコンビニで買おうかなと思って。それでコンビニに寄っていたら、いつも乗ってる電車に乗り遅れちゃったんだ」
「へえ……」
 弥宵が糢嘉に穏やかな笑顔を向けて意気揚々に言葉を並べ立てる。
 糢嘉は聞き取りにくいほどの声でボソボソと話す。
 弥宵と糢嘉は友達と呼び合う関係でもなく、クラスメイトという接点しかないため、糢嘉は弥宵とどう話せばいいのか戸惑っていた。
 そんな糢嘉の心境などお構いなしに、弥宵は糢嘉に声をかけて会話を終わらすどころか引きのばす。
「僕と松崎、同じクラスなのにあまり話したことないよね」
「まあ、そうですね……」
 弥宵と糢嘉。二人がここまで近づき、お互いの顔を見て会話をするのはこれが初めてだった。
 糢嘉は自分の視力が急激に変化したのかと取り乱しそうになる。
 弥宵の目鼻立ちの良さは学校でも有名だが、間近で見るのは遠くで見るよりもずっと容顔美麗で糢嘉を圧倒させた。
 糢嘉は眼鏡を外してレンズの度数を確認しようかとも思えたほどだ。
 大多数の女性が羨むような(つやや)やかな黒髪に長い睫毛の強調されたくっきり二重の大きな黒い瞳。これで身長も高いだなんて反則だ。
 糢嘉は弥宵とは真逆のサラサラな頭髪とは程遠い癖っ毛だ。おまけにつり目をさらに細めるものだから、常に無愛想な印象を周囲の人たちに与えやすい。
 糢嘉はこんな格差にした不公平な神様を探して文句を言ってやろうかと思ったが、目の前に神様の姿はなく、神様よりも神々しい爽やかな笑顔の似合う全国の男から嫉妬されるであろう男の敵。
 その男は身長百七十センチにも満たない糢嘉のことをじっと見つめている。
 弥宵があまりにも刺激的すぎるものだから、糢嘉は眼鏡をかけ直す振りをして顔を伏せた。男相手にまるで女がするような反応をしてしまったことに糢嘉は呆れかえってしまう。
「松崎は僕の名前、知ってる?」
「……知ってる。永倉、目立つから」
「え? そうなの? 僕って目立つの?」
 人気者の吐くおとぼけほど嫌いなものはないと、糢嘉は弥宵からのこの質問は無視した。
「苗字だけ?」
「え?」
「僕の名前。苗字だけしか知らない? 下の名前は知らない?」
 知らないはずがない。教室にいるだけで一日何度も耳に入ってくる名前なのだから。
「……弥宵、だっけ……?」
「うん。正解」
 こんな問題に正解しても糢嘉からしてみたら嬉しくもなんともない。
 弥宵の名前を答えた糢嘉ではあるが、弥宵に無理矢理言わされたかんじがして不貞腐れてしまう。
「松崎は下の名前、糢嘉だよね?」
 だけどこの正解には胸が踊った。
 まさかフルネームで覚えられているとは思わなかった。
 教師はもちろんだが、みんなが糢嘉のことを苗字の『松崎』と呼ぶ。
 イジメられているわけではないが、糢嘉はいつも一人で行動することが多く、クラスでもいるのかいないのかわからない存在だ。クラスメイトとは談笑はおろか必要最低限の会話しかしない。
 休み時間になっても自分の机と椅子にベタリと張り付き、その定位置から動かない。
 そんな地味で目立たない松崎糢嘉の名前を弥宵は知っていた。
 それも学校内でアイドルみたいに注目されている永倉弥宵が知っていたのだ。
 だけど、ここで素直に喜びを表さないのが糢嘉。表したいのがモカ。
「同じクラスなんだからフルネームで知っていて当然でしょう」
 と弥宵から言われるであろうなと思っている糢嘉は、
「……正解……」
 と、マイナス思考の冷え冷えとした百点満点以上の花丸を付けて返答する。
 その直後に、
「モカ。学校まで僕と一緒に行こうよ」
 突然、弥宵からフレンドリーに名前を呼び捨てにされて糢嘉の表情が強張る。
 名前の確認で呼ばれたのとは違う。茶目っ気を込めた呼び方をされて、これに糢嘉は不愉快になり0点以下のマイナス点を付ける。×印を複数付ける
「今、なんて言った?」
 糢嘉の愛想のない口調が不機嫌な口調へと変化したことに弥宵は即座に気がついたが、物怖じせずにさらに糢嘉へと詰め寄り積極的になる。
「学校まで僕と一緒に行こうって言ったんだけど」
「いや、そこじゃなくて、その前……。いや、やっぱりいい。なんでもない」
 ──モカ──。
 これだけはけっして呼び覚ましてはならない。糢嘉の心の奥底に永久に封印しておきたい二文字だ。