珈琲(コーヒー)の香りには癒やしとリラックス効果があるとされている。
 でも、それを長い年月の間、糢嘉を苦しめる材料になっているのだということに弥宵は気がつかなかったのだ。

 マスターが開発した新メニューのチョコレートマフィンとチーズマフィンはなかなかの好評で、マフィンを注文するお客も日に日に増えていく。
 弥宵と芽羽はテーブルを挟んで向かい合って座っている。弥宵の目の前にはアイスコーヒーが、芽羽の目の前にはカプチーノが置かれている。
「今日もモカの家に行ってきたの?」
 弥宵は口元だけで静かにほほ笑み頷いた。その表情はどことなく寂しそうだ。
 弥宵はアイスコーヒーを一口だけ飲んだ。やはりここの喫茶店のコーヒーは最高に美味しくて居心地が良いなと弥宵の心が和む。
 弥宵は糢嘉と一緒にコーヒーを飲んだ喫茶店の常連客となっていた。
「弥宵、あたしのこと恨んでる?」
 悲痛に顔を歪ませながら、芽羽は弥宵におそるおそる訊いた。
 芽羽のその瞳は心なしか若干涙で潤んでいるようにも見える。
「どうして? 少しも恨んでなんかいないよ」
 長年、芽羽が自責の念に囚われているのを知っていたからこそ、弥宵は芽羽を励ますように言った。
「あのとき、あたしがちゃんとみんなに正直に話していれば、みんなの心がバラバラになって離れ離れになることはなかったのに……」
 芽羽は弥宵の優しさに甘えてしまっている現状を歯痒く思う反面、この優しさを手放したくはないというずる賢い考えも振り払えないでいる。
「芽羽、あのときのことを誰かに話した?」
 弥宵が問いかけると芽羽はテーブルに視線を落とし、申し訳なさそうに首をゆっくりと左右に振った。
「それで良いよ。僕のために無理してつらい過去をみんなに話す必要はないよ。芽羽が今、普通に生活を送れているのなら僕は嬉しく思うし後悔もしてないよ」
 顔を上げた芽羽に弥宵が穏やかな笑みを浮かべる。
 弥宵が今、最も気にしてやまないのは芽羽ではなく、糢嘉と自分の今後の関係性についてだけだ。
 糢嘉の持病を知った弥宵は直接糢嘉本人と会って確かめたいことがたくさんあるのだが、双子の妹がそれを許してはくれない。
「芽羽のほうこそ、こんなふうに僕と会ったりして平気なの? 琴寧に怒られたりしない?」
 冬嗣から弥宵と再会したと連絡があったとき、動転した芽羽の隣で琴寧は驚いた様子もなく無表情だった。
 キャンプ場での出来事から弥宵は孤立した。
 毎日のように遊んでいた帝と冬嗣は弥宵に冷たくなり、琴寧は罵声を浴びせたりはしないが蔑むような目で弥宵を見るようになった。
 弥宵が少しでも芽羽に近づこうとすると、琴寧が二人の間に割って入り弥宵が芽羽に接近することを防いだ。
 そんな緊張感の漂うぎこちなくも重苦しい雰囲気が数カ月ほど経過した頃、弥宵は家の都合で隣町に引っ越した。
 新しい環境に慣れるのに精一杯で、弥宵の心は懐かしい場所に置き去りにされたまま日数だけがあわただしく過ぎていく。
 それでも弥宵は、帝、冬嗣、芽羽、琴寧のことを忘れることはなかった。
 そして弥宵は糢嘉のことが恋しくて、会いたくてたまらなかった。
 なぜ、たった一度きり会って、ほんの数回ほどしか会話していないだけの糢嘉の存在がこんなにも鮮明に残り、心の片隅に腫瘍のように植えついて離れないのかと弥宵本人も不思議でならなかった。
 それはおそらく誰一人も味方してくれなかったのに、糢嘉だけが弥宵を守ろうとしてくれたからだろう。
 こういった勇敢な行動は誰でもできるものではない。
 弥宵は唯一、糢嘉との繋がりであるお揃いのキーホルダーを宝物として大切に所持することで、糢嘉との再会をひたすら願い続けた。
「こうして弥宵と会ってること、琴寧には内緒にしているの」
 いつでもどこでも芽羽が一緒でないと不安な琴寧が最近は芽羽と別々に下校している。琴寧はその理由について芽羽にしつこく問いつめてこない。
 本当は琴寧もわかっているのだ。放課後、芽羽が弥宵と会っていることを。そして芽羽もあえて琴寧が気がついていない素振りをしていることを知っている。
 だからこそ、琴寧の気丈な振る舞いを見るたびに芽羽の胸が締めつけられるように痛んだ。
「いつになったら、モカは目を覚ますのかな」
 弥宵が弱々しい声で呟いた。
 それについて芽羽は何も答えない。力なく項垂れるだけだ。
 今後、糢嘉が目覚めたとしても、糢嘉はあの公衆の面前でした弥宵との情熱的なキスも、この喫茶店で一緒にコーヒーを飲んだことも全部忘れてしまっている可能性が高いかもしれないのだと思うと、弥宵の胸は今にも張り裂けそうなほどの激痛が走るのだ。