糢嘉が長い眠りから目覚めると周囲の景色がぼやけて見える。
 手から伝わる布地の感触から、これはシーツだろうか? 自分は今、布団の上にいるのだろうか? と糢嘉は曖昧ながらに察知する。
 ドアが開いたらしき音のほうに顔を向けて見ると、親しみ深い聞き慣れた声が糢嘉の鼓膜に飛び込んできた。
「糢嘉! 良かった! 気がついたんだね!」
 初露が糢嘉の傍に近寄っても、糢嘉は怪訝そうな表情で初露の顔を凝視しているだけだ。
 初露の顔にゆっくりと手を伸ばしてみるが、その距離感が上手く掴めない。
 どうやら糢嘉の視力が安定していないようだ。
 糢嘉は初露との距離感だけではなく現状も把握できていない。
 そこに糢嘉の母親が耀葉と一緒に部屋の中に入ってきた。
 初露が糢嘉の様子がおかしいことを母親に伝えると、心配した母親はすぐさま医者と看護師を呼びに行く。
 ここは自宅でも自室でもなく、自分が病院にいることを糢嘉は理解したが、なぜ、こんなにも家族の顔がよく見えないのか糢嘉にはまったくわからなくて頭を悩ます。
 すぐに糢嘉の精密検査が行われた。
 帝から受けた打ち所が悪かったのか、それがすべての原因なのかどうかは定かでないが、脳震盪を起こした糢嘉の視力が急激に落ちてしまったのだ。
 糢嘉は裸眼では何も見えなくなり、眼鏡をかけて生活することを余儀なくされる。
 さらに不運なことが糢嘉の身に相次ぐ。
 反復性過眠症(クライネ・レビン症候群)
 過眠症(ナルコレプシー)とは少しばかり異なり、睡眠時間が非常に長い反復性過眠症(クライネ・レビン症候群)まで発病してしまったのだ。
 この反復性過眠症(クライネ・レビン症候群)は、別名『眠れる森の美女症候群』とも呼ばれており、眠り続ける『傾眠期』と通常な生活を送れる『間欠期』がある。
 傾眠期は年に数回ほど訪れ、それは三、四日から二週間。最悪一カ月以上続く場合もあるのだ。

 糢嘉はあのキャンプ場での出来事を何一つ覚えてはおらず、あろうことか、あれから一週間近くも眠り続けていたのだ。
 弥宵や帝、冬嗣、芽羽、琴寧と出会ったことも、弥宵を庇ったこともすべて綺麗さっぱり忘れていた。
 初露と耀葉は糢嘉と常に一緒に行動していなかったため、糢嘉が記憶を失った数時間の空白に何が起きたのかを糢嘉に説明することができない。
 唯一、リュックの中に入れていた、初露と交わした約束のノートだけが真実を知る頼みの綱なのだが、その大切なノートは糢嘉が水筒を放り投げた際にコーヒーで汚れてしまい、糢嘉が自ら書いた文字は滲んで読めなくなっていた。
 糢嘉はそのノートに弥宵や帝、冬嗣、芽羽、琴寧と出会いみんなで仲良く遊んだことや、お揃いのキーホルダーを購入したことなど、絶対に忘れたくはない楽しい思い出を書き記していた。
 だがしかし、弥宵を助けることに無我夢中だった糢嘉は水筒とノートを放り投げると弥宵のいる場所へと一目散に向かったのだ。
 そのとき、不覚にもノートにコーヒーをこぼしてしまい、糢嘉が自分で書いたキャンプ場での日記の内容の半分以上の文字が無惨にも消えてしまった。
 キャンプ場で何があったのか知りたい糢嘉は、両親と初露、耀葉にたずねた。
 すると両親と初露は同じキャンプ場に遊びに来ていた糢嘉と同じ年頃の男の子たちと大喧嘩したらしいと糢嘉に伝えた。幼い耀葉はそのときの状況を把握すらしておらず、上手く説明できるものではなかった。
 これらはすべて、あの学童指導員の男が自分に都合の良いように改変した内容を糢嘉の両親に伝えただけのものだった。
 現場を見ていない糢嘉の両親はこの学童指導員の言葉を信じていいものかどうか悩んだが、怪我をしているのが糢嘉だけではなく帝も怪我をしていたことから、子供の喧嘩などよくあることだと、結果、喧嘩両成敗でその場は丸くおさまった。
 それを両親から聞かされた糢嘉は何もかもがどうでもよくなり、人と関わるのが億劫になった。怖くなった。
 突如として、いつ、どこで発症するのかわからない、深い睡眠に加えて一時的に記憶を失う病気は糢嘉の周囲の人たちに多大なる迷惑をかけてしまうのだなと糢嘉は自虐的思考に陥った。それと同時に己の力ではその病気を防ぐことができない無力さに悲憤し、悔しくもあった。
 特定の誰かと親しくなったり、たくさんの友達を作るよりも一人でいるほうが気楽だし、これなら誰にも迷惑がかからない。
 だからもう自分のことはほっといてほしいと自己主張するかのように、糢嘉は自分自身の心にかたく蓋を閉めた。
 糢嘉は自ら壁を作り、他人と距離を置き、他人と必要以上に接することを拒み、徐々に内向的な性格へと変化していく。
 本来の糢嘉の明るく元気な人柄は、あのキャンプ場にすべて置いてきてしまったのだ。
 糢嘉がノートに書いた『絶対に忘れたくない事柄』はコーヒーによって消されてしまい、その文字が元通りに修復されることはない。

『初露と耀葉、それからキャンプ場で出会った友達の ━━━━━━━━ お揃いで買ったキーホルダーは宝物だから、これはずっと大切に持っておこう』

 ノートには糢嘉の筆跡で書かれたこの一文だけが残されており、友人たちの名前はコーヒーで茶色く汚れてしまい、とてもではないが読める状態ではなかった。
 糢嘉が自ら日記帳に書き記した〝真実〟がコーヒーのイタズラによって跡形もなく消されてしまった。
 初露はキャンプ場で知り合った初対面の友達五人を憎んだ。許せなかった。
 糢嘉を巻き込み、糢嘉の親切心を利用して糢嘉の心と体に傷を負わせた。
 そんな友達の存在など教えてやる必要はないと、初露は糢嘉に嘘をついた。
 糢嘉がキャンプ場で出会った友達とはいったい誰なのかと初露にたずねたとき、初露は「単なるその場に居合わせただけの仲良しでもなんでもない。名前とか知らない。糢嘉が今、こんなふうに苦しんでいるのは全部そのキャンプ場で出会った人たちのせいだから、もう忘れたほうが良いよ。糢嘉は何も気にしなくて良いよ。これからは、わたしがずっと糢嘉のことを支えてあげるから」と言って、あのキャンプ場には糢嘉の友達など一人もいなかった。友達と呼べる人など誰一人としておらず、いたのは糢嘉を見捨てて裏切った最低最悪な人たちなのだと断言した。
 糢嘉のことを理解して、糢嘉を助けてくれた友達は誰一人もいなかったのだと、糢嘉が自分から望んだわけでもないのに『モカコーヒー』とあだ名をつけて糢嘉を嘲笑った連中なんだと、初露は糢嘉を大切に想うあまり、糢嘉の物語を勝手に作りあげてしまったのだ。
 糢嘉と初露は生まれたときから常に一緒で行動を共に過ごしてきた。喜びも悲しみも分かち合い、お互いを助け合ってきた。絶対に失いたくはない大切な存在だ。
 だから糢嘉は初露が嘘をついていることを即座に見抜いた。けれども糢嘉はそれについて深く追究しようとしなかった。初露の前ではあえて騙された振りを装った。
 初露がものすごくモカコーヒーを嫌うから、初露の気持ちを汲んで糢嘉も自然とコーヒーを飲む習慣をなくしていく。糢嘉は自らコーヒーを遠ざけてコーヒーを嫌うようになるが、この拒絶は糢嘉の本意ではなく初露の心に寄り添うための糢嘉の演技だった。
 初露は悪意を持ってこんな嘘はつかないと、糢嘉は双子の妹を信じていた。
 しかし、それ以上に自分自身で書いた日記帳のほうの内容を糢嘉は信じた。
 けっして初露を疑い、初露の人柄を否定するわけではない。
 それでも糢嘉は顔も名前もわからない、思い出したくても思い出せない、キャンプ場で出会ったとされる友人たちとお揃いのキーホルダーは大切に保管しておくと決めた。
 将来、このキーホルダーが役立つときが訪れるのかどうかは、モカコーヒーと神様だけが知っているであろう。
 (もや)(きり)に覆われた未来はコーヒーよりも濁っていて、それは不透明に包まれている。