夏休み、雲一つない快晴、まぶしい太陽、キャンプ場へと向かうために高速道路を走る車内は家族の楽しそうな笑い声であふれていた。
朝のニュースで見た天気予報では今年一番の暑さになるであろうと言っていた。
ハンドルを握り締めて車の運転をしているのは糢嘉の父親だ。助手席には母親が座っており、後部座席には糢嘉、初露、耀葉の三人が座っている。
初露は糢嘉の双子の妹で、耀葉は今年の四月に小学一年生になったばかりの糢嘉と初露の弟だ。
糢嘉と初露の真ん中に座る耀葉は大好きな兄と姉の間に挟まれてとっても嬉しそうだ。
糢嘉、初露、耀葉の三人は仲良く談笑しながらこの小さな幸せを満喫している。
そんな愛する我が子三人を両親はほほ笑ましく見守っていた。
それでも油断は禁物なのだ。
万が一、急激な睡魔に襲われてしまった場合に備えて、糢嘉は自分のリュックの中に筆記用具と日記帳を入れることも忘れてはならないと、昨夜と今日の朝、念入りにチェックした。
過眠症。
一過性全健忘。
医師からそう告げられた糢嘉の両親はお互いに顔を見合わせると同時に怪訝そうに眉毛を斜めに曲げた。
糢嘉は落ち着いた様子で医師と両親の顔を交互に見ているだけで、自分自身のことなのにどこか他人事で、自分が病人である自覚などまるでなかった。
最近、十歳の息子である糢嘉が突然倒れることが多くなり、何か命に関わるような重く危険な病気が潜んでいるかもしれないと心配した両親は糢嘉を連れて病院に訪れた。
いくつもの病院に通っても詳しい原因はわからずじまいで、貧血、極度の疲労、そういった診断ばかりされた。
薬を処方されたがどれも効果はみられなかった。
そして五つめの病院ではっきりとした病名を告げられたのだ。
糢嘉は倒れるたびに気を失っていた。それは失神というよりも睡眠で、何度名前を呼んでも、何度体を叩いて起こそうとしてもまったく目を覚まさないのだ。
それに記憶障害も加わっているものだから両親はさらに動揺した。
しかし完全な記憶喪失とは異なり、糢嘉は自分の名前や年齢、家族、住所などはしっかりと覚えていた。
糢嘉の症状は主に過眠症が発症する前に起きた数時間ほど前の出来事だけを綺麗さっぱり忘れてしまうという少し特殊な記憶障害だった。
また、一過性全健忘は糢嘉の年齢で発病するのは非常に珍しく、再発も稀とされており、きわめて希少な疾患だ。
過眠症は、いつ、どこで、突如として発症する予測不可能なために対処法が難しい。
しかも糢嘉の場合、発症した前後に発生した出来事の記憶だけがスッポリと抜け落ちてしまうという記憶障害までも引き起こす非常に珍しい症状だ。
その病院の帰り、立っていられないほどの強い眠気に襲われてしまい、糢嘉が目覚めたときは自室のベッドの上で横になっていた。
両親は糢嘉がどこまで記憶に残っているか確かめようと糢嘉に色々と質問した。糢嘉は病院に行く前までのことは覚えていたが、病院に行って医者と会い診察を受けたことは忘れてしまっていた。
「俺、眠ってばかりいておかしいのかな? 俺は今日、本当に病院に行ったの? 何も思い出せないんだ」
その日の夜、糢嘉は寝転がりながら漫画を読んでいる初露の背中に話しかけた。
不安げな糢嘉の表情を見た初露は、一旦、漫画を閉じると糢嘉の隣に座り天使のような優しいほほ笑みを浮かべる。
「糢嘉、わたしのことはわかるんだよね?」
「うん……」
糢嘉は力なく頷くと同時に(俺の双子の妹の初露だ)と、胸中だけで呟いた。
忘れてしまうのは出来事だけであり、家族の顔と名前は忘れない。
しかし、その出来事の最中に突発的に症状があらわれてしまった場合は、その時、もしくは数時間前に初めて出会った人のことは忘れてしまう。一欠片も記憶に残らないのだ。
現状、糢嘉を診察した医師の顔も名前も糢嘉はまったく思い出せないでいる。
「糢嘉、わたし今、とっても良いことを思いついちゃった」
初露は立ち上がると意気揚々に二冊のノートを糢嘉の目の前に差し出した。
「今日から、わたしと一緒に日記を書かない?」
「日記?」
不思議そうな表情で訊き返す糢嘉に対して初露の顔は得意気になっている。
「これからはいつもノートを持ち歩いて、何か特別なことがあったり、忘れたくないことがあったらすぐにノートに書いとくの。そして、もしもまた眠くなって目が覚めたときに全部忘れてしまっていたらノートを見るの。そしたら思い出せなくても、その日、その時に何があったのかわかるでしょう」
確かに初露の提案は良いかもしれないなと糢嘉は思った。
それに自分自身の文字で書いた日記なら信用性も高いというものだ。
「あとね、コーヒーを飲んでみたらどうかな?」
「コーヒー?」
生まれたときから糢嘉と一緒に過ごしてきた初露は幼いながらも糢嘉の病気を理解しようと努めた。
糢嘉の傍には常に初露がいて、初露の傍には常に糢嘉がいた。
だから初露は糢嘉の病気と寄り添い、糢嘉を支え、糢嘉が少しでも記憶を失わないためにはどうすれば良いのかと初露なりに一生懸命に考えた。
「このまえテレビで言ってたの。コーヒーにはカフェインというものが含まれているから、コーヒーを飲むと眠くなりにくいんだって」
コーヒーはお酒と同類で大人だけが飲むものだと思っていた糢嘉は少々渋面になった。
コーヒーを飲むことにあまり気乗りしない様子の糢嘉の手を取り、初露は「今からコーヒーを飲んでみようよ!」と言って、強引に糢嘉を台所へと連れて行く。
キッチンには母親がいて夕飯の後片づけをしており、食器を洗っているところだった。
「ねえ、ママ。コーヒーってある?」
初露から言われて母親は瞬時に理解した。
初露は糢嘉の症状を少しでも抑えることはできないかと、その治療法を模索しているのだ。
コーヒーを飲むことにより根本的な解決策にはならない。
だからといって、母親は初露の優しさを無下にもしたくはなかった。
糢嘉のために奮闘する初露の姿に感銘を受けた母親は自分の旦那がよく飲むコーヒーを戸棚から取り出すと初露に手渡した。
そのコーヒーを見た途端、初露の瞳は爛々とかがやき嬉しそうに甲高い声をあげる。
「ねえ、糢嘉! 見てよこれ! モカコーヒーだって! すごいね! 糢嘉と同じ名前のコーヒーがあるんだね!」
一度も飲んだことがなく、どんな味なのかもわからない未知のコーヒーなのに、自分自身と同じ名前だというだけで愛着が湧いてきたのか糢嘉は今すぐコーヒーを飲んでみたくなった。
母親は子供の糢嘉がなるべく飲みやすいようにと、少しでも苦味を減らそうとミルクをたっぷりと入れて砂糖も通常より多めに入れたモカコーヒーを作ってあげた。
それでも完全にはなくならない苦味と酸味に最初の一口を飲んだ糢嘉はしかめっ面をした。それでも飲んでいるうちにその苦味と酸味もさほど気にならなくなり、ミルクと砂糖の助けもあってなのか、全部飲み終わる頃にはまろやかな甘味を実感しており、糢嘉の歪んだ表情も消えていた。
毎日、コーヒーを飲めば突如として襲ってくる予測不可能な眠気を追い払うことができるかもしれない。
糢嘉はこの不確かな可能性にわずかながらに望みを持ち信じてみようと思ったのだった。
朝のニュースで見た天気予報では今年一番の暑さになるであろうと言っていた。
ハンドルを握り締めて車の運転をしているのは糢嘉の父親だ。助手席には母親が座っており、後部座席には糢嘉、初露、耀葉の三人が座っている。
初露は糢嘉の双子の妹で、耀葉は今年の四月に小学一年生になったばかりの糢嘉と初露の弟だ。
糢嘉と初露の真ん中に座る耀葉は大好きな兄と姉の間に挟まれてとっても嬉しそうだ。
糢嘉、初露、耀葉の三人は仲良く談笑しながらこの小さな幸せを満喫している。
そんな愛する我が子三人を両親はほほ笑ましく見守っていた。
それでも油断は禁物なのだ。
万が一、急激な睡魔に襲われてしまった場合に備えて、糢嘉は自分のリュックの中に筆記用具と日記帳を入れることも忘れてはならないと、昨夜と今日の朝、念入りにチェックした。
過眠症。
一過性全健忘。
医師からそう告げられた糢嘉の両親はお互いに顔を見合わせると同時に怪訝そうに眉毛を斜めに曲げた。
糢嘉は落ち着いた様子で医師と両親の顔を交互に見ているだけで、自分自身のことなのにどこか他人事で、自分が病人である自覚などまるでなかった。
最近、十歳の息子である糢嘉が突然倒れることが多くなり、何か命に関わるような重く危険な病気が潜んでいるかもしれないと心配した両親は糢嘉を連れて病院に訪れた。
いくつもの病院に通っても詳しい原因はわからずじまいで、貧血、極度の疲労、そういった診断ばかりされた。
薬を処方されたがどれも効果はみられなかった。
そして五つめの病院ではっきりとした病名を告げられたのだ。
糢嘉は倒れるたびに気を失っていた。それは失神というよりも睡眠で、何度名前を呼んでも、何度体を叩いて起こそうとしてもまったく目を覚まさないのだ。
それに記憶障害も加わっているものだから両親はさらに動揺した。
しかし完全な記憶喪失とは異なり、糢嘉は自分の名前や年齢、家族、住所などはしっかりと覚えていた。
糢嘉の症状は主に過眠症が発症する前に起きた数時間ほど前の出来事だけを綺麗さっぱり忘れてしまうという少し特殊な記憶障害だった。
また、一過性全健忘は糢嘉の年齢で発病するのは非常に珍しく、再発も稀とされており、きわめて希少な疾患だ。
過眠症は、いつ、どこで、突如として発症する予測不可能なために対処法が難しい。
しかも糢嘉の場合、発症した前後に発生した出来事の記憶だけがスッポリと抜け落ちてしまうという記憶障害までも引き起こす非常に珍しい症状だ。
その病院の帰り、立っていられないほどの強い眠気に襲われてしまい、糢嘉が目覚めたときは自室のベッドの上で横になっていた。
両親は糢嘉がどこまで記憶に残っているか確かめようと糢嘉に色々と質問した。糢嘉は病院に行く前までのことは覚えていたが、病院に行って医者と会い診察を受けたことは忘れてしまっていた。
「俺、眠ってばかりいておかしいのかな? 俺は今日、本当に病院に行ったの? 何も思い出せないんだ」
その日の夜、糢嘉は寝転がりながら漫画を読んでいる初露の背中に話しかけた。
不安げな糢嘉の表情を見た初露は、一旦、漫画を閉じると糢嘉の隣に座り天使のような優しいほほ笑みを浮かべる。
「糢嘉、わたしのことはわかるんだよね?」
「うん……」
糢嘉は力なく頷くと同時に(俺の双子の妹の初露だ)と、胸中だけで呟いた。
忘れてしまうのは出来事だけであり、家族の顔と名前は忘れない。
しかし、その出来事の最中に突発的に症状があらわれてしまった場合は、その時、もしくは数時間前に初めて出会った人のことは忘れてしまう。一欠片も記憶に残らないのだ。
現状、糢嘉を診察した医師の顔も名前も糢嘉はまったく思い出せないでいる。
「糢嘉、わたし今、とっても良いことを思いついちゃった」
初露は立ち上がると意気揚々に二冊のノートを糢嘉の目の前に差し出した。
「今日から、わたしと一緒に日記を書かない?」
「日記?」
不思議そうな表情で訊き返す糢嘉に対して初露の顔は得意気になっている。
「これからはいつもノートを持ち歩いて、何か特別なことがあったり、忘れたくないことがあったらすぐにノートに書いとくの。そして、もしもまた眠くなって目が覚めたときに全部忘れてしまっていたらノートを見るの。そしたら思い出せなくても、その日、その時に何があったのかわかるでしょう」
確かに初露の提案は良いかもしれないなと糢嘉は思った。
それに自分自身の文字で書いた日記なら信用性も高いというものだ。
「あとね、コーヒーを飲んでみたらどうかな?」
「コーヒー?」
生まれたときから糢嘉と一緒に過ごしてきた初露は幼いながらも糢嘉の病気を理解しようと努めた。
糢嘉の傍には常に初露がいて、初露の傍には常に糢嘉がいた。
だから初露は糢嘉の病気と寄り添い、糢嘉を支え、糢嘉が少しでも記憶を失わないためにはどうすれば良いのかと初露なりに一生懸命に考えた。
「このまえテレビで言ってたの。コーヒーにはカフェインというものが含まれているから、コーヒーを飲むと眠くなりにくいんだって」
コーヒーはお酒と同類で大人だけが飲むものだと思っていた糢嘉は少々渋面になった。
コーヒーを飲むことにあまり気乗りしない様子の糢嘉の手を取り、初露は「今からコーヒーを飲んでみようよ!」と言って、強引に糢嘉を台所へと連れて行く。
キッチンには母親がいて夕飯の後片づけをしており、食器を洗っているところだった。
「ねえ、ママ。コーヒーってある?」
初露から言われて母親は瞬時に理解した。
初露は糢嘉の症状を少しでも抑えることはできないかと、その治療法を模索しているのだ。
コーヒーを飲むことにより根本的な解決策にはならない。
だからといって、母親は初露の優しさを無下にもしたくはなかった。
糢嘉のために奮闘する初露の姿に感銘を受けた母親は自分の旦那がよく飲むコーヒーを戸棚から取り出すと初露に手渡した。
そのコーヒーを見た途端、初露の瞳は爛々とかがやき嬉しそうに甲高い声をあげる。
「ねえ、糢嘉! 見てよこれ! モカコーヒーだって! すごいね! 糢嘉と同じ名前のコーヒーがあるんだね!」
一度も飲んだことがなく、どんな味なのかもわからない未知のコーヒーなのに、自分自身と同じ名前だというだけで愛着が湧いてきたのか糢嘉は今すぐコーヒーを飲んでみたくなった。
母親は子供の糢嘉がなるべく飲みやすいようにと、少しでも苦味を減らそうとミルクをたっぷりと入れて砂糖も通常より多めに入れたモカコーヒーを作ってあげた。
それでも完全にはなくならない苦味と酸味に最初の一口を飲んだ糢嘉はしかめっ面をした。それでも飲んでいるうちにその苦味と酸味もさほど気にならなくなり、ミルクと砂糖の助けもあってなのか、全部飲み終わる頃にはまろやかな甘味を実感しており、糢嘉の歪んだ表情も消えていた。
毎日、コーヒーを飲めば突如として襲ってくる予測不可能な眠気を追い払うことができるかもしれない。
糢嘉はこの不確かな可能性にわずかながらに望みを持ち信じてみようと思ったのだった。