スマートフォンをスピーカー設定にして、花苗と結歌璃の会話を盗み聞きしていた一人の美少年が大通りに飛び出す。
 血眼となって目指すのはかつての友人二人だ。
 何も迷う必要はない。結歌璃がご丁寧に歩道橋だと教えてくれたのだから。
 帝は過去の写真の中でしか弥宵と糢嘉の外見を知らない。
 今の弥宵と糢嘉の顔写真でもあれば効率的なのだが、二人が順平と同じ高校の生徒であるという有力な情報を得られた。
 歩道橋付近で人気の高い制服を着用した少年二人を見つければ、ほぼ確信といってもいいだろう。
「結歌璃! 今すぐそこから逃げて!」
 スマートフォンから花苗の切迫した叫び声が聞こえてきたのとほぼ同時に、険しい顔をした美男子が弥宵と糢嘉の目の前に現れた。
「弥宵! モカコーヒー!」
 みんなを笑わすのが得意なイタズラっ子。元気はつらつとした十歳の少年はなに食わぬ顔で暴力沙汰を引き起こし、協調性0、残忍性最大級の高校二年生となりそこに立っていた。
「帝だよ」
 帝がキーホルダーを弥宵と糢嘉に見せる。ガムを噛む下品な口の動きから、帝が再会を祝うつもりでないということは一目瞭然だ。
 弥宵は帝から向けられた怒りよりも糢嘉の反応に注目しており、糢嘉が今、何を考えているのかそればかりを気にしている。
 しかし糢嘉はこの状況を把握しきれていない様子で、糢嘉は今、自分は素行の悪い他校生からやっかまれているくらいの認識だった。
 弥宵と帝は顔見知りらしいが、糢嘉と帝は〝初対面〟だ。
 その初対面の相手が自分と同じ約束のキーホルダーを持っている。
 感情的に怒り狂う帝とは違い、弥宵は非常に落ち着いている。
 弥宵は淡々とした物言いで言葉を紡ぐ。
「帝、久しぶり。元気そうだね」
「そんなスカした挨拶はいらねーんだよ!」
 帝がガードレールを力任せに蹴りつけると、まるで交通事故でも発生したかのようにそれはへこんだ。
 冗談ではなく、本当に器物損壊した罪で警察に捕まりそうだ。
 帝から少し遅れて陽気に口笛を吹きながら近づいてくる一人の男。
 数年間会っていなかったのにもかかわらず、その男が誰なのか弥宵にはすぐにわかった。
 ひょうきんでおっちょこちょいなその男との再会に弥宵は歓喜する。
 だがしかし、悲しくもそう思っているのは弥宵だけだ。
 帝と冬嗣は弥宵に対してそんな温かい感情など持ってはいない。
「冬嗣! 芽羽と琴寧に連絡しろ!」
「もうしたよん。ところでさ、どっちが弥宵でどっちがモカコーヒー?」
「僕が弥宵だよ」
 落ち着いた口調で名乗る弥宵は逃げるつもりも隠れたりするつもりもない。
 冬嗣の瞳が興味深く見開き、弥宵のことを頭の天辺から足の爪先まで舐めまわすように凝視する。
「ふーん、本当だねん。順平の言ったとおりイケメンだあん」
 そこで冬嗣の視線が弥宵から糢嘉へと移る。そして密着するほどに糢嘉に近寄ると身体検査をするみたいに糢嘉の体にベタベタと触る。
「モカコーヒーはおれの知ってるモカコーヒーとはずいぶんイメージが違うなあん。まあ、五、六年も経てば見た目も変わるかあん」
 モカコーヒー。モカコーヒー。モカコーヒー。
 そのあだ名を皮肉を込めて言うのはやめてほしい。
 弥宵から呼ばれる愛情の含まれた『モカ』が徐々にかすんでいく。
 それでも追い討ちをかけるかのように帝の怒り声は休まる気配がない。
「モカコーヒー!」
 帝が前髪を勢いよく掻き上げた。
 そこから覗く額の古傷が糢嘉を困惑の悪夢へと引き戻す。
「この傷、覚えてる?」
 忘れたとは言わせない。
 長い間、綺麗な頭髪によって隠されていた帝からの恨みのこもった問いかけは糢嘉にそう伝えていた。
 それは昔、糢嘉が弥宵を守るために付けた傷だ。
 しかし糢嘉は何も知らない。何も記憶に残ってはいない。
 キーホルダー、モカコーヒーといったあだ名は覚えているのに、それに関わった友人たちだけを忘れている。

『糢嘉、これから忘れたくないことはノートに書いといてね。そしたら思い出せなくてもわかるでしょう』

 十歳の少女にそう言われたあの日から、糢嘉だけに課せられたこの規則を糢嘉は十歳のときからずっと守り続けている。