深安山での一件から週が明け、あの夜の出来事が実際に起きたのか、丸ごと夢のようなものだったのか段々と確証が持てなくなっていった。
 それくらい、祠で起きたことは衝撃的だったし、リアルからは程遠い出来事だった。
 時乃は山頂の社で意識を失ってから麓で目を覚ますまでのことは何も覚えてなかったし、何が起きたか詳しくは伝えていない。
 そして、あの日以降、神崎はあからさまに俺のことを避けていた。学校には来てるのだけど、休み時間に話しかけてくることもないし、部室にも顔を出さない。こちらから話しかけてみてもすぐに会話を切り上げれてどこかに行ってしまう。
 聞きたいことが山ほどあったし、伝えたいこともいっぱいあった。時乃にもあの時あの場所で何が起きたかきちんと伝えないといけないと思うけど、正確に伝えるためには神崎の話を聞く必要がある。
 6限の授業中、席替え隣同士から前後になった神崎の後ろ姿を見る。何か変わった様子はない。部室に顔を出さないことについて、筑後には体調不良だと伝えているようだけど、具合が悪そうな感じではない。

「よし、じゃあ今日の授業はここまで。あと二週間で期末試験だけど、今日のところはテストに出すからよく復習しとけよー」

 化学の授業が終わって、石川先生の言葉に教室がザワザワと反応する中、神崎だけはそそくさと荷物を纏めて席を立とうとしていた。

「神崎」

 声をかけると神崎はビクリとして俺の方を向く。ここ最近はずっとこんな調子だった

「宮入君。どうしたの?」
「今日も部室行かないのか?」
「うん。テスト勉強しないと」

 そう言って神崎は逃げるように教室を後にする。
 テスト勉強、とは言うけど。毎日のように部室に顔を出していた中間試験では神崎は学年でもかなりの上位に入っていたし、それこそ化学なんて学年一位だったはずだ。
 そんな神崎が今更テスト勉強の為に部活を休むとは考えられなくて。だけど、何でそんな言い訳をして帰ってしまうかがわからない。深安山でのことが後を引いてると思うけど、どうすればいいのか。

「あれ、今日も香子ちゃんいないの?」

 いつものように時乃が教室に入ってくる。あの日、社の中で息も絶え絶えな様子の時乃だったけど、特にその後遺症もなさそうだった。白い靄が出てからの記憶は曖昧らしく、俺が来たことまでは何となく覚えているようだったけど、次に目を覚ました時にはもう山の麓だったと言っている。

「ああ、テスト勉強だって」
「まだ二週間以上あるのに?」

 時乃の言葉に曖昧に頷く。一週間前からは大体の部活がテスト休みに入るから、大体の生徒はそのタイミングで試験勉強に打ち込む。オーパーツ研究会では神崎も筑後もそのあたりゆるっとしてるから、中間試験の時は一週間前になっても神崎はいつも通りの様子で、俺と筑後が時々思い出したように参考書を捲る程度だった。

「それで、ばあちゃんからのおつかいのメールでも来たのか?」
「えっと、今日はそれじゃなくて」

 時乃は少し教室を見回してから俺を廊下の方へと連れ出した。いつもは教室の中で特に気をつかうことなく話しているから、こんなことは珍しい。

「今度の土曜日の話したくて。先週、翔太に迷惑かけちゃったみたいだけど、久しぶりだしやっぱりどこか行きたいなって」

 今度の土曜日。時乃が試料を取ってきたらどこか遊びに行くという約束をしていた。結局それは深安山の出来事で流れてしまったわけだけど、時乃の視線はそわそわと動いていて、楽しみにしてくれてるんだなということが仕草からも伝わってくる。
 だけど、あの日の出来事をすべて曖昧にしたまま楽しめる気はしなかった。怒らせるかな、とは思ったけど、このまま何もなかったことにし続けるのは神崎に対しても時乃に対しても裏切りだと思うから。

「あのさ、時乃。いまちょっとだけ話いいか?」



 時乃と話した後、部室に向かうと筑後が部に備え付けの古いノートパソコンのキーを叩いているところだった。先月の坂巻山で撮影した写真などを元に地域伝承――時間を巻き戻す伝承の多さの理由――を考察してまとめている。

「今日も神崎さんはお休み?」
「ああ、テスト勉強だってさ」

 荷物を置いて何となく決まった定位置に腰を下ろす。部室にいる時は筑後の調査に関する話をするか、神崎ととりとめのない雑談をするか、永尾町の地域伝承なんかを調べることが多かった。だけど今は筑後は作業中で、神崎はおらず、呪いについても神崎が答えを持っていることが分かっている。
 何となく手持無沙汰で部室内を見回す。部室の片隅に「サワルナ」という張り紙とともに置かれていたフラスコは中身が空になっていた。あの中に“特効薬”が入っていたのだとしたら、やはり神崎は初めから呪いの正体を知っていて、その対策を作り上げていたことになる。

「そっか。坂巻山で水が溢れるのを察知した方法、聞きたかったんだけどなあ」

 あの時、神崎は「未来を言い当てられる」と言っていた。それはあくまで筑後を翻意させるための方便で、実際のところは観望天気のような予測だったと思ったけど、今となってはそのどちらもあり得るような気がした。

「そういえば、今更聞くんだけどさ。筑後がタイムトラベルに関するオーパーツとかを調べ始めたきっかけとかってあるのか?」

 今は不用意に神崎の話をしたくなくて、何となく思いついた話題に変える。

「きっかけ?」
「ああ、過去に戻りたいとか、選択をやり直したいとか。そういうのがあったのか?」
「うーん。僕自身はあまりそういう思いは無くて、どちらかといえばロマンに近いのかなあ」
「……ロマン?」

 オーパーツなんてロマンの塊以外の何物でもないのだろうけど、ちょっと予想外の答えに間の抜けた声が出てしまった。少し照れくさそうにしながらも筑後は頷く。

「先祖の霊を見るとか、気がついたら未来に辿り着くとか。そういった逸話や伝説は日本だけじゃなくて世界各地に点在してて。昔から今まで人は変わらず時を行き来することに憧れを抱いてたんだなあって思うとなんだかワクワクして」

 筑後は立ち上がると、部屋の書棚に収められている本を撫でる。それはいままで筑後が色々なものを調べ、興味を抱き、憧れてきた軌跡。

「昔から人間が抱いてきた憧れだって思うと、単なる伝説だって片付けることもできなくて。そうやって調べると、本当にタイムトラベルがあったんじゃないかって思えるようなオーパーツが世界各地に存在してるってわかって。そんな風にしてどんどんのめりこんでいった感じかなあ」

 筑後はそこまで一気に語ると、はっと気づいたようにはにかみながら頬をかく。

「そうだ。宮入君は一度だけ過去に戻ってやり直せるとしたら、どの時点に戻りたいってある?」

 首をかしげる筑後の問いに、返事に迷う。坂巻山で同じことを聞かれたときも、答えは出てこなかった。

「俺は……」

 例えば、祖父が呪いにかかったタイミングに戻ることができれば、祖父も父さんも呪いで失うことは無いのかもしれない。
 だけど、そうなったら時乃とは今みたいな間柄じゃなく、神崎や筑後と知り合うこともなかったと思う。どちらの方がいいとかって話じゃなくて、気がつけばこの空間も俺にとってかけがえのないものになろうとしていた。

――ロードの練習してるときに香子ちゃんを見かけた! ばあちゃんちの傍の河川敷!

 筑後の質問への答えに迷っていると、時乃からのショートメッセージが入る。スマホを握る手に力が籠る。
 わかってたけど、テスト勉強なんて嘘っぱちだっただった。時乃のメッセージに返信して、すぐに荷物を纏める。

「悪い、筑後。俺、行かないと」

 筑後は顔を上げて少し不思議そうな顔を浮かべるけど、慌ただしく動く俺の様子を見たからか何も聞かずにただ柔らかい笑顔を浮かべた。

「うん。いってらっしゃい」
「ああ」

 絶対に、春の陽だまりのようなこの場所に神崎を連れ帰ってくるから。声には出さずに決意を固めて部室を後にした。



 もしかしたらと思って祖母の家に寄ってみたけどそちらは空振りだった。そのまま時乃が言っていた河川敷に着くころには、空は雀色に染まりつつあった。
 神崎はまだいるだろうか。河川敷を見下ろすようにしながら土手を自転車を漕いでいく。坂巻山での鉄砲水だったり、深安山の雨だったりここ最近は水に関する碌な記憶がないせいか、嫌な予感がジワジワと湧き出してくる。

「いたっ!」

 川沿いにだいぶ上っていったところで、河川敷から川を望むように設置されたベンチに神崎が座っていた。土手から河川敷までは道はなかったけど、一気に自転車で駆け下りる。そのまま自転車を乗り捨てるようにして、神崎の元へ向かう。
 途中で俺に気づいた神崎が立ち上がり逃げ出そうとしたけど、どうにかその前にその腕を捕まえる。こころなしかその腕はどこか熱っぽかった。

「神崎、何で逃げんだよ!」
「どうしてっ!」

 神崎が叫びながら俺の腕を振りほどこうとする。こんな風に取り乱す神崎は初めてで呆気にとられそうになるけど、その腕は絶対離さないようにする。

「私のことなんてほっておいてくれればいいのに! なんで探しに来ちゃうの!」

 神崎のどこか悲痛な声の理由がわからない。だって先週は祖母の家まで来て、カップケーキなんて作って雨に滅入る俺のことを励ましてくれて。
 そんな神崎の中でどんな変化があったかはわからないけど、唯一ハッキリわかってることがある。
 この腕は、離しちゃいけない。

「神崎!」

 怯んだように神崎がビクリと震える。短い呼吸を繰り返す神崎に、できるだけ落ち着いて笑いかける。

「なあ、神崎。腹減らないか?」
「え」
「おはぎ、持ってきたんだけど」

 神崎が目をパチクリさせて、力が抜けたようにゆるゆるとベンチに座り込む。しばらく地面をじっと見つめてから俺を見上げた神崎の顔には、ちょっとだけ不器用な笑みが浮かんでいた。

「……食べる」

 神崎の隣に腰を下ろして、鞄からラップにくるまれたおはぎを二つ取り出す。一つを神崎に手渡すと、神崎は早速おはぎにかぶりついた。スンと鼻をすする音がする以外、神崎は黙々とおはぎを食べ進める。
 神崎に倣っておはぎにかぶりつくと、さっぱりとした甘さともちもちとした食感が口いっぱいに満たされる。甘いものが得意ではない俺のために工夫された味付けだった。二人で黙って橙色に照らされた川の水面を見ながらおはぎを食べて、ほっと一つ息をつく。

「落ち着いたか?」
「うん……。取り乱してごめん」

 神崎は笑おうとするけど、あまり上手くいかないようだった。また一つ鼻をすする音。

「でも、どうしておはぎなの?」
「この前、神崎がコーヒーのカップケーキ作ってくれただろ? あれでばあちゃん、お菓子作りに目覚めたみたいで。俺って全然甘い物食わなかったけど、旨そうに食べてるの見てビックリしたらしい」

 神崎が立ち寄ってるかもしれないと思って祖母の家に行ったとき、本来の目的は不発だったけど、ちょうど仕上がったところだと言って祖母からおはぎを二つ持たせてもらった。それどころじゃないと思ったけど、ほっと顔を綻ばせる神崎を見ると今は感謝しかない。

「なあ、神崎。今度土曜日、どこかに遊びに行かないか?」
「えっ……」

 神崎の見開かれた瞳は小さく震えていた。

「そんな、駄目だよ。時乃ちゃん、一生懸命試料取りに行ったんだから。ちゃんと約束守ってあげないと」
「だからさ、時乃と三人で。これ言い出したのは時乃なんだよ。さっき、深安山での出来事、俺が知ってることは全部時乃に話してさ」

 あの日、深安山の社で時乃が倒れていたこと。苦しそうにする時乃に俺は為す術がなかったところに神崎が助けに来てくれたこと。時乃を苦しめた者の正体が“呪い”であって、神崎が持っていた薬のおかげで無事に帰れたこと。
 時乃からは、めちゃめちゃ怒られた。
 なんでそんな大事なこと黙ってたんだって。そんなのなかったことにして遊びに行けるはずないだろって。全部信じて受け入れて、時乃は全く迷わなかった。

「三人で試料を取りに行ったのなら、三人で遊びに行くべきだって。知ってるだろ、神崎。時乃はそういうやつなんだよ」

 神崎の瞳は水面のようにゆらゆら揺れる。
 その口が小さく開かれて、またギュッと結ばれた。膝に手をついて俯く神崎の肩が震える。

「ダメだよ……」
「俺も時乃も、神崎に来てほしいって思ってる」
「ダメ。私にはそんな資格、ないよ……」
「資格なんて、そんなの必要ないだろ」

 がばっと顔を上げた神崎の瞳からハラハラと涙が零れ落ちる。ゴシゴシと手の平で拭うけど、涙は後から後から溢れてくる。神崎の膝に大粒の雫がポタリポタリと落ちていくのをじっと見守ることしかできなかった。

「私は、ずるい人間だから。選択を一つやり直したら、宮入君と時乃ちゃんの間に入れるかもしれないって考えた」

――昔から今まで人は変わらず時を行き来することに憧れを抱いてたんだなあって思うとワクワクして。
 部室で効いた筑後の言葉を思い出す。もう一度あの時の選択をやり直したいという思いは昔から今まで変わらなくて、もしかしたら未来でもずっとそうなのかもしれない。

「でもね、そんなの間違いだった。この前、宮入君が危険を冒してでも時乃ちゃんを助けに行く姿を見たときに気づいちゃった。私なんかが二人の間に入り込んじゃいけないんだって」
「なあ、神崎」

 そんなことあり得ないって思ってた。未だに信じ切ることはできていない。
 だけど、目の前の神崎が嘘を言っているようには見えなかった。なら、理屈とか常識じゃなくて、俺は神崎を信じたい。

「お前は、未来から来たのか?」
「……そうだよ。正確にはこことは少しだけ違う世界から来たの。信じられないと思うけど」
「いや、信じる」

 神崎は最初から俺と時乃のことを知っていて、坂巻山で鉄砲水が出ることを知っていて、呪いの正体と特効薬の存在まで知っていた。それどころか、俺の味の好みまで知ってるんだから、未来では結構親しい間柄なのかもしれない。

「神崎はさ。俺と時乃のこと、助けに来てくれたんだろ?」

 神崎はうつむきがちのままこくりと首を縦に振る。転校してきて早々に呪いの場所から試料を集めて、ちょうど二人分用意していた特効薬。転校初日の通学中に俺と出会ったこと、同じクラスになって隣の席になったこと、帰り途中で俺を見つけて祖母の家まで一緒に行ったこと。
 どこまでが偶然でどこからが必然だったのかはわからないけど、そうやってずっと先週の出来事に備えてくれていた。

「私がやるべきことは終わったから。宮入君は元の世界でできなかったことを……時乃ちゃんと、幸せに生きて」
「……神崎」

 うつむいたままの神崎の両頬に手を当てて、ちょっと無理やり顔を上げさせる。真っ赤になった目が俺から逃げようとするけど、真っすぐとその目を見つめる。こんな風に人の目を見るのは初めてで、神崎の目は不安げに揺れているはずなのに、ぼんやりと浮かんできたのは綺麗な瞳だなとかそんなことで。

「今度の土曜日、どこ行きたい?」
「なんでっ……!? 私は未来の知識を利用して、私のわがままで二人の間に……」
「未来から来たとか、信じるって決めても正直よくわからないからさ。結局、神崎は神崎だし。だいたい、神崎みたいなやつを忘れられるはずないだろ」

 神崎の瞳に再び大粒の涙か浮かぶ。

「ねえ、いいの? 私はこの世界にとって異物みたいなものだけど、ここにいて、本当にいいの?」
「何言ってんだよ」

 殆ど無意識に神崎の頭の上に手を乗せていた。
 ここ数日、神崎から避けられたように感じただけで落ち着かなくなってしまったんだ。
 神崎がいる生活の方が当たり前で、一緒にいてほしいと思っていた。

「もうさ、神崎がいない日常の方が考えられないんだ」

 神崎が出会ってから一番大きくて綺麗な笑顔を神崎が浮かべた。
 涙を湛えた瞳が夕日に照らされてキラキラと光る。

「ありがとう。宮入く、ん……」

 ガクリと神崎の体から力が抜けた。
 倒れ込む神崎を支えると、触れた部分が凄い熱を持っている。胸元の神崎は苦しそうに荒い息をしていた。
 その症状を、俺は知っている。そんな、嘘だろ。

「神崎……?」

 ひゅーひゅーと口から空気が行き来する音だけで返事はない。
 微かに光り輝いた世界が一瞬で暗がりに落ちていく。

「神崎……おい、嘘だろ神崎!」



 神崎が倒れてから、どんなふうに時間が流れていったのか、記憶はとても曖昧だった。
 救急車を呼んで、意識のない神崎とともに病院に行って結果を待ち続けて。神崎のいる病室に案内されたのはすっかり夜になってからだった。
 病室に入ると、神崎は苦しそうにしながらも体を起こして俺を迎えてくれる。

「神崎、大丈夫なのか……?」

 神崎は困ったように笑うだけで肯定も否定もしなかった。それが何を示しているのか、倒れた瞬間の神崎の様子で察しがついてしまっていた。

「宮入君とね、お話したかったから」

 神崎の手が俺を手招きする。ベッドの横のスツールに座ってみる神崎の姿は、昼に見ていたものよりずっと細くて弱々しく見えた。神崎が健気に笑えば笑うほど、胸にぽっかりと穴が開いたみたいに寂しくて、ぎゅっと苦しくなる。

「原因、わからないんだって。今は症状が落ち着いてるけど、次いつ意識を失うかわからない。そして、次意識を失ったら、多分私は目覚めない」
「神崎、お前……」
「マスクで防げると思ってたんだけどなあ。甘かったみたい」

 神崎は目を細めて天井を見上げ、ゆっくりと息を吐き出す。
 神崎の症状は知っていた。まだ幼い頃に二人、そしてこの前、同じような症状で倒れた人を知っている。

「だから、私に意識があるうちに全部お話しするね」

 決意を固めた神崎の顔に、現実を受け入れられないまま頷くしかなかった。

「私が少しだけ違う世界の未来から来た、っていうのは夕方に話したと思うけど」

 神崎の言葉に再び頷く。どうやったらそんなことできるのかもわからないけど、それはもう信じるって決めた。

「気づいているかもしれないけど、発端は深安山の“呪い”なの。私のいた世界ではね、宮入君が社に調査へ行っているときに強い雨が降ってきて、助けに来た時乃ちゃんと二人で“呪い”にかかってしまった」
「そもそも“呪い”の正体って何なんだ?」
「……呪いの正体は、風土病」
「風土病?」

 聞き慣れない言葉だった。今度は神崎の方がこくりと頷く。

「特定の地域の気候とか、土壌の生物とかが原因で起こる病気のことを風土病っていうんだけどね。深安山の呪いの正体は、あの山頂付近にだけ生息している菌類が原因でおこる病気だったの」
「菌、類……?」

 すぐに思い浮かんだのはキノコみたいなもので、それが呪いの正体だと言われてもピンと来なかった。それに山頂付近には何度も行っているけどそれらしきものを見たこともない。

「普段は土の中にいて。強い雨が降って土壌の湿潤環境が飽和状態になったときにだけ繁殖の為に胞子を出すっていう菌類でね。だから、誰も全然気づかなかった」

 神崎は少し苦しそうに胸元を抑えて何度か深呼吸する。背中をさすろうと伸ばした手はやんわりと制された。

「そして、その胞子が呼吸によって生物の肺に入ると発熱や呼吸障害を生じさせながら繁殖し、そこで一定の胞子数が集まると今度は脳まで達する。そこまで行くと毒性はかなり強くてよくて後遺症、高頻度で昏睡状態か死にまで達する。私の場合はマスクで防ぎきれなかった微量の胞子が入ってきてて、限界まで増えちゃったんだと思う」

 淡々と告げる神崎の言葉に震えが走る。他人事のように話しているけど、まさに今、神崎はそれそのものに蝕まれているはずだ。

「その菌類が生息できる環境は極めて限られていて、深安山の山頂にしか生息できないし、繁殖力は低いから永尾町にだけ伝わってきた。だから、それは“呪い”として永尾町に言い伝えられて、深く調べることすらも忌み嫌われたから、長い間治療法はもちろん原因すらわからないままだった」

 神崎の顔に小さく笑みが浮かぶ。その瞳には憧れのような色がかすかに見えた。

「それを解き明かしたのが宮入博士。貴方なの」

 神崎が伸ばした手が俺の服の裾を掴む。その力は弱々しい。

「風土病に蝕まれた宮入君と時乃ちゃんは幸い命は助かった。だけど、時乃ちゃんはそのまま昏睡状態になって、宮入君も後遺症を引きずることになったの」
「時乃が……」
「時乃ちゃんを治すために宮入君は研究を重ねて……ありとあらゆる分野の調査をして、原因を突き止めた。強い雨が降った時に広がる白い靄。あれが菌類の胞子で、永尾町の伝承では水から出てきた鬼と湯気の描写で伝わっていた、鬼の吐き出す湯気が呪いの元凶だと」

 でもね、と神崎の顔に陰が落ちる。

「治療法は見つからなかった。正確には、胞子が脳に達するまでであれば治す薬は作れたの。だけど、それだと時乃ちゃんは治せない。それで宮入博士が次に研究を始めたのが……」
「……タイムトラベル」
「そう。宮入博士は全部やりなおそうとした。二人が呪われた日に戻って選択をやりなおす。あの日、深安山に行かなければ自分も時乃ちゃんも呪われることはなかったって」

 人は今も昔も時間を行き来することに憧れを抱いている。それは、どうしてもやり直したい選択があるから。

「宮入博士は後遺症を引きずった体で研究を進め、人間の情報を波動記録として書き出して別の世界に飛ばすことで疑似的に時間をさかのぼる手法に至った。その世界は元の世界をAとしたら、A´(ダッシュ)みたいに少しだけ違う世界だから、タイムパラドックスの問題も起きない」

 オーパーツ研究会に初めて訪れたときに筑後から聞いた説を思い出す。並行世界を行き来することによる乙型のタイムトラベル。それは考え方という部分では間違いなかったらしい。

「でも、疑似的に時間をさかのぼるってことは。A´の世界で何をしてもAの世界はそのままなんじゃないか?」

 どれだけA´の世界で未来を変えたとしても、Aの世界にいる時乃は眠ったままなんじゃないだろうか。それは――本当に時乃を救ったことになるのだろうか。
 俺の問いかけに神崎は力なく笑う。

「さすがだね、宮入君。その通り、元の世界は何も変わらない。だけど、A´の世界には自分が体験してきたものとかつて自分が失ってしまった人がいて、その世界では大切な人を救えるかもしれない。宮入博士はせめてその可能性に託すことにした」

 理解しようとはするけど、想像の遥か上を行く世界の話だった。この世界の時乃を救えないから、せめて近しいけれど別の世界の時乃を救う。それは根本的な解決になっていないはずだけど、あと残されているのがその手段だけだとしたら。
 俺はどこかの世界の時乃を救うというその可能性に全てを託すかもしれない。

「私は宮入博士の研究に近しい分野が専門でね。雑誌での対談がきっかけで宮入博士の下で研究をするようになって。遂に宮入博士が提案した手法を試すところまできたの。だけど、次の問題が起きた」

 神崎の声が暗く落ちる。その視線の先には神崎にとっては過去であり未来の出来事が見えているのかもしれない。

「宮入博士の脳は胞子によってダメージを受けた状態だった。そのダメージのせいで、宮入博士の情報を波動記録として書き出すことはできなかったの」

 息が苦しくなる。どれだけ手を伸ばしても、阻まれ続ける。最後につかみかけた希望さえも踏みにじられる。原因が分かった今もそれはまごうことなき“呪い”だった。憑りついた相手を死ぬまで蝕み続ける最悪の呪い。

「それでも、宮入博士は救いたかった。別の世界で同じように苦しむことになる時乃ちゃんを。例えその場にいられないとしても、時乃ちゃんを救うことが宮入博士の救いでもあった」

 だからね、と神崎が笑う。

「私が来たの。どこかの世界の宮入君と時乃ちゃんを救うために宮入博士の代わりにね」

 俺の服の裾を握る神崎の力が強くなる。神崎の笑顔に吸い込まれる。
 どうしてこんな状態で、神崎はそんなに眩しく笑えるんだろう。
 自分の選択を一切後悔していないような、強気の笑みを浮かべられるんだろう。

「なんで、神崎は未来の俺にそこまでしてくれたんだ。未来の俺と知り合うまで、時乃とは関係なかったんだろ」
「えへへ。全部話すって言ったけど、それだけは秘密」

 神崎は小さくはにかむと、一度俺から視線を外して窓の外の方を向いた。俺の服を握るのと反対側の手で目元を擦る。

「そうやってこの世界にやってきた私は、二つのことに取り組んだ。一つ目は宮入君と時乃ちゃんの二人と知り合いとなって、呪いにかかることを防ぐこと。二つ目は、もし間に合わなかったときの為に治療薬を作ること」

 こちらを向き直った神崎に浮かんでいるのは少し自嘲的な笑み。

「当然、一つ目が第一目的だったんだけどね。二人と知り合いになるまでは上手くいったけど、そこから先は全然思い通りにならなくて。私という異物が入ったから当然なんだけど、宮入博士から聞いていた出来事が時系列なんて無視しててんでばらばらに起きていくの」

 神崎のため息はずっしりと重かった。

「本当はね、宮入君と時乃ちゃんが呪いにかかるのも8月の終わりの出来事だった。だから、時乃ちゃんが試料を取りに行くことを止めなかったんだけど、油断だったなあ。それに、特効薬もまだ試作段階で、作れていたのは二人分だけ」

 俺の服を握っていた手が今度は俺の手を掴む。震える手にぎゅっと力がこめられる。

「でも、ギリギリ間に合ったよ。二つ目に取り組んでて本当によかった。一度胞子が入ってきた身体には免疫ができるらしいから、これでもう宮入君も時乃ちゃんも呪いなんて気にせずに生きていける……」

 間に合ってない。全然間に合ってないだろ。神崎の言葉には大事なことが抜けている。
 神崎の手を必死で握り返す。こちら側に引き留めたくて、ただ必死に。

「俺と時乃だけじゃない。神崎も一緒だ。なあ、まだ神崎にだって治療薬は効果あるんだろ? 作り方を教えてくれれば俺が作るから。だからっ!」

 神崎はゆっくりと首を横に振る。

「宮入君らしくないなあ。四月に試料を集めて、やっと六月にできたんだよ? 今からじゃもう間に合わない」
「諦めるなよ! だって、それならなんで……なんで、雨が止む前に助けに来てくれたんだよ。雨が止んでからでも間に合うはずだったんだろ? それなのに、何で。自分の分の薬もないのに、雨の中助けに来てくれたんだよ……!」

 さっき神崎が自分の目元を拭っていた手が、今度は俺の目元に当てられる。指先の雫を神崎は愛おしそうに眺めた。

「雨が降ろうとする中、時乃ちゃんを助けに行く宮入君を見て、やっぱりかなわないなあって。それに、私に想いを託してくれた宮入博士のためにも絶対に失敗するわけにはいかなかったから。もし、雨が止むのを待って“何か”があったら私は自分で自分を許せなくなる。だからね、絶対に二人のことを助けたいって思ったら、体が先に動いちゃった」

 小さく舌を出してから、神崎が俺の手を自分の頭の上に導く。

「でもね。私頑張ったよ。だから、褒めてくれたら嬉しいな?」
 
 神崎の声は霞んでいた。俺の手を握る手が震えている。
 ちょっとおどけた口調で首をかしげる神崎の顔は、視界が滲んでよく見えなかった。

「ああ、頑張ったよ」

 俺の声まで震えない様に力を込めたけど、ダメだった。

「お前のおかげで俺も時乃も生きてる……全部神崎のおかげだよ。本当に、ありがとう」

 ゆっくりと神崎の頭をなでる。神崎は少しくすぐったそうにしながらも目を閉じてその感触を刻み込んでいるように見えた。

「なあ、神崎。あとは俺に何ができる? 何でも……何でもするから」
「じゃあ、朝が来るまでここで一緒にいてくれたら嬉しいな。最後に、今夜くらいは宮入君のこと独り占めしたい」
「最後なんて、言うなよ……」

 ぎゅっと神崎の体を抱き寄せる。この細い身体で人知れずどれだけ頑張ってきてくれたのだろう。もう少し早く神崎のことに気づくことはできなかったのだろうか。もっと俺の方から寄り添うことだってできたんじゃないだろうか。
 ぽんぽんと神崎の手が優しく俺の頭をたたく。

「大丈夫だよ。この二か月間、私はとってもワクワクできて、幸せで。この世界にとって私はちょっとした記号みたいな異物のはずなのに、毎日こんなに楽しくていいのかなって思ってた」

 幸せだって言いながら、神崎の声は震えていた。
 ただ神崎の震えを止めたくて、腕にそっと力をこめる。

「こうして宮入君が傍にいてくれる。だから、心配しないで。これは決して、バッドエンドなんかじゃないよ」

 神崎の手が俺の背中に回される。震える腕に精一杯の力が籠められる。

「ああ、でも。本当はもう少しだけ、宮入君たちと今の続きで青春したかったなあ。校庭の秘密の場所で一緒にお昼食べたり、そんな何気ない毎日がとってもとっても幸せだった……」

 神崎の細やかで切実な願いの言葉は、夜の闇の中に溶けていった。


「……神崎?」

 ずっと起きているつもりだったのに、いつの間にか眠ってしまっていた。
 起きたときには病室に光が差し込んでいて、早朝の淡い陽光が優しく神崎の顔を照らしている。

「神崎、おはよう。朝だぞ……」

 返事は、ない。
 神崎の体は温かいし、息をしていて、その胸は生きていることを示すように緩やかに上下している。
 だけど、わかってしまった。神崎が決して目を覚ますことがないと。

「嘘つきだ」

 神崎の手を握りしめる。その手は柔らくて温かいのに、ピクリとも動かなかった。

「神崎、お前全然満足してなかったじゃねえか。まだ、青春したいとかいってさ……」

――どこだ。
――どこでやり直せばいい。
――どこからやり直せば、神崎を救うことが出来る。

「バッドエンドじゃないなんて、勝手なこと言いやがって」

 お前は自分一人で俺と時乃の二人を救ったつもりかもしれないけど。
 これが正しい終わりだったなんて、俺は絶対に認めない。
 神崎を犠牲にして拓かれた未来なんて。何度繰り返すことになったって、こんな結末は受け入れない。
 どこか別の次元の俺は大事な人を救うために世界の理を越えた。なら、俺にだってできるはずだ。
 神崎の手をもう一度ギュッと握りしめる。その温かな手が俺の手を握り返してはくれることはない。


「こんな結末の世界、俺が絶対に越えてやる」