六月に入ると早々に梅雨が訪れた。天気予報では夕方から止むと言っていたけど、授業が終わっても教室の外ではざあざあと強めの雨が降っている。
 こんな強い雨の日はどうしても過去を連想させて憂鬱になってしまう。ここ数日ずっと雨の日が続いていたせいですっかり気が滅入っていた。

「やっほ、翔太。あれ、香子ちゃんは?」

 教室に入ってきたのは時乃だった。時乃の方は雨でも元気そうで羨ましい。
時乃は空っぽの俺の隣の席を見ると、春先より少し伸びた髪を揺らすように小さく首をかしげた。

「なんかやることができたとか言って、授業が終わった途端にバタバタ出てった」

 声をかける間もなく文字通り駆け出していく感じだった。今日だけじゃなくてここ数日神崎はそんな様子が続いていた。

「ふうん。じゃあ、今日は部活ないんだ?」
「そ。本当は普通に部活の予定だったけど、筑後が風邪ひいちまったらしくて」

 SNSのグループチャットに朝から筑後のメッセージが入っていた。学校には登校したものの、放課後病院に行くとのことで、俺と神崎だけで集まってもしょうがないので部活は休みになった。
 筑後は確かに線は細いけど、先月の坂巻山で見せたように体力もあるし、俺がオー研に入ってから体調を崩すことはなかった。その筑後が病院に行くほど体調が悪いというのは心配だったし、学校まで休むようならお見舞いにでも行った方がいいのかもしれない。

「時乃は? こんな雨でも部活あるのか?」
「当然。って言っても、グラウンドは使えないからウェイトして、雨が小降りになったらジョグして終わりって感じだけどね」

 雨が止んだらじゃなくて、小降りになったらなのか。やっぱり陸上部ってのは恐ろしい。雨の日くらい屋内で大人しくしてりゃいいのに。

「部活休みならちょうどよかったのかな。ばあちゃんがこれ買ってきてほしいって」

 時乃が差し出したスマホに映っているのはいつもの買い物リストのメール画面ではなくて、何か型のようなものが写った通販サイトだった。

「マフィン型……? なんでそんなもの。ばあちゃんが洋菓子作ってるとこなんて見たことないけど」
「さあ、ばあちゃんに直接聞いてよ。じゃ、私部活だから」

 時乃はくるっと背を向けると、パタパタと廊下に駆け出していった。
 マフィン型ねえ。スマホで調べてみるけど、ばあちゃん家の最寄りにあるいつものスーパーには売ってなさそうだ。少し遠回りする必要がある。

「マジかよ……」

 外を見ると変わらず強い雨が降っている。この中を遠回りして買い物をするのは気が進まないけど、おつかいを無視するとそれはそれで今後の夕飯に響いてくるので選択肢はない。せめて、店から出る頃には天気予報通り雨が止んでいればいいけど。
 ため息をついていても雨が降りやむ様子もない。最後に一つため息を吐き出して、諦めて雨合羽を手に教室を後にすることにした。



 最初に訪れた店にはマフィン型は置いてなくて、結局そこからもう一件遠くの店まで足を延ばして、ようやく見つけることができた。遠回りしているあいだ、雨は相変わらずざあざあと降りすさび、合羽を着ていても雨と汗でぐっしょりだった。
 ようやく祖母の家に辿り着き、自転車の軒下に避難させる。雨が降り続くなら着替えるだけ無駄かもしれないけど、せめてタオルくらい借りよう。そんなことを考えながらドアを開けた途端、甘い香りが仄かに漂ってきた。全く、そのせいでこっちは濡れネズミになったというのに。

「ばあちゃん。なんで急にお菓子なんて――」

 マフィン型を入れた袋を取り出して台所に向かうと甘い香りが強くなる。だけど、そこにいたのは祖母だけではなかった。三角巾をした神崎が俺に気づくと、チョコクリームがついた鼻の頭をぬぐってニッと口角をあげた。

「神崎、なんでここに」
「まあまあ、お客さんはゆっくり座ってなさいって。あ、それっ。型ありがとね! 後から用意してないことに気づいて困ってたんだ!」

 神崎は未だに状況を飲み込めないでいる俺の手からマフィン型を受け取ると、俺を居間の方に押し出していく。ばあちゃんはばあちゃんで俺を見ながら犬を追い払うみたいにしっしっと手を振っていた。
 仕方なくタオルだけ勝手に借りて居間に戻り汗と雨を拭っていく。
神崎がここで何やらお菓子を作っている意味が全くわからなかった。台所に続く扉はピシャリと閉じられてしまい様子を伺うこともできない。今は待つしかないらしい。

「ん、これって……」

 机の上に神崎のタブレットが置かれていた。何かレシピでも調べていたんだろうか。
 少し罪悪感を覚えながらも、好奇心に抗えずにタブレットに手を伸ばす。先月坂巻山に行った時、神崎はタブレットを見てから鉄砲水のことを言い当てた。あの時、いったい神崎が何を見ていたのかずっと気になっていた。
 念のためもう一度台所の方の様子を見るが、ドアの向こうはまだバタバタとしているようだ。お菓子作りには詳しくないけど、今すぐオーブンで焼き始めたとしてももう少し時間がかかるんじゃないだろうか。
 ロックがかかってたら諦めようと思ったけど、タブレットの画面はすんなりと表示された。レシピサイトでも出てくるかと思ったけど、画面に写っているのは新聞記事の切り抜きだった。部活動中の高校生が水難事故で亡くなったという記事。思わず眉をひそめてしまう。どうして神崎はこんな記事を見ていたのだろう。
 ページをスライドさせてみると、新聞記事以外にも雑誌の記事とかニュースのキャプチャーみたいなものが雑多に並んでいた。スクラップブックみたいなものかとも思ったけど、そもそも画像がバグっていて読み取れないページも少なくない。
 内容も様々でニュース記事とか地域伝承、それにSFのフレーズみたいなものまで、まるで統一感がない。中でも一番多かったのは難しそうな用語の並ぶ論文だけど、それが何について書かれたものなのかはタイトルを見ても想像することさえできなかった。
 そのままパラパラとページをスライドさせていくと、見知らぬ単語が並ぶ雑誌の表紙が映し出された。何かの専門誌のようで、なんとなくやり過ごそうとした瞬間、そこに刻まれていた文字に目を疑う。

『波動記録の多元転移理論の第一人者、宮入博士が抱える心の傷。かつて宮入博士の傍にいた大切な存在とは――』

 宮入博士。
 いや、別に宮入なんて苗字は俺の周りだけじゃないだろうし、偶然だろう。それにしても趣味の悪い見出しだと思う。専門誌というよりゴシップ誌みたいだ。
 それなのに、なぜか引きずり込まれるようにその表紙に見入ってしまう。そうして隅々まで見ているうちに、“それ”に気づいて体が固まった。
 その雑誌の発刊は六月。だけど、それは昨日今日じゃなく、今から十年以上未来の6月だった。慌ててページを巻き戻す。断片から読み取れた範囲だけど、最初の高校生の事故の記事から十年くらいの内容が並んでいた。それは先月位から十年くらい先までの記事。

「何なんだよ、これ……」

 未来の雑誌や新聞を想像して創られた企画ものだろうか。それにしても意味が分からないし、途中でいくつかのページの内容を欠損させる理由もないはずだ。
 だとしたら、本物? いや、落ち着け。未来の新聞や雑誌だなんて、その方がありえない。
 目の前の存在への解釈を悩んでいるうちに、台所の方がバタバタとし始めた。思考がぐるぐると際限なく渦巻く中、とりあえずタブレットを元の位置に戻す。その直後、居間と台所を遮っていた扉が開いて甘い香りが部屋を包んだ。

「できたっ!」

 神崎がお盆に乗せてもってきたのはほんのりと香ばしい色のクリームで彩られたカップケーキだった。甘さと香ばしさが鼻をくすぐる。神崎の顔はワクワクとしていて、尻尾でもついていたらブンブンと左右に振られていたと思う。

「これは……?」
「いいからいいからっ! 食べてみてっ?」

 神崎が笑顔でグイっとフォークを差し出してくる。その人差し指に絆創膏が巻いてあるのが見えた。神崎の勢いのままフォークを受け取って、カップケーキを一欠片食べてみる。
 さくり。ふわり。

「おっ、うまっ」

 甘さとほろっとした苦さのバランスがちょうどいい。クリームからも生地からもほんのりとコーヒーの風味を感じる。昔から甘さが強いお菓子は苦手なのだけど、このカップケーキの味わいは甘すぎずちょうどよかった。雨の中自転車を漕いで疲れていたせいか、そのまま夢中で食べ進めて、気がついたらカップケーキはなくなっていた。
 甘いものを食べたせいか気分が少し落ち着く。連日の雨で落ち込み気味だったり、さっきのタブレットの件でかき乱されていた精神が人心地つけた。

「ね、ね。どう、おいしかった?」

 見ればわかるけど、と聞く前から嬉しそうな神崎に対して頷く。

「悔しいけど、うまかった」

 神崎がお菓子作りをできるのは予想外だった。まあ、料理は化学だって言葉も聞くし、部室でフラスコを振っている神崎ならお茶の子さいさいなのかもしれないけど。それにしてはカップケーキ作りで人差し指に絆創膏を巻く羽目になった理由が気になるけど。
 それにしても、味のバランスが好みにドンピシャだった。そもそも俺自身がこういった味が好きだということを今初めて知った。

「カップケーキにコーヒー入れるのって普通なのか?」
「おばあちゃんに聞いたら宮入君は甘いお菓子が苦手だっていうから。もしかしたらこういう方が好きかもって思って」

 その言葉に台所の方を見ると、祖母がカップケーキの余りに手を伸ばしながら意味ありげな視線を投げかけてきていた。さっき祖母が俺に対してしてきたみたいにしっしっと手を振ってあっち向いてろと合図を送る。
 すっと神崎は俺に顔を寄せてきた。いつの間にか神崎の表情には不安のようなものが滲んでいる。

「どうかな。少しは元気出た?」
「元気?」

 別に俺は筑後と違って健康体だけど。そんなことを考えていたら、こつんと額を指で小突かれた。神崎がムッとした感じで少し頬を膨らませている。

「宮入君、自分で気づいてないなら相当だよ。ここのところすごいヒドイ顔してたんだから」
「俺が、か?」

 雨で気が滅入っていたのは確かだけど、外から見て気づけるほどだとは思っていなかった。神崎はやれやれとため息をつきながら自分の分のカップケーキを口に運び、んーっと頬に手を当てた。

「まあ、今は少しマシな顔してる」

 神崎の顔はやたら得意げだったけど、カップケーキが美味しかったのは間違いないし黙ってうなずく。なんか神崎の顔の得意げ具合が二割り増しくらいになった。

「これからしんどい時はさ。表情だけじゃなくて口にも出してね」
「……わかったよ」

 どうせ心配をかけてしまうのなら、最初からちゃんと相談した方がお互いのためにいいだろう。それに、さっきのカップケーキはまた食べてみたい。
 俺の答えに神崎の顔がにへらっと崩れる。ああ、もう。何かあったら相談するって言ってるだけなのに、どうしてお前はそんなに嬉しそうにするんだよ。



「ほら、晩御飯の足しにしな。香子ちゃんの分も」

 夕方になり祖母の家を出ようとすると、大きめのタッパーを三つ持たせてくれた。今日は神崎のカップケーキがあったから晩飯は期待してなかっただけにありがたかった。御礼を伝えると、祖母は俺の肩をパンパン叩く。

「翔太、ああいう子は大切にしなね。そもそもあんた、気づいてるかい?」
「何が?」
「あんたね、目が優しくなったよ。春頃までは周りをみんな威嚇して、時乃ちゃんを守るって必死な眼をしてた」
「そんなに?」

 そんな目をしていた自覚も、変化した感じもしない。でも、ずっと俺のことを見てきてくれた祖母が言うからにはそうなのだろうか。優しい、なんて言葉は俺ではなくて、時乃とか神崎にかけてやるべきだろうとも思う。

「自分が苦しい時に傍に寄り添ってくれる子のことはね、ずっと大事にしてやらなきゃいけないよ」
「ばあちゃん、この前はとっかえひっかえがどうとか言ってたじゃん」
「二人とも悲しませないと誓うなら、ばあちゃんは許そう」
「何言ってんだよ」

 祖母の言葉を受け流すと、もういちど料理のお礼を言って家を後にする。
 いつの間にか雨は止んでいて、橙色の夕焼けが住宅街を鮮やかに染め上げていた。ここ数日ダラダラと雨が降り続いていたせいか、いつもより澄んで眩しく感じる。

「じゃあ、帰ろっか」
「おう」

 外で待っていた神崎の隣を自転車を押していく。祖母の言葉を聞いたからじゃないけど、何となく話しかけるのが気恥しくて黙って歩いていると、つと視線を感じた。神崎が自転車の方をじっと見ている。

「ねえ、宮入君」

 突然神崎が俺の前に両手を広げて突き出して見せる。

「私は宮入君を励ますために手傷を負って歩くのが大変なのです」

 フォークを受け取る時に見えた人差し指以外にも、いくつか絆創膏が巻かれた指があった。それが神崎の努力の証だとすれば、なんだかくすぐったい気持ちもあるのだけど。

「いや、歩くのに関係ないだろ」

 指を怪我していることと歩くのが大変なことに相関性はないはずだ。

「傷口からエネルギーが抜け落ちてくの」
「んなわけあるか」
「んなわけあるのー!」

 神崎は両手をブンブン振り回して必死にアピールしている。いや、元気じゃん。
 とはいえ、神崎が何を求めているかは何となく予想がついて、大切にしろとさっき祖母から言われたばかりの言葉を思い出す。少しだけ考えて息をつく。 
 まあ、そうだな。借りを返すのなら、利息が付く前の方がいい。

「じゃあ、後ろ乗ってくか?」

 ピタっと神崎の動きが止まった。信じられないものを見るような目で俺を見てくる。

「どうした?」
「え、嘘。まさか宮入君の方からそんなこと言ってくれるなんて。明日も雨かな」
「殆ど神崎が言わせたようなもんだからな? それで、乗らないなら別にいいけど」
「乗ります! 乗りまーす!」

 先に自転車に乗ってから神崎を促すと、そろそろと慎重に荷台に腰を掛ける。支えを探した右手が迷うようにしながら俺の腰のあたりの服をギュッと握りしめた。いつもより慎重にバランスを取りながら自転車を漕ぎ出す。一瞬フラッとしたけど、自転車はすぐに快調に進みだした。

「わわっ! 二人乗りだ。えへへ、なんか青春みたい!」

 背中の方から弾んだ声。
 青春、か。自分にはそんなもの縁遠いものだと思っていたけど。
 時乃から陸上部に誘われたときのことをぼんやりと思いだして、首を横に振る。

「というかさ、なんでカップケーキを作るのに指を怪我してるんだ?」

 時乃のことから意識を変えるために何気なく聞いたつもりだけど、腰の辺りを握る神崎の手がぎくりと震える。

「いやー、実は最初は美味しい料理を作って神崎君を励まそうと思って、おばあちゃんに料理を教わってたんだけどね」

 いつの間にそんなことをしてたのか。ああ、でも、それで最近学校から急いで帰ってたのか。もしかしたら、指の怪我を極力みられないようにするっていうのもあったのかもしれない。

「ちょっと包丁と喧嘩しちゃって、ね。絆創膏が5枚目になったところで、おばあちゃんから料理はやめてお菓子作りにしようって言われて」

 祖母は普段菓子作りなんてしないからどういうことだろうと思っていたけど、そんな裏話があったのか。でも、その祖母からお菓子作りを提案されるということは、神崎の言う"ちょっと"相性が悪いはどの程度だったのだろう。

「昨日試作してうまくいったから、今日食べてもらおうと思って。それで、朝から筑後君に連絡して、おばあちゃんから時乃ちゃんに少し時間がかかりそうなおつかいを頼んでもらうようにして。それで出来上がりくらいに宮入君が来るようにしたの」
「え、筑後って体調崩したんじゃ……」
「多分、明日には元気な姿を見せてくれると思うよ?」

 どうやら俺は完全に神崎の掌の上だったらしい。
 ため息をつきながら、それでも悪い気はしなかった。俺の為に指を傷だらけにしながら頑張ってくれそうな相手なんて、時乃くらいしかいなかった。腰を握る手を通じて伝わってくる神崎の存在感が、なんだかとても大きく感じる。

「何かお礼しなきゃいけないな」

 おおっ、と背中から弾んだ声。

「あ、じゃあ。来週の土曜日にお出かけしよう? というか、そろそろ追加の試料取りに行きたい」
「試料って、深安山の? 別にいいけど、それってお礼に入るのか?」
「もちろんもちろん。やった、楽しみだなー」

 機嫌よさそうに神崎は鼻歌を奏で始める。それは聞いたことの無いメロディだった。
 でも、初めて聞くはずなのに体に馴染むというか、ずっと聞いていたくなるような曲。カップケーキに混ぜられていたコーヒーだったり、神崎は時々俺の好みをピタリと当てる。
 神崎の歌をBGMにしばらく自転車を漕ぎ進めていくと、前方から走ってくる集団がいた。車通りの殆どない広い住宅街の道だけど、一応端によって自転車を漕ぐ。

「あっ」

 前方から走ってきた集団が身に纏っていたのは俺のよく知るジャージだった。永尾高校の陸上部の集団は雑談しながら横を通り過ぎていく。
 その中に、時乃がいた。
 時乃は何も言わず、ただ走りながら俺たちをじっと見ていた。だけど、何事もなかったかのようにそのまま擦れ違い通り過ぎていく。
 腰の辺りを握る神崎の手に、ぎゅっと力が込められた。



 翌日は久しぶりに晴れて、昼休みに教室で永尾町の歴史に関する本を読んでいると、突然背後から首に手を回された。

「ぐえっ」

 呪いだなんだで俺にヘッドロックをかけてくる相手なんて数えるほどしかいない。だいたい指一本あれば容疑者を数え終わる。

「あーあ。翔太、いっけないんだー」

 予想通り、俺の首をがっつりホールドしているのは時乃だった。ギブアップの意で俺の首に回った時乃の手を数回タップすると、あっさりと解放される。一息ついてから振り返ると、腕を組んで時乃がジトっとした目で俺を見ていた。

「ダメじゃん。二人乗りなんかしたら」
「いや、あれには深いわけが……」

 ちらっと神崎の席を見るが、昼休みに入るとすぐに購買に向かってから教室には戻ってきていない。部室に行ったか、あるいは久しぶりに晴れ間が広がっているからと校庭端のいつもの場所で昼食を食べているのかもしれない。

「理由があったって犯罪は犯罪でしょ」
「犯罪って、何か大袈裟にしてねえか?」
「うるさい。証人はいっぱいいるんだからね」

 時乃の言う通り、俺が神崎と二人乗りしている様子は陸上部にまるっと見られてしまっている。いや、だから何だって話ではあるんだけど。
 とはいえ、時乃だって昼休みにわざわざ来たからには何か目的があるんだろう。

「それで、口止め料でもせしめる気か?」
「お、珍しく物分かりいいじゃん」

 時乃がニヤリと口の端をあげる。

「じゃあ、来週の土曜日予定空けといて」
「来週の土曜日?」
「うん。その日は陸上部休みだから。今度こそちょっと遊び行きたいなって」

 ゴールデンウィークに誘われたときは部活があるからと断ってしまった。
 思わず再び神崎の席を見てしまう。

「何、また部活なの?」
「いや、土曜日に深安山行って、また試料を取ってくるつもりで……」
「香子ちゃんと?」
「ああ」

 時乃の視線が険しくなる。その反応は予想してたけど、嘘をつくわけにもいかない。下手に誤魔化す方が、時乃に対して悪い気がした。
 時乃は少し考えるようにちらっと外を見る。天気を確認するような素振りの後、よしっと小さく頷いた。

「試料って四月に採りにいったあれのことでしょ? じゃあ、今日私が取ってくる。それなら土曜日は空くよね」
「は、今日? 時乃、部活だろ?」
「今日の練習メニュー、フリーだから、深安山のふもとまで自転車で行って山頂まで走って登ればそれなりに練習になるし」
「でも、試料の集め方とかは……」
「そんな難しいことしてなさそうだったし、香子ちゃんに聞いてから採りに行く」

 時乃の思いは揺らぎそうにない。こうなった時乃は中々止まらないし、無理に止めれば爆発しかねない。
 仕方ない、神崎には放課後までにことのあらましを伝えておこう。
 ここ数日では珍しく青空が広がっているのに、どことなく嵐の前のような不穏な気配を感じた。



 放課後、珍しく石川先生に呼びつけられて職員室に行っていたせいで部室に顔を出すのが遅くなった。石川先生の用事自体は大したことなくて、筑後に返し忘れていたとかいう小物を預かっただけだけど、気になるのは部室の様子だ。一応神崎には時乃との1件を話しておいたけど、ごたついたりしていないだろうか。
 恐る恐る部室のドアを開けると、神崎が一人でフラスコを揺らしているいつもの光景だった。

「あれ、筑後は?」
「何か風邪気味なんだって。嘘から出たまこと、みたいな感じかな?」

 それ、嘘つかせたのは神崎ではなかっただろうか。と、そうじゃなくて。

「時乃は?」
「ん、さっき来たよ。試料採取用のキットと使い方教えたら、すぐに山の方に向かったみたいだけど」

 神崎は俺に背中を向けたまま淡々と答える。窓から差し込む光にフラスコを掲げてじっと中を見据えているようだ。怒ってる様子はないけど、何も触れないのも落ちつかない。

「ごめん。来週の約束、いきなりすっぽかすみたいになって」

 神崎がフラスコを置いてくるりと振り返った。その顔はどこか困ったように笑っている。

「別にいいよ。試料が早くほしかったのは本当だし」
「そうかもしれないけど、来週の約束はお礼だったわけだし……」

 時乃が無事に試料を持って帰って来れば、来週の土曜日の神崎との約束は反故にすることになる。だけど、神崎は苦笑を浮かべたまま首を横に振った。

「大丈夫。私たちにはまだいっぱい時間があるわけだし、ね?」

 それで話は終わりとばかりに、神崎は長テーブルに腰を掛けてタブレットを眺め始めた。神崎がそれを受け入れてくれたのならありがたいのだけど、それはそれで釈然としない思いを抱きながら俺も神崎の向かいに座り、読みかけの本を取りだす。
 筑後がいない日は部室に来てもあまりやることがない。神崎も集中すると口数が少なくなるし、静かで穏やかな時間が流れていく。
 神崎は気にしないと言ってくれたけど、その分の埋め合わせは何か考えた方がいいよな。でも。神崎の趣味って何だろう。

 よく考えれば俺は神崎のこと、全然知らない。
 ゆっくりとタブレットをスライドさせる神崎の様子をそっとうかがう。神崎のことも知らないし、昨日観てしまったタブレットの中身についてもずっと気になっている。思い返せば、神崎は出会ったその日に俺の名前を呼んだ。なんだかんだバタバタとやってきたけど、そもそも神崎香子とは一体何者なのだろう。

「ん、あれ……?」

 いつの間にか窓の向こう側の景色が薄暗くなっていた。さっきまで青空が広がっていたのに今は一面雲が広がっている。今日の天気予報じゃ雨は降らないって言ってたはずなのに、梅雨ってこんなに天気が変わりやすかっただろうか。
 いや、待て。
 窓際に駆け寄り、空を見上げる。雲は分厚く重く辺り一帯に居座っていて、今にも溜め込んだ雨を存分に吐き出そうとしているように見えた。
――強い雨が降った日にその祠に近づくと鬼に呪われる。
 時乃は今、深安山の祠に向かっている。体の奥の方からぞわりと寒気が駆け抜けていく。
 呪いなんてもの信じてはいないけど、祖父も父さんもあの場所が原因で亡くなった。そんな場所にいま時乃がいて、雨が降り出そうとしている。
 行かなきゃ。
 だけど、走り出すより前に俺の腕を神崎がパシリと掴む。

「神崎……?」
「ダメだよ、宮入君。今行っちゃダメ」

 神崎には俺が今何を考えているかお見通しのようだった。鬼気迫る、とでも言えばいいのか強張った眼差しが真っすぐ俺を見据えている。

「でも、時乃のことほっとけない」
「それはわかるけど、行くなら雨が止んでからにしないと」
「いつ雨が止むかなんてわからねえだろ。待ってる間に時乃に何かあったら」

 その可能性を口にするだけで焦りが募ってくるのに、神崎は俺の腕を離してくれない。

「出会った日にさ、呪いなんて怖くないって神崎、言ってただろ。それなら、俺が行くのも止めないでくれよ」

 神崎は目を閉じて静かに首を横に振った。

「違うよ。私は自分が呪いにかかるのは怖くないけど、宮入君がそうなるのは耐えられない」
「じゃあ、俺だってそうだ。呪いなんて信じてないけど、時乃に何かあったら……俺は……っ!」

 さっきよりも激しく神崎は首を振る。まるでイヤイヤをする子供のような仕草だけど、その表情は痛々しいまでに真剣だった。

「ねえ、信じて。この雨はそんなに長く降らないから。雨が止んでから行っても時乃ちゃんを助けられるから」

 頭の中がバチバチとスパークする感じ。溜め込んできたものが弾けて、繋がっていく。
 あり得ないと思いながらも、いきなり俺や時乃の名前を呼んだこととか、坂巻山で鉄砲水を言い当てたこととか、タブレットに入っていた水難事故の新聞記事や未来の日付の雑誌が結びついていく。

「何だよ、それ。なんでそんなことわかるんだよ……?」
「それはっ」
「まさか、未来から来たとでも言うのかよ。だからこの先のことがわかるとでも?」

 神崎がハッと顔を上げて唇を強く噛みしめた。何だよ、その反応。まるで俺が言ったことが図星みたいな反応するなよ。ありえないはずだろ、未来から来るなんて。だって、過去を変えちまったら、お前が存在していた未来まで何もかも変わっちまうはずだ。
――宮入博士が抱える心の傷。かつて宮入博士の傍にいた大事な存在。
 タブレットの中に入っていた未来の日付の雑誌。
 なあ、神崎。お前は何者なんだよ。何をしにこの学校に転校してきて、ずっと俺なんかとつるんでるんだ。
 お前は俺にどうしてほしい。何が目的でそんなことしてるんだよ。
 神崎が深呼吸をする音が、はっきりと聞こえた。

「そうだよ。私は未来から来たの。だから、お願い。私を信じて」

 神崎の瞳は一切揺らぐことなく俺を見ている。揺らいだのは俺の方だった。
 神崎の言葉を信じて雨が止むまで待ってから深安山に行った方がいいのかもしれない。
 もし、もしも本当に神崎が未来から来たというのなら、それが正しい選択なのだろう。
――ちょっとやそっとくらい翔太が離れてったところで、どこからだって駆けつけてやるんだから、覚悟してなさい。
 いつの日か、勝気に笑った時乃のことを思いだす。
 ゆっくり待つなんて無理だった。何が正解かとかじゃなくて、俺が選ぶ答えはとっくに決まっている。

「……ごめん。やっぱり未来から来たとか言われても、わからねえよ」

 神崎の腕を無理やり振りほどいて、部室の外に駆け出す。神崎が何か言うのが聞こえたけど、何もかも振り払って走り続けた。
 これから何が起きたとしても、それは俺自身が選んだ結果だ。



 深安山に自転車を漕いで向かう途中でついに雨が降り出してきた。最初はパラパラと降り出した雨は、すぐにバケツをひっくり返したような雨へと変わっていく。焦りばかりが募る中、どうにか麓までたどり着いた。入口の近くには見慣れた自転車が一台。やっぱり時乃はここにいるらしい。
 山頂の辺りは何やら靄のようなものがかかっている。何度か時乃には電話をかけているけど応答はなかった。無事でいてくれと祈りながら、登山道に踏み入れる。社に続く道はぬかるんでいたけど、どうにか進めそうだ。

「時乃……」

 小さく息を吸って、登山道を駆けあがる。
 呪いだかなんだか知らないけど、これ以上俺から大切なものを奪わないでくれ。
 祖父と父さんが亡くなって、何を言われても傍にいてくれた大切な存在なんだ。
 ちょっとだけ手が出てくるのが早かったりするけど、かけがえのない奴なんだ。
 行く手を阻む様に雨が強く降りすさぶ。一瞬空に気を取られて、ズルリと足を滑らせた。
 まともに受け身も取れなくて、体全身泥だらけの水たまりに突っ込んだ。口の中まで泥が入ってくる。
 だから、なんだ。
 寒さも痛みも感じない。ずっと走って登ってきているのに、不思議と息苦しさもない。ただ、焦りに背中を押されて山頂へと走り続ける。
 最後の坂道を駆け抜けて、視界が開ける――はずだった。

「なんだ、これ……」

 山頂につくと、一面は白い靄に覆われている。濃い霧のように視界が遮られる。これまでこの場所には何度も来ているけど、こんな状態見たことない。
 体が覚えている道順を頼りにほぼ手探りで進んでいくと、やがて扉が開かれた社が見えてきた。ただ雨宿りをしているだけであってくれ。「そんなに必死に走ってきてどうしたの」とか言って笑ってくれ。

「時乃ッ!」

 社の中に駆け込むとそこには時乃が倒れていた。
 胸元を抑えながらぜえぜえと苦しそうな荒い息。
 知っている。俺はこの症状を知っている。そうやって苦しむ人を二人見ている。
 嘘だ。嘘だろ。嘘だと言って、笑ってくれよ。

「……翔太?」

 時乃の目が薄らと開かれる。だけど、その焦点は合ってなかった。
 それでも俺の方に伸ばされる手をしっかりと握りしめる。雨に濡れているはずなのに、嘘みたいにその手が熱い。

「時乃! 今助けるから……!」
「ダメ、だよ。翔太。帰って。翔太まで、呪われる前に……」
「そんなことできるわけないだろ! 時乃まで、失いたくないんだよ……なあ、俺に何かあったらどこからでも駆けつけてくれるんだろ? こんなところで寝てる場合じゃ……」
「大丈夫。大丈夫だよ。これからは、香子ちゃんが翔太のこと、助けてくれるから……」

 息を切らせながら時乃は近くに置いてあった試料の採取キットを俺の方に押し出す。

「違うだろ。なあ。これ持って帰って、来週は遊びに行くんだろ? だからさ、一緒に帰るぞ」
「そう、だね……どこ、行こっかな……」

 微かに開かれていた時乃の目が閉じられていく。握りしめた手の力が抜ける。

「ダメだっ、時乃!」

 ぐったりとした時乃の身体を抱き寄せる。どうする、どうすればいい。どうすれば時乃を助けられる。呪いなんてないはずだとずっと調べてきたはずなのに、こんな時に俺は無力だ。ずっと傍にいてくれた女の子ひとり救うことが出来ない。
 何でもいい。誰でもいいから助けてくれよ。都合のいい奇跡でもなんでもいい。だから、頼むよ。このまま時乃失ったら、俺は――

「助けに来たよ。宮入君」

 ガタリという音がして社の中に入ってきたのは、制服をあちこち泥だらけにした神崎だった。



 分厚いマスクを身に着けた神崎は、何か大掛かりな荷物を持って俺たちの元に駆け寄ってくる。
 呆気に取られている間に俺の腕の中から時乃を抱きかかえると、瞼を開いたりしてその状態を確かめていく。

「大丈夫。まだ間に合うよ」
「神崎。何を……」
「ごめん、宮入君。一発勝負だから、今は私を信じてそこで見守っててほしい」

 神崎は荷物の中から注射器を取り出すと、手早く荷物の中に入っていた瓶から何か薬品を吸い上げる。
 手慣れた仕草で時乃のジャージを捲り上げると、躊躇いなく注射器を打ち込んだ。シリンジの中が空になると、神崎は額を拭いながら時乃の腕にガーゼをあてる。
 一瞬の出来事に理解が追い付かない。今ので時乃は助かったのだろうか。半信半疑の状態でその様子を見つめていると、神崎は再び注射器の準備をして今度は俺の方に近づいてくる。

「神崎?」
「未来から来た、なんて言った私のことなんて信じられないかもしれないけど」

 神崎の手が俺の腕に振れる。反射的に引っ込めようとしたけど、神崎の手は俺を掴んではなさい。

「今だけでいいから、私を信じて。このままだと宮入君も呪われちゃう」

 神崎の深い色を湛えた双眸が真っすぐと俺を見つめる。
 神崎は俺に負けず劣らずびしょ濡れで、泥だらけで。一生懸命で。
 ただ一つ、頷く。神崎の表情はマスクに隠れてよくわからなかった。
 腕を差し出すと神崎は手際よく注射の準備を進める。

「少し眠くなるかもしれないけど、それはちゃんと効いてる証だから」

 もう一度頷く。チクリとした痛みは普通の予防接種と何ら変わらなかった。
 社の中を見上げる。そこに描かれている水の中から這い出して来る鬼。それは洪水や土砂崩れの擬人化ではなく、たしかに呪いの存在を示したいたのかもしれない。その正体は結局今もわからないけど。
 鬼から白い靄が噴き出すという記述もどこかにあった。今社の周りを包んでいるこの霧のようなものと関係はあるんだろうか。
 そんなことを考えているうちに意識が遠くなっていく。ふと、神崎がじっと俺を見ていることに気づいた。視界が霞む。だけど、その前に伝えないと。

「神崎……」
「どうしたの、宮入君?」
「ありがとう……。お前がいてくれて、よかった」

 マスクで口元が隠れているはずなのに、神崎が泣き笑いのような顔を浮かべたのが何故かはっきりわかった。



 夢を見ている、とはっきり分かった。俺は水の上をゆらゆらと漂っていた。
 どうやらそれは川のようで、俺の体はどんどん下流へと流されていく。
 誰かが俺の隣を流されていく。それは10年近く前に亡くなったはずの祖父だった。さらにその後を父さんが続いて流されていく。
 その先に行ったらダメだ。その手を掴もうともがくのに、体は全く動かなかった。
 その次に流れていくのは時乃だった。駄目だ。時乃まで連れて行かないでくれ。
 だけど、俺にはただ流されていくだけで。時乃がどこまでも遠くまで流されていくのをじっと見ることしかできなかった。
 そして、俺の番がやってくる。下流に視線を向けると水の中から姿を現した鬼が俺の方を見ながらにたりと笑う。

「宮入君っ!」

 そんな俺を誰かの腕が掴み、そのまま岸まで引っ張り上げる。
 それは、泣き笑いのような顔を浮かべた神崎だった。


 ハッと目を覚ますと、そこは意識を失う前と同じく社の中だった。
 いつの間にか雨は止んでいて、周囲一帯を覆っていた白い靄も姿を消していた。見慣れた社の光景だ。いつもと違うのは、壁にもたれて座る神崎と、その膝に頭を乗せて眠っている時乃の姿。
 体を起こそうとすると、まだ気怠さが残っていた。少しだけ熱っぽさもある。物音に気付いたのか神崎がこちらを見る。相変わらず口から鼻をぶ厚いマスクが覆っていて表情はわからないけど、目元の硬さが少し和らいだ気がした。

「おはよう。宮入君」
「ああ、おはよう……」

 どこか間の抜けた挨拶に、なぜだか帰ってきたという安堵感がした。スマホを取り出してみると夕暮れ前といった時間で、意識を失っていたのは1時間程度らしい。

「時乃は、大丈夫なのか?」
「うん、今は眠ってるだけ」

 神崎が時乃の髪を優しくなでる。確かに、ここに到着した時の息苦しそうな表情ではなく穏やかに眠りについているようだった。ほっと息をつくと、少しずつ頭が冴えてくる。社の天井を見上げると、あの鬼の絵。

「なあ、神崎。さっきまでこの辺りに広がってた白い靄は……」

 神崎は膝元の時乃から顔を上げると、ゆっくりとマスクを外す。なぜかその口元は怯えるようにきつく結ばれていた。
 二、三度口を開きかけてはやめるということを繰り返して、小さく深呼吸をするようにしてから改めて口を開いた。

「そうだよ。あれが呪いの正体」
「呪いの、正体……」

 この町の歴史として書かれていた、湯気とともに姿を現す鬼。そして、この社の天井に描かれた水から出てきた鬼。
 深安山に大雨が降った時に顕現する呪い。社の周りに広がっていた白い靄。

「さっき、俺と時乃に打ったのは……」
「呪いの特効薬、ってところかな」

 神崎はここまで持ってきた荷物に視線を向ける。特効薬。腕を見ると注射器の後が微かに見て取れた。穏やかに寝息を立てている時乃を見れば、それに効き目があったことは間違いない。

「なあ、神崎」
「うん?」
「なんでお前は、そんなこと知ってるんだ?」

 神崎はここで採ってきた試料を使ってずっと呪いの正体を調べていたはずだ。特効薬なんて存在、一足とびが過ぎる。ならばなぜ、神崎がその正体を知っていて、特効薬なんてものを持ち合わせていたのか。

「お前は、本当に――」

 そこから先は言葉にならなかった。
 なあ、神崎。お前は本当に未来から来たのか。
 それを聞いた瞬間に、俺たちの関係が全部変わってしまう気がした。

「宮入君、日が暮れないうちに降りないと」

 神崎は少し苦しそうに笑って社の外に視線を向ける。空はオレンジ色に染まり、昼と夜の境の曖昧な色合いを醸し出していた。深安山には街灯なんてものはないから、日が落ちてしまえば足元が見えなくなって降りることはできなくなる。

「時乃ちゃん、まだ目を覚まさなさそうなんだけど、頼める?」
「……何とかする」

 はぐらかされてしまった気がするけど、早く麓に降りないといけないのは間違いなかった。眠り続ける時乃をそっと起こして背負うと、服越しに温もりを感じた。白い靄の中、最後に握りしめた手の不穏な熱っぽさはもう残っていない。

「じゃあ、私が先導するから。足元に気をつけてね」

 山を下りていく間、神崎とは一言も口を利かなかった。時乃を背負った状態で雨でぬかるんだ山道を降りることでいっぱいいっぱいだったし、そうでなくても神崎と何を話せばいいのかわからなかった。
 途中小休止を挟みながら、いつもの倍くらいの時間をかけて山を下りる頃にはすっかり暗くなっていた。山の麓について街の灯りが見えるとドッと力が抜けるようだった。

「ん、あれ……」

 背中の時乃がもぞもぞと動き出す。
 終わった、とようやく思えた。時乃は無事で、呪いの正体は神崎が知っている。
 ずっとずっと探してきたものが、ようやく見つかる。

「じゃあ、私はバスで帰るから。宮入君はちゃんと時乃ちゃんを連れて帰ってあげてね」
「あ、おい、神崎」
「もう少しで最後のバス来ちゃうし。二人は自転車で帰らないと明日が大変でしょ?」

 神崎はそう言いながら既にバス停の方に向かって歩き出した。
 聞きたいこととか言いたいことは色々あったけど。

「ちょっと待てって」

 小走りで神崎に追いついて、髪に着いたままになっていた泥をそっと払う。
 少しくすぐったさそうに神崎が目を細める。

「ありがとう、助けてくれて。神崎がいてくれてよかった」

 これだけは、今ちゃんと言っておきたかった。神崎がどこから来たとか、何をしに来たとか今だけは全部どうでも良くて。
 神崎は、時乃と俺のことを助けてくれた。今はそれだけだ。
 じわりと、神崎の瞳が滲む。
 頷くように下を向いて目元をゴシゴシと擦って、顔を上げた神崎ははにかむように笑っていた。

「どういたしまして。翔太さん」
「えっ」

 神崎はパッと踵を返すと、今度こそバス停の方に走り去ってしまう。追いかけたい気持ちもあったけど、背中の時乃が覚醒する気配がして、結局ただその背中をじっと見守った。
 神崎の姿が見えなくなるのとほぼ同時に、ん、と小さく漏れた時乃の声が聞こえてくる。

「あれ、私。どうして……?」
「目、覚めたか?」
「うん……」

 肩越しから聞こえてくる時乃の声はまだどこかフワフワしてて、ちゃんと目を覚ますにはもう少しだけ時間がかかりそうだった。

「あのね、翔太。私、夢を見てた」
「夢?」
「うん。夢の中でも私は寝ていて。近くで翔太が見守ってるから起きなきゃって思うんだけど、全然起きられなくて……」

 時乃の手が存在を確かめるように俺の服をぎゅっと握りしめる。

「ずっとずっと眠ってて、もうこれから先ずっとこのままなのかなって思ったら、すごい怖くなって。だけど急に眩しくなって、『助けに来たよ』って女の人に引っ張り上げられて。私はこの世界に帰ってこられた」

 誰だったんだろう、と呟く時乃の声に俺は答えることができなかった。