四月末、ゴールデンウィーク初日の土曜日。
自分の部屋で本を読みふけっているうちに首が凝ってきて顔をあげると、既に夕方になっていた。ひとつ息を吐き出して、読みかけの本を机の上に積む。連休の間に色々読み進めたくてこの永尾町の歴史や伝聞を記した本をありったけ図書館で借りてきたのだけど、目当ての情報は殆ど見当たらなかった。
唯一それらしいものは、明治のはじめ、深安山付近で大水が発生したとき、大水の中から湯気とともに鬼が出てきてそこにいた村人を呪っていったという記述だった。やはり深安山の社に描かれた鬼は洪水などの水に関する災害を表したものなのだろうか。
それなら、呪いと鬼の関係は。それに、鬼が出てくる時に溢れだしてきた湯気というのは一体何を例えているのか。
ピピピピピピピッ
思考がぐるぐると巡っていたところに、スマホに着信が入って我に返る。スマホの画面に表示されていたのは綾村時乃の名前だった。
「もしもし、翔太? 今大丈夫?」
時乃の声の向こう側から微かに雑音が聞こえる。どこか外から電話をかけてきているのだろうか。
「大丈夫だけど、どうした?」
「大した話じゃないんだけどね。今度の水曜日暇? 部活休みになったから、久しぶりにどっか出かけない?」
そういえば今年に入ってから時乃と一日がかりでどこか出かけるみたいなことはなかった。別に特に理由があったわけじゃなくて、時乃の部活が忙しかったりして何となく出かけるタイミングがなかっただけなんだけど。
水曜日、ゴールデンウィークの後半か。壁にかけたカレンダーに目を向けると、その日には赤ペンで印をつけていた。
「あ、悪い。その日は丸一日部活が」
オーパーツ研究会には未だに仮入部のままではあるのだけど、ばあちゃんからのおつかいがない日は部室に顔を出すようにしていた。何をするってわけでもなく、筑後や神崎とオーパーツについて話をすることもあれば、三人別々に思い思いのことをしているときもある。
筑後は本当に俺の噂のことは知らなくて、オーパーツ研究室の部室はそこはかとなく隠れ家のように落ち着く場所になろうとしていた。。
「部活かー。そっかー」
一応、時乃にもオーパーツ研究会に仮入部したことは伝えていて、そのおかげかあっさりと納得してくれたようだった。時乃から何度か陸上部に誘われたのを全部断っていたのに、あっさりと別の部活に入ったことに罪悪感を覚えていたけど、そんな風に考えてしまう俺よりも時乃はずっと大人なのかもしれない。
ピンポーン
インターホンが鳴る。その音が不思議なことに二重で聞こえた。普通に家の中で響く音と、電話の向こう側から聞こえる音。
まさか。
急いで玄関に向かってドアを開けると満面の笑みを浮かべた時乃が立っていた。部活帰りなのか上下とも陸上部のウィンドブレーカーを纏っている。
「ふうん、ジャージ着てるなんて準備がいいじゃない」
別に家の外に出る予定がないから部屋着替わりに着ていただけだけど、嫌な予感がびりびりとする。とっさにドアを閉じようとする前に時乃の手が俺の腕をがっしり掴む。
「ちょっと面貸しなさい」
時乃の顔は笑っているけど、目を細めてじいっとこちらを見てくるのは悪い笑みだ。
時乃が“俺よりずっと大人だ”とか考えたばかりだった気がするけど、前言は撤回した方がいいかもしれない。
*
目の前を走る時乃のフォームは一切ぶれないけど、こっちは既に息が乱れてきた。
時乃によって家から強制的に連れ出された俺は、そのまま家の近くの湧水公園に連れていかれて一周二キロの外周を走らされている。時乃と一緒に走ることは昔から時々あったけど、今日の時乃はいつもよりペースも早いし、三周目に差し掛かるといよいよ俺の体力では限界が近かった。
「時乃、少しっ、ペース落とせっ!」
返事はなかったけど、時乃はペースを下げてくれた。それで一息付けて、色々と考える余裕が出てくる。どうして急に時乃が俺を走りにつれ出したのか。別に神崎みたいに夕暮れ時の公園を走ることで「青春だ!」とかしたいわけではないだろうし。
「なあ、悪かったよ。何度も時乃から陸上部に誘われてたのに、他の部活に入ったりして」
「別に、気にしてないし。どの部活に入ろうが翔太の勝手じゃん」
言葉の内容と声がまったく一致していない。ツンとした声がズシリとのしかかってくる。
「怒ってないし」
自分に言い聞かせるように、時乃が続ける。
「時乃」
「別に翔太がいつの間にか他の部活に入ってたこと怒ってるわけじゃないし!」
足を止めて振り返った時乃は肩で大きく息をしていた。それが走ったせいではないことはわかってる。ハッとしたように目を見開くと、小さく俯いて髪をグチャグチャと乱暴にかき回す。
「怒ってないっていうのは本当だから。香子ちゃんが来てから翔太の居場所が少しずつ増えてるのは、いいことだって思ってる」
顔をあげた時乃の顔にはいくつもの表情が浮かんでは引っ込んでいく。不安とか困惑とか、苛立ちとか。その瞳がゆらゆら揺れて震えていた。
「だいたい翔太が体育会系じゃないっていうのは私がよくわかってるし。でも、なんか翔太が急に遠くなったように感じちゃって。それでイライラしている自分がわけわかんなくて、そんな自分に一番イライラしてっ……」
時乃はそこまで言ってからまた前髪を握りしめて、行き場のないため息をつく。
「私の方こそごめん。いきなりこんなことに付き合わせて」
時乃と違って息も絶え絶えになってる俺からすれば、苦笑いを浮かべてみるしかなかったけど、せめて首を横に振る。呪いのことについて調べるのに根を詰めてしまっていたからちょうどいい気分転換だったし、何より時乃には部活のこと、ちゃんと話したいと思っていた。
「でも、これだけついてこられるんだったら、やっぱり陸上部でもやってけると思うんだけどなあ」
「俺には時乃みたいな向上心とか、速く走れるようになりたいって熱量が足りないから」
一応それなりに走れるようになったのは、今日みたいに時乃の練習にたまに付き合っているうちに自然と身に着いただけだ。だから、もっと速くだったり、長く走れるようになりたいなんて領域には辿り着けそうにない。
「……ねえ、翔太。私が陸上部に入ったか、知ってる?」
「それは、速く走れるようになりたいからって」
時乃自体がずっとそう言ってきたし、この前深安山の社でも神崎から聞かれてそう答えていたはずだ。俺の答えに時乃はすっと首を縦に振る。
「じゃあ、私が速く走れるようになりたいって思うようになった理由は?」
今度はすぐに答えることはできなかった。時乃が陸上を始めたのは中学からだけど、速く走れるようになりたいってことしか聞いていなかった。だから、てっきりそれ自体が目的だったと思っていたけど、そうじゃなかったのか。
俺が答えられないことに時乃が不満を抱くそぶりはなくて、ずっと強張っていた顔から少し力を抜くと俺に背を向けてゆっくりと歩き出した。
「小学校の頃さ。一度だけ私がいじめられそうになったことあったじゃん」
「……あったな」
それは、ちょっとだけ苦い記憶だ。祖父と父さんを亡くした後、それが呪いのせいだという噂は小学校でもあっという間に流れていった。昨日まで仲が良かった友だちが俺から距離を置き、子どもらしい無邪気でえげつない嫌がらせが降ってくる。
気がついたら、俺と普通に接してくれるのは誰よりも付き合いの長かった時乃だけになっていた。でも、そうなると初めは俺だけに向いていた矛先が、今度は時乃に向こうとした。
「翔太さ。自分の時は何されても黙って耐えてるばっかりだったのに」
小さく振り返った時乃がニッと笑う。その笑顔は夕日で紅く照らされた。
「私が嫌がらせを受けた途端、突然ガキ大将に向かっていって」
そのまま時乃が当時のことを思いだしたかのようにクスクスと笑い出す。全然愉快な話じゃないはずなのに、時乃の笑顔は晴れやかだった。
「あの頃の翔太、ひょろっちくて。すぐにボコボコにされちゃって。だけど、相手がビビって私に手を出さないって言って逃げ出すまで何度も何度も向かっていって」
当時の顛末はよく覚えている。俺と一緒にいる頃をからかわれた時乃が言い返すと、クラスのガキ大将的な存在が時乃に手をあげようとした。そこからは無我夢中で、ガキ大将に届かない拳を振り回し続けた。
結局あの頃の俺の拳は一発もガキ大将に当たらなかったけど、それからは少なくとも俺が見ているところでは時乃がからかわれるようなことはなくなった。
「あの時の翔太、かっこよかったよ。優しくて、強くて……」
小さく目を閉じた時乃は小さく息を吸い込んで、目を開けると同時に表情を崩す。
「それがどうして、こんなに生意気でひねくれたふうに育っちゃったんだか」
「うるせえ。近くにいた相手の影響受けたに決まってるだろ」
「何。私のせいだっていうつもり?」
「他にどう聞こえたんだよ」
「ほら。そうやってまた生意気なこと言う!」
ピタリと時乃が足を止めて、時乃との距離がギュッと詰まる。クスリと笑ってからくるっと振り返った時乃は両手を後ろに組んで真っすぐ俺を見上げる。
「でも、翔太が助けてくれたあの時、決めたの。この世界が翔太の敵になるんだったら、私はどこにいても翔太のところまでダッシュで駆け付けられるようになろうって。今度は私が翔太のこと守るんだって。今思えば単純だけど、それで陸上部に入った」
「……それなら、時乃はこれまでずっと、ちゃんと俺のこと守ってくれてたよ」
中学にあがったころまではなかなか背も伸びなくて、呪いの件も相まって俺はイジメられる側だった。
そうなるはずだった。
そうならなかったのは、一番最初に俺をからかってきた奴が時乃にボコボコにされたからだった。
おかげで友達と呼べるような存在はほとんどできなかったけど、学校に通うのはそんなに苦じゃなかった。周りより幾分遅れて成長期に入ると自分で思ってた以上にデカくなって、それからはなおさら直接的に嫌がらせされることはなくなった。
「うん。だから、これからも」
時乃がぎゅっとグーを作って俺の胸をぐっと押す。
「ちょっとやそっとくらい翔太が離れてったところで、どこからだって駆けつけてやるんだから、覚悟してなさい」
勝気に笑う時乃は水平線に沈みかけた夕日に照らし出されて眩しくて。
「ありがとな、時乃。幼馴染がお前でよかった」
伝えられる言葉は少なかったけど、その五文字に全てを込める。
時乃の顔がしばらく固まったかと思うとふにゃりと崩れて、それを隠すようにバタバタと俺に背中を向けた。
そして、そのままヨーイドン。一気に駆け出した時乃の背中を慌てて追いかける。
「じゃ、完全に日が落ちる前に後一周ね!」
「は!? なんでそうなるんだよ!」
「いいじゃん。水曜日丸一日分をたった一周で済ませてあげてるんだから、感謝してよね!」
「無茶苦茶だろ! ってか、ここまでの二周はノーカンかよ!」
そうは言いつつ、さっきまでより速いペースで走る時乃の後をほとんどダッシュみたいに全力で追いかける。部活に入ることを決めてからずっと靄のように広がっていたモヤモヤはすっかりなくなっていた。ただ走るってそれだけのことが、嘘みたいに心を軽くしてくれる。
もしどこかで一度選択をやり直せるのなら、時乃に誘われるまま陸上部に入るっていうのも案外本当に悪くないのかもしれない。
*
次の水曜日の朝早く。昨日まで雨が降っていたから空模様が不安だったけど、今日は朝から雲一つない青空だった。
「おーし、全員揃ってるな。ちゃっちゃか乗り込め」
オーパーツ研究会の面々――っていっても3人だけど――で高校の正門で待っていると、石川先生の運転するやたらゴツイ車が荒っぽく停まる。石川先生の言葉に筑後が助手席、俺と神崎が後部座席に乗り込むと石川先生の車は外見に似合わずスムーズに走り出した。
今日はオーパーツ研究会で遠征――筑後が言うところの調査のためにここから車で1時間位離れたところの山に向かうことになっている。その運転をするのが石川先生というのは俺や神崎の担任だからというわけではなく。
「まさか自分が顧問やっている部活を俺たちに紹介してたとは思ってませんでした」
「ガハハ、そろそろお前らも大人の汚さを学んでいい頃だろう?」
少し皮肉っぽく言ったつもりだったけど、意に会することなく石川先生は豪快に笑って受け流してしまった。石川先生はオーパーツ研究会の顧問で、つまり、俺たちは実質的に部員一人で廃部寸前の部活に送り込まれたわけだ。
「本当に。部室が今は使われてない第二化学準備室の時点で気づくべきでした」
「いや、俺が着任する前からオー研の部室はあそこだったからそれは偶然だ。それに、あそこは別に元化学準備室じゃなくて、今も現役の化学準備室だぞ?」
「え」
「予備の化学準備室として現役だ。まあ、普段実験で使う薬品は第一化学準備室に保管してるから、第二化学室にあるのは化学部がたまに使う薬品とかを保管してる感じだな」
「そこを部室として使うのって問題ないんですか?」
「まあ、劇薬の類は置いてないし、鍵は俺が管理してるしな。実験器具は壊さなければ別に使っても構わねえし、お前らなら薬品抜き出して使うこともないだろうしな」
石川先生は筑後に全幅の信頼を寄せているようだけど、本当にそんな管理でいいのだろうか。助手席に座る筑後の肩が微かに震えた気がする。
それはさておき、実験器具は自由に使っていい、か。神崎が熱心に部室に通っている理由が少しわかった気がした。
「ああ、それでこの前行った時には液体の入ったフラスコが置いてあったのか」
「うん。せっかくだから私がちょっと使わせてもらってる。“あれ”の分析とかでね」
隣に座る神崎の言葉に納得する。連休前に部室に顔を出したときには「サワルナ」と張り紙がされたフラスコがいくつか並んでいたけど、神崎の仕業だったのか。アレ、というのは4月に深安山で神崎が採取していた土や木片だろうか。成果を聞かないからてっきり諦めたのかと思っていたけど、まだチャレンジしてくれていたらしい。
「へえ。意外とシンプルな実験器具だけでも分析とかできるんだな」
何気なく口にした言葉だけど、助手席に座る筑後が先ほどより大きめにビクリと震えた。
そういえば、部室のフラスコは何やら泡立っていた気がする。たとえば土と水を混ぜるだけであんな反応するだろうか。石川先生は上機嫌で車を運転しているけど、管理者としての責務を今まさに問われているところかもしれない。
とはいえ、神崎がやっているのは呪いの正体を解き明かすための行為で。部室にある薬品の中に劇物の類は無いらしいし、黙っていても問題はなさそうで。
「創意と工夫で、意外とどうにでもなるよ?」
「ふうん、そんなもんか」
神崎の創意と工夫がどこに向けられたものかはわからないけど――例えば部室の薬品棚のピッキングとか――その言葉をさらりと受け止めてみせると、助手席の筑後が露骨に安堵の息をついたのが見えた。
「ま、何にせよ、だ。オー研が賑やかになってよかったよ。な、筑後?」
「は、はいっ!」
筑後の些細な変化など気にも留めずに機嫌よさそうに笑う石川先生の車に揺られて、俺たちは目的地へと向かっていく。
*
車に揺られること約一時間、目的地である「坂巻山」に到着した。登山道の入口には車が数台泊まれる駐車場があったけど、連休中にも関わらずそこにあるのは石川先生の車だけだ。
ここを調査場所に選んだ筑後が言うには、特に高い山でもなく登山や観光で訪れる人はほとんどいないらしい。確かに、周囲はただただ鬱蒼とした森が道のギリギリまで迫ってきているだけで、人を惹き付けるような何かがあるようには見えない。
「この山は携帯の電波入るらしいから、何かあったら電話してくれ」
「石川先生は中に入らないんですか?」
「全員まとめて遭難なんてなったら目も当てられないからな。それに」
石川先生は大人びた表情でぽっちゃりを少し行き過ぎたお腹周りをぎゅっと握る。
「運動不足の権化みたいな俺がお前らと一緒に登ったら、俺が一番初めに遭難する」
なぜかわからないけど石川先生は自信満々だった。筑後は筑後で慣れっこなのかそんな先生の発言を気にすることなく「行こうか」と車から荷物を降ろして先頭に立つ。普段は人見知りで引っ込み思案なところがあるけど、本領のフィールドワークで気合が入ってるのかもしれない。
俺と神崎も筑後に倣って荷物を背負うと、筑後に続く。登山道に入ると深安山より幾分マシな細い道が山の上へと続いていた。水はけがいいのか昨日まで雨が降っていた割に足元はしっかりしている。
「まずは山頂に向かって、そこから山の向こう側に続く道を降りると沢に辿り着くんだ。そこがひとまず今日の目的地だよ」
先頭を行く筑後は時々後ろの俺たちを気にしながらも身軽に山を登っていく。人のことをとやかく言える立場じゃないけど、すらりと細身の筑後が苦も無く山を登っていくのは少し意外だった。好奇心が背中を押しているのか、あるいは経験値がすごいのか。
「ねえ、筑後君。今日はどうしてこの山を選んだの?」
「坂巻山という山の名前は昔から伝わっているものらしいんだけど、どうやら昔は坂の字が違ったらしくて」
振り返った筑後が指で空中に文字を描く。
「昔は逆に巻くって書いて逆巻山って呼ばれてたんだよ。そんな坂巻山には死んだ身内にあったとか、昔の英雄の亡霊を見たとかっていう『時を遡る』言い伝えが多く残ってて」
筑後は背負っていたリュックを体の前側で抱えると、中からタブレット端末を取り出す。何度かスライドさせると古い絵の画像を見せてくれた。それは初めてオーパーツ研究会に訪れたときに見た虚舟――蓋つき丼みたいな船の絵だった。船は水辺に浮かんでいるようで、やはり一人の女性が興味深そうにあたりを見渡している。
「ここでも虚舟の伝承が伝わってるんだよ。あまりこの辺りは人が立ち入らないらしいから、昔のものがそのまま残っている可能性はあるし。時間を逆巻きしたような言い伝えがいくつも残る理由が見つかるかも」
俺は未だにタイムトラベルなんてものは信じていないけど、筑後の話には不思議と興味を惹かれる。理性的なところでは筑後の話は“それらしい話のそれっぽい部分”を集めただけの偶然に見せかけた必然の集合体だと思っているけど、それを実際に確かめてみるという姿勢が好きなのかもしれない。
「つまり、この山にはタイムマシンが眠ってるんだね!」
俺以上に神崎はノリノリのようだけど。
「そう考えるとワクワクするよね。まあ、実際は何で坂巻山には時を遡る言い伝えが多いのかってヒントが見つかったらいいなってくらいだけど」
興奮した様子の神崎に筑後がはにかみながら答える。一見、噛み合わなさそうなタイプの二人に見えるけど、未来とかタイムトラベルの話になると驚くくらい波長が合うらしい。なんだか置いていかれているような感じを覚えつつ、現実でまで置いていかれない様にスイスイ登っていく二人についていく。
「虚舟の絵画からして、何か残っている可能性があるのは沢から下流の方だと思うから。今日は沢までついたら川を下っていくつもり。沢を集合地点にしておけば途中で疲れてもそこでまた集まれるしね」
この前深安山を登った時に分かったけど神崎も意外と体力があるし、筑後は時々振り返りながら先頭を余裕で歩いている。もし最初に脱落するとしたら俺だろうけど、こんな人気のない山の中を一人で待ち続けるのはそれはそれで疲れそうだ。
そこからも筑後のオーパーツに関する話を聞きながら30分くらい登ったところで山頂に辿り着き、小休止をしてから登ってきたのとは反対側の斜面を下る。10分くらいすると水の音が聞こえてきて、そこから5分くらい進んだところで視界に澄んだ青さを湛えた沢が姿を見せた。
「うわあ、綺麗……!」
神崎の口から感嘆の声が漏れる。小さな沢だとは思うけど、青みがかった水は木漏れ日の光でキラキラと穏やかに輝いていて、どこか神秘的な気配さえ纏っている。それこそ、ここで不思議なことが起きていたとしてもありえそうだと考えてしまうくらいに。
「ちょっと休憩してから、本格的に調査を始めよっか」
筑後の言葉で俺たちはそれぞれ手近な倒木や石に腰を掛けて持ってきた軽食を食べたり辺りを写真に収めたりする。沢に水が注ぐ音が心地よいゆらぎを奏でていて、そこに鳥の囀りや木々を通じた風の音が彩りを加える。正直、ここで帰ったとしても十分価値がある場所だと思う。
連休中は借りてきた永尾町の文献を読むのにほとんどの時間をつぎ込んでいたから、少し塞ぎがちあった気分もいつの間にか自然に溶け込んでいた。
10分くらいそんなふうにリラックスして、最初に立ち上がったのはやはり筑後だった。
「ここからはメインの登山道じゃなくて脇道に沿って川を下るから。無理をしないで、もし途中ではぐれたりしたらここに戻ってきて落ち合う感じで。じゃあ、行くよ」
俺たちが立ち上がって荷物を背負うのを見て、筑後は登山道から外れた獣道の方に進んでいく。一気に悪くなった足場に慎重に筑後の後を追う。筑後は少し進んでは周囲の写真を撮ったり、何かがないか探るようにあたりを見渡したりと、止まってはまた進むということを繰り返していた。
それでも結構ペースは速くて、俺は周囲を見る余裕もほとんどなくひたすら筑後の背中を追って山を下っていくこととなった。
*
そこから一時間くらい川を下っていって、少し開けたところで昼食となった。深い森に囲まれて水のせせらぎを聞きながらの弁当――ばあちゃんが朝から俺と神崎の分を用意してくれた――を食べるのは童心に帰ったみたいで不思議な気持ちだった。
「わわっ! タコさんウィンナーだ! 懐かしー!」
神崎が目をキラキラさせて弁当に箸をのばす。ばあちゃんが作ってくれたのは今は逆に珍しいくらいの定番の弁当でそれがまた懐かしさを引き立ててくれる。海苔で包まれたおにぎりにかぶりつくと歩き続けた体に塩味が染みわたった。
俺と神崎が弁当に舌鼓を打つ一方で、筑後だけは浮かない顔だった。
「予定では、ここで引き返して入口まで戻るんだったか?」
「うん。そうだね……」
頷く筑後の声に元気はない。その理由は想像がついていた。
ここまで降りてくるまでの一時間、筑後は精力的に辺りを調べながら来たが、目ぼしい発見は一つもなかった。筑後自身が「高校生がすぐに何かを見つけられるなら苦労はしないよね」というスタンスだったし、何か出てくれば儲けものくらいのはずだけど、それにしては筑後は気落ちしている。
「あのさ、もう少しだけ降りてみたらダメかな?」
「それ、何か見つかるまできりがないんじゃないか?」
あと30分降りて何も見つからなかったとき、そこですんなり引き返せるだろうか。もう少し行けば見つかるんじゃないかとどんどん深みにはまってしまう気がする。こういう時は潔く諦めた方がいいと思うのだけど。
「何かの欠片でも見つかればラッキーだって言ってただろ。急にどうしたんだよ」
「それは……」
筑後はしょんぼりと俯いてしまって、チクリと罪悪感にかられる。普段俺の周りにいるのは時乃とか神崎とか我が強く突っ走ってくタイプで、筑後みたいな控えめで一歩引きがちタイプはいなかった。ここは神崎に対応を任せたいけど、神崎は弁当に夢中になっている。俺もそんなに人に気をつかうタイプではないと思うけど、ここまでマイペースなのは羨ましい。
「ここは言い伝えの確度も高いし、絶対に何かある気がするんだ。うん、何か……時間を行き来した痕跡のような何かが、きっと」
「言い伝えもさ。先祖と出会ったとか、有名人の霊を見るって類の話は各地で似たような話が伝わってるだろ? 坂巻山っていう名前に引っ張られて、本質を見失ってないか?」
「それは、そうだけど……」
筑後が再び押し黙る。そうういう民話とか伝承の話は筑後の方が詳しいだろうし、別にこの場で筑後を論破したいわけじゃない。ただここで引き返すべきだと思っているだけなのに、どうすればうまく筑後を説得できるのだろう。
「でも僕は、宮入君に少しでも信じてもらいたくて。だから――」
「あっ!」
さっきまで弁当に夢中だった神崎がいつの間にかタブレットを片手に声をあげた。それから近くを流れる小川の水面を覗き込んだり足元の土を触り出したりする。いつもの宇宙人的行動っぽいけど、このタイミングで発動するのか。
呆気にとられたような筑後とともに神崎の行動を見守る。タブレットと辺りの地形を見比べて、雲一つない空を木々の隙間から見上げたかと思うと小川の方を見たまま少し長めの息をついた。
「ねえ、筑後君。今の私、ちょっと未来のことを言い当てられるかもしれない」
「え、と。神崎さん?」
小川の方から振り返った神崎はどこか神秘さを湛えたような無色の笑みを浮かべていた。
「お弁当食べ終わったら戻ろう? この辺り、もうすぐ水が出るよ」
*
神崎の言葉に筑後は怪訝な顔をしたが、構図的には二対一となったわけで、後ろ髪を引かれる様子をみせながらも戻ることを決めてくれた。帰りは緩やかな登りだったけど、筑後は時々写真を撮る程度で殆ど立ち止まることなく進んだから、行きよりも短い時間で沢のところまで帰ってくることができた。
「戻ってきたけど、なにも起きないじゃん」
沢のところで休憩をしながら、筑後は相変わらず清らかなままの水面を見て、ちょっとだけ拗ねたように呟く。
「まあまあ。ここなら大丈夫だから、ちょっと休憩していこう?」
一方の神崎はちょっと息を切らしているものの、体力的にも状況的にも余裕層に答えた。俺からすれば普通に会話してるだけでもすごいのだけど。と、神崎が俺の方に視線を向けてにっと笑みを浮かべてくる。
「宮入君はまだしばらく歩けないみたいだし」
「うるせえ」
俺だって深安山にはよく登ってるし、時乃に時々付き合わされて走ったりで人並み以上には体力もあるはずなんだ。だから、筑後とか神崎が異次元なだけで俺は悪くない。異次元、異次元か。そういえば、オーパーツ研究会に入ったあの日、筑後とそんな話になった。タイムトラベルの問題である親殺しのパラドックスは次元を超えることで解決できると。あの時は途中で議論が終わってしまったけど、気分転換くらいにはなるかもしれない。
「そういえば、筑後――」
筑後に話しかけようとしたところで、グググとかすかな振動を感じた。それは錯覚ではないらしく辺りを見渡すと木立がカサカサと葉を揺らし、そんな様子に筑後も周囲をキョロキョロとしている。
「これって、地鳴り?」
呟いた筑後が沢に目を向けて、その顔から色が消えた。
「水が……」
さっきまで底が見えるほど綺麗だった沢の水が濁っていた。黒ずみのようなものが沢のあちこちから吹き出していて、沢の一面をドンドンと黒く染め上げていく。留まることなく湧き上がってくる泥水は沢の水位をドンドンとあげていく。
やがて、黒く押しあがった水の塊が沢の端を越えると、轟々と音をたて一気に下流の方へと流れ出した。僅かな水が流れていた小川にそんな大量の水が流れ込んだらどうなるだろう。勢いよく流れ落ちる濁流は一気に小川の水位を上げ、もしあのまま小川沿いの道を歩いていたら――ここには戻ってこられなかったかもしれないと思うと、今になってゾワリと寒気が追いかけて来た。
「なんで……。どうして神崎さんはわかったの?」
「んー。私の力というか、ちょっとした未来からのお告げみたいなものだよ」
タブレットを小さく降って笑ってみせる神崎の姿にほうっと筑後は息を漏らした。水が出る、と言い出した時の神崎を思い出すと地面を触ったり川の様子を見たり、空の状態を探っていた。雲や生物の状態から天気を予測する観望予測みたいなものだろうか。俺には何の兆候もわからなかったけど、昨日まで雨が降り続いていたのだし、知識があればわかるのかもしれない。あるいは、経験的にこういう地形では雨が降ったときではなく、その後に水量が急に増すことがあると知っていたとか。
それならそうとあの場所で言ってくれれば、もっと納得して戻ってこられたのに。だけど、そんな考えは筑後の様子を見て打ち消した。筑後だって神崎の「未来のお告げ」という言葉を全部受け入れたわけじゃないだろうけど、その顔にはどことなく納得感と安堵感のようなものが滲んでいた。
「じゃあ、石川先生のところに戻るか。筑後」
「うん、そうだね……さっきはわがまま言ってゴメン。それから、神崎さん、ありがとう」
筑後の言葉に神崎は少し照れくさそうにはにかんでタブレットを鞄の中にしまった。
腰を上げた筑後と神崎の後に続いて立ち上がる。まだ疲れは残っていたけど、自分の命を奪っていたかもしれない黒く染まってしまった沢の傍にいつまでもいたいとも思えなかった。
とはいえ、降り積もっていた疲労のせいで露骨にペースが落ちて、筑後は俺に気遣いながら進んでくれる。さっきまでグイグイ先へ先へと進んでいた時からすると、何かまるで憑き物が落ちたようだった。
「俺がいなけりゃとっくに頂上ついてるよな」
「気にしないでよ。誰かと一緒にこうやって調査するのって初めてだけど、こんなに楽しかったんだって」
「それでつい深入りしそうになった?」
筑後は小さく頬をかいて苦笑を浮かべる。しまった。ちょっと嫌味っぽくなってしまったかもしれない。
「それももちろんあるんだけど。今日はどうしても宮入君にタイムトラベルの形跡みたいなものを見せてあげたくて」
沢の下流で引き返すかどうかで揉めたときも筑後はそんなことを言っていた。沢に戻って休憩した時にそれについて聞こうと思ったけど、水が噴き出したことですっかり忘れていた。
「実は、この前。神崎さんから宮入君の昔の話をちょっと聞いて」
帰りは俺の後ろを歩いていた神崎の方を振り返ると、神崎は口笛を吹きながら誰もいない背後を更に振り返って俺の視線から逃げた。ちょっと待て。俺の昔の話って間違いなく“呪い”に関する話のはずだ。
「筑後は呪いのこと、信じないのか?」
「うん。呪いなんてナンセンスだと思う。きっとなにか他の現象のハメコミだよ」
タイムトラベルのことを信じてる人間が呪いをナンセンスだと言い切るのはどこか不思議な感じもしたけど、迷いなくきっぱりと言い切ってくれた筑後の言葉に、緊張していた心がゆるりと解れる。
「僕には、神崎さんみたいに呪いの正体を調べる能力はないから」
部室に置かれているフラスコのことを思いだす。あれで本当に呪いの正体が突き止められるのかはわからないけど、筑後の言葉に頷いてみる。
「せめて、過去に戻れる……ううん、過去をやり直せる可能性みたいなものを宮入君に見せてあげられたら、僕も宮入君の力になれるんじゃないかなって」
「過去を、やり直す?」
「うん。例えば過去にメッセージを送って、宮入君のおじいちゃんとかお父さんが山に入ることを止めることができる。そんな未来の可能性」
荒唐無稽だと思いながらも、筑後の話に吸い寄せられていた。過去をやり直せる可能性。そうしたいと考えたこともなかった。でもそれは、そんなことできっこないと思っているからであって。もし万が一、過去に戻れるとしたら俺はどうしたいだろう。
筑後が一生懸命周囲を調べながら川を下っていたことを思いだす。あれは筑後の好奇心によるものだと思っていたけど、そんな単純なことじゃなくて。だとしたら、引き返すかどうかのところであんなに筑後が粘っていたのも。
「どうして、俺の為にそんな……」
筑後と知り合ってからまだ一ヶ月も立っていない。精々オーパーツ研究会に仮入部したってくらいで、それ以外に何か筑後の為にできたこともない。
だけど、筑後は不思議そうな顔で首を傾げた。
「えっと。友達の為に何かしたくなるのって、変……かな?」
本当に不思議そうな筑後の言葉に何というか虚を突かれた。もしかしたら俺は人間関係にギブアンドテイクみたいな要素を持ち込みすぎていたかもしれない。
ポンっと後ろを歩く神崎から背中を押された。ああ、もう。
「そういうのは、タイムパラドックスの問題を解決してから言ってくれ」
もし過去にメッセージを送ることで祖父や父さんを助けたら。呪いの話がなかったからと言って俺が友達に囲まれるような人生を歩んでこれたかはわからないけど、少なくともオーパーツ研究会に入ることはなかったと思う。そしたら俺は筑後と知り合いようがなかったわけで。
「宮入君は手ごわいからなあ」
「……いつか俺が間違ってたって謝るの、楽しみにしてるからな」
筑後は一度キョトンと目を見開いてから、にへらっと表情を崩す。
ああ、だからもう。本当にこいつはわかってるんだろうか。ほのぼのとした顔でこちらを見続けている筑後をさっさと帰る様に促す。背中を小突いてくる神崎の表情が手に取るようにわかって、絶対に振り返らないと決める。
それから石川先生の戻る駐車場までは特に何事もなく、山に来てようやく周囲の風景に溶け込むようなゴツイ車が見えた時にはやっと力が抜けるとともにどっと疲れが沸いてきた。
「おー、お疲れ。どうだったか……って、山の中で雨でも降ったのか?」
「なんでですか?」
「なんでって、宮入。お前、顔に濡れた跡があるぞ」
頬に手を当ててみると、確かに湿っていた。気づかなかった、いつの間に。
「ちょっと川で顔洗っただけですよ」
山道が細い一本道でよかった。この顔を誰からも見られずに済んだから。
自分の部屋で本を読みふけっているうちに首が凝ってきて顔をあげると、既に夕方になっていた。ひとつ息を吐き出して、読みかけの本を机の上に積む。連休の間に色々読み進めたくてこの永尾町の歴史や伝聞を記した本をありったけ図書館で借りてきたのだけど、目当ての情報は殆ど見当たらなかった。
唯一それらしいものは、明治のはじめ、深安山付近で大水が発生したとき、大水の中から湯気とともに鬼が出てきてそこにいた村人を呪っていったという記述だった。やはり深安山の社に描かれた鬼は洪水などの水に関する災害を表したものなのだろうか。
それなら、呪いと鬼の関係は。それに、鬼が出てくる時に溢れだしてきた湯気というのは一体何を例えているのか。
ピピピピピピピッ
思考がぐるぐると巡っていたところに、スマホに着信が入って我に返る。スマホの画面に表示されていたのは綾村時乃の名前だった。
「もしもし、翔太? 今大丈夫?」
時乃の声の向こう側から微かに雑音が聞こえる。どこか外から電話をかけてきているのだろうか。
「大丈夫だけど、どうした?」
「大した話じゃないんだけどね。今度の水曜日暇? 部活休みになったから、久しぶりにどっか出かけない?」
そういえば今年に入ってから時乃と一日がかりでどこか出かけるみたいなことはなかった。別に特に理由があったわけじゃなくて、時乃の部活が忙しかったりして何となく出かけるタイミングがなかっただけなんだけど。
水曜日、ゴールデンウィークの後半か。壁にかけたカレンダーに目を向けると、その日には赤ペンで印をつけていた。
「あ、悪い。その日は丸一日部活が」
オーパーツ研究会には未だに仮入部のままではあるのだけど、ばあちゃんからのおつかいがない日は部室に顔を出すようにしていた。何をするってわけでもなく、筑後や神崎とオーパーツについて話をすることもあれば、三人別々に思い思いのことをしているときもある。
筑後は本当に俺の噂のことは知らなくて、オーパーツ研究室の部室はそこはかとなく隠れ家のように落ち着く場所になろうとしていた。。
「部活かー。そっかー」
一応、時乃にもオーパーツ研究会に仮入部したことは伝えていて、そのおかげかあっさりと納得してくれたようだった。時乃から何度か陸上部に誘われたのを全部断っていたのに、あっさりと別の部活に入ったことに罪悪感を覚えていたけど、そんな風に考えてしまう俺よりも時乃はずっと大人なのかもしれない。
ピンポーン
インターホンが鳴る。その音が不思議なことに二重で聞こえた。普通に家の中で響く音と、電話の向こう側から聞こえる音。
まさか。
急いで玄関に向かってドアを開けると満面の笑みを浮かべた時乃が立っていた。部活帰りなのか上下とも陸上部のウィンドブレーカーを纏っている。
「ふうん、ジャージ着てるなんて準備がいいじゃない」
別に家の外に出る予定がないから部屋着替わりに着ていただけだけど、嫌な予感がびりびりとする。とっさにドアを閉じようとする前に時乃の手が俺の腕をがっしり掴む。
「ちょっと面貸しなさい」
時乃の顔は笑っているけど、目を細めてじいっとこちらを見てくるのは悪い笑みだ。
時乃が“俺よりずっと大人だ”とか考えたばかりだった気がするけど、前言は撤回した方がいいかもしれない。
*
目の前を走る時乃のフォームは一切ぶれないけど、こっちは既に息が乱れてきた。
時乃によって家から強制的に連れ出された俺は、そのまま家の近くの湧水公園に連れていかれて一周二キロの外周を走らされている。時乃と一緒に走ることは昔から時々あったけど、今日の時乃はいつもよりペースも早いし、三周目に差し掛かるといよいよ俺の体力では限界が近かった。
「時乃、少しっ、ペース落とせっ!」
返事はなかったけど、時乃はペースを下げてくれた。それで一息付けて、色々と考える余裕が出てくる。どうして急に時乃が俺を走りにつれ出したのか。別に神崎みたいに夕暮れ時の公園を走ることで「青春だ!」とかしたいわけではないだろうし。
「なあ、悪かったよ。何度も時乃から陸上部に誘われてたのに、他の部活に入ったりして」
「別に、気にしてないし。どの部活に入ろうが翔太の勝手じゃん」
言葉の内容と声がまったく一致していない。ツンとした声がズシリとのしかかってくる。
「怒ってないし」
自分に言い聞かせるように、時乃が続ける。
「時乃」
「別に翔太がいつの間にか他の部活に入ってたこと怒ってるわけじゃないし!」
足を止めて振り返った時乃は肩で大きく息をしていた。それが走ったせいではないことはわかってる。ハッとしたように目を見開くと、小さく俯いて髪をグチャグチャと乱暴にかき回す。
「怒ってないっていうのは本当だから。香子ちゃんが来てから翔太の居場所が少しずつ増えてるのは、いいことだって思ってる」
顔をあげた時乃の顔にはいくつもの表情が浮かんでは引っ込んでいく。不安とか困惑とか、苛立ちとか。その瞳がゆらゆら揺れて震えていた。
「だいたい翔太が体育会系じゃないっていうのは私がよくわかってるし。でも、なんか翔太が急に遠くなったように感じちゃって。それでイライラしている自分がわけわかんなくて、そんな自分に一番イライラしてっ……」
時乃はそこまで言ってからまた前髪を握りしめて、行き場のないため息をつく。
「私の方こそごめん。いきなりこんなことに付き合わせて」
時乃と違って息も絶え絶えになってる俺からすれば、苦笑いを浮かべてみるしかなかったけど、せめて首を横に振る。呪いのことについて調べるのに根を詰めてしまっていたからちょうどいい気分転換だったし、何より時乃には部活のこと、ちゃんと話したいと思っていた。
「でも、これだけついてこられるんだったら、やっぱり陸上部でもやってけると思うんだけどなあ」
「俺には時乃みたいな向上心とか、速く走れるようになりたいって熱量が足りないから」
一応それなりに走れるようになったのは、今日みたいに時乃の練習にたまに付き合っているうちに自然と身に着いただけだ。だから、もっと速くだったり、長く走れるようになりたいなんて領域には辿り着けそうにない。
「……ねえ、翔太。私が陸上部に入ったか、知ってる?」
「それは、速く走れるようになりたいからって」
時乃自体がずっとそう言ってきたし、この前深安山の社でも神崎から聞かれてそう答えていたはずだ。俺の答えに時乃はすっと首を縦に振る。
「じゃあ、私が速く走れるようになりたいって思うようになった理由は?」
今度はすぐに答えることはできなかった。時乃が陸上を始めたのは中学からだけど、速く走れるようになりたいってことしか聞いていなかった。だから、てっきりそれ自体が目的だったと思っていたけど、そうじゃなかったのか。
俺が答えられないことに時乃が不満を抱くそぶりはなくて、ずっと強張っていた顔から少し力を抜くと俺に背を向けてゆっくりと歩き出した。
「小学校の頃さ。一度だけ私がいじめられそうになったことあったじゃん」
「……あったな」
それは、ちょっとだけ苦い記憶だ。祖父と父さんを亡くした後、それが呪いのせいだという噂は小学校でもあっという間に流れていった。昨日まで仲が良かった友だちが俺から距離を置き、子どもらしい無邪気でえげつない嫌がらせが降ってくる。
気がついたら、俺と普通に接してくれるのは誰よりも付き合いの長かった時乃だけになっていた。でも、そうなると初めは俺だけに向いていた矛先が、今度は時乃に向こうとした。
「翔太さ。自分の時は何されても黙って耐えてるばっかりだったのに」
小さく振り返った時乃がニッと笑う。その笑顔は夕日で紅く照らされた。
「私が嫌がらせを受けた途端、突然ガキ大将に向かっていって」
そのまま時乃が当時のことを思いだしたかのようにクスクスと笑い出す。全然愉快な話じゃないはずなのに、時乃の笑顔は晴れやかだった。
「あの頃の翔太、ひょろっちくて。すぐにボコボコにされちゃって。だけど、相手がビビって私に手を出さないって言って逃げ出すまで何度も何度も向かっていって」
当時の顛末はよく覚えている。俺と一緒にいる頃をからかわれた時乃が言い返すと、クラスのガキ大将的な存在が時乃に手をあげようとした。そこからは無我夢中で、ガキ大将に届かない拳を振り回し続けた。
結局あの頃の俺の拳は一発もガキ大将に当たらなかったけど、それからは少なくとも俺が見ているところでは時乃がからかわれるようなことはなくなった。
「あの時の翔太、かっこよかったよ。優しくて、強くて……」
小さく目を閉じた時乃は小さく息を吸い込んで、目を開けると同時に表情を崩す。
「それがどうして、こんなに生意気でひねくれたふうに育っちゃったんだか」
「うるせえ。近くにいた相手の影響受けたに決まってるだろ」
「何。私のせいだっていうつもり?」
「他にどう聞こえたんだよ」
「ほら。そうやってまた生意気なこと言う!」
ピタリと時乃が足を止めて、時乃との距離がギュッと詰まる。クスリと笑ってからくるっと振り返った時乃は両手を後ろに組んで真っすぐ俺を見上げる。
「でも、翔太が助けてくれたあの時、決めたの。この世界が翔太の敵になるんだったら、私はどこにいても翔太のところまでダッシュで駆け付けられるようになろうって。今度は私が翔太のこと守るんだって。今思えば単純だけど、それで陸上部に入った」
「……それなら、時乃はこれまでずっと、ちゃんと俺のこと守ってくれてたよ」
中学にあがったころまではなかなか背も伸びなくて、呪いの件も相まって俺はイジメられる側だった。
そうなるはずだった。
そうならなかったのは、一番最初に俺をからかってきた奴が時乃にボコボコにされたからだった。
おかげで友達と呼べるような存在はほとんどできなかったけど、学校に通うのはそんなに苦じゃなかった。周りより幾分遅れて成長期に入ると自分で思ってた以上にデカくなって、それからはなおさら直接的に嫌がらせされることはなくなった。
「うん。だから、これからも」
時乃がぎゅっとグーを作って俺の胸をぐっと押す。
「ちょっとやそっとくらい翔太が離れてったところで、どこからだって駆けつけてやるんだから、覚悟してなさい」
勝気に笑う時乃は水平線に沈みかけた夕日に照らし出されて眩しくて。
「ありがとな、時乃。幼馴染がお前でよかった」
伝えられる言葉は少なかったけど、その五文字に全てを込める。
時乃の顔がしばらく固まったかと思うとふにゃりと崩れて、それを隠すようにバタバタと俺に背中を向けた。
そして、そのままヨーイドン。一気に駆け出した時乃の背中を慌てて追いかける。
「じゃ、完全に日が落ちる前に後一周ね!」
「は!? なんでそうなるんだよ!」
「いいじゃん。水曜日丸一日分をたった一周で済ませてあげてるんだから、感謝してよね!」
「無茶苦茶だろ! ってか、ここまでの二周はノーカンかよ!」
そうは言いつつ、さっきまでより速いペースで走る時乃の後をほとんどダッシュみたいに全力で追いかける。部活に入ることを決めてからずっと靄のように広がっていたモヤモヤはすっかりなくなっていた。ただ走るってそれだけのことが、嘘みたいに心を軽くしてくれる。
もしどこかで一度選択をやり直せるのなら、時乃に誘われるまま陸上部に入るっていうのも案外本当に悪くないのかもしれない。
*
次の水曜日の朝早く。昨日まで雨が降っていたから空模様が不安だったけど、今日は朝から雲一つない青空だった。
「おーし、全員揃ってるな。ちゃっちゃか乗り込め」
オーパーツ研究会の面々――っていっても3人だけど――で高校の正門で待っていると、石川先生の運転するやたらゴツイ車が荒っぽく停まる。石川先生の言葉に筑後が助手席、俺と神崎が後部座席に乗り込むと石川先生の車は外見に似合わずスムーズに走り出した。
今日はオーパーツ研究会で遠征――筑後が言うところの調査のためにここから車で1時間位離れたところの山に向かうことになっている。その運転をするのが石川先生というのは俺や神崎の担任だからというわけではなく。
「まさか自分が顧問やっている部活を俺たちに紹介してたとは思ってませんでした」
「ガハハ、そろそろお前らも大人の汚さを学んでいい頃だろう?」
少し皮肉っぽく言ったつもりだったけど、意に会することなく石川先生は豪快に笑って受け流してしまった。石川先生はオーパーツ研究会の顧問で、つまり、俺たちは実質的に部員一人で廃部寸前の部活に送り込まれたわけだ。
「本当に。部室が今は使われてない第二化学準備室の時点で気づくべきでした」
「いや、俺が着任する前からオー研の部室はあそこだったからそれは偶然だ。それに、あそこは別に元化学準備室じゃなくて、今も現役の化学準備室だぞ?」
「え」
「予備の化学準備室として現役だ。まあ、普段実験で使う薬品は第一化学準備室に保管してるから、第二化学室にあるのは化学部がたまに使う薬品とかを保管してる感じだな」
「そこを部室として使うのって問題ないんですか?」
「まあ、劇薬の類は置いてないし、鍵は俺が管理してるしな。実験器具は壊さなければ別に使っても構わねえし、お前らなら薬品抜き出して使うこともないだろうしな」
石川先生は筑後に全幅の信頼を寄せているようだけど、本当にそんな管理でいいのだろうか。助手席に座る筑後の肩が微かに震えた気がする。
それはさておき、実験器具は自由に使っていい、か。神崎が熱心に部室に通っている理由が少しわかった気がした。
「ああ、それでこの前行った時には液体の入ったフラスコが置いてあったのか」
「うん。せっかくだから私がちょっと使わせてもらってる。“あれ”の分析とかでね」
隣に座る神崎の言葉に納得する。連休前に部室に顔を出したときには「サワルナ」と張り紙がされたフラスコがいくつか並んでいたけど、神崎の仕業だったのか。アレ、というのは4月に深安山で神崎が採取していた土や木片だろうか。成果を聞かないからてっきり諦めたのかと思っていたけど、まだチャレンジしてくれていたらしい。
「へえ。意外とシンプルな実験器具だけでも分析とかできるんだな」
何気なく口にした言葉だけど、助手席に座る筑後が先ほどより大きめにビクリと震えた。
そういえば、部室のフラスコは何やら泡立っていた気がする。たとえば土と水を混ぜるだけであんな反応するだろうか。石川先生は上機嫌で車を運転しているけど、管理者としての責務を今まさに問われているところかもしれない。
とはいえ、神崎がやっているのは呪いの正体を解き明かすための行為で。部室にある薬品の中に劇物の類は無いらしいし、黙っていても問題はなさそうで。
「創意と工夫で、意外とどうにでもなるよ?」
「ふうん、そんなもんか」
神崎の創意と工夫がどこに向けられたものかはわからないけど――例えば部室の薬品棚のピッキングとか――その言葉をさらりと受け止めてみせると、助手席の筑後が露骨に安堵の息をついたのが見えた。
「ま、何にせよ、だ。オー研が賑やかになってよかったよ。な、筑後?」
「は、はいっ!」
筑後の些細な変化など気にも留めずに機嫌よさそうに笑う石川先生の車に揺られて、俺たちは目的地へと向かっていく。
*
車に揺られること約一時間、目的地である「坂巻山」に到着した。登山道の入口には車が数台泊まれる駐車場があったけど、連休中にも関わらずそこにあるのは石川先生の車だけだ。
ここを調査場所に選んだ筑後が言うには、特に高い山でもなく登山や観光で訪れる人はほとんどいないらしい。確かに、周囲はただただ鬱蒼とした森が道のギリギリまで迫ってきているだけで、人を惹き付けるような何かがあるようには見えない。
「この山は携帯の電波入るらしいから、何かあったら電話してくれ」
「石川先生は中に入らないんですか?」
「全員まとめて遭難なんてなったら目も当てられないからな。それに」
石川先生は大人びた表情でぽっちゃりを少し行き過ぎたお腹周りをぎゅっと握る。
「運動不足の権化みたいな俺がお前らと一緒に登ったら、俺が一番初めに遭難する」
なぜかわからないけど石川先生は自信満々だった。筑後は筑後で慣れっこなのかそんな先生の発言を気にすることなく「行こうか」と車から荷物を降ろして先頭に立つ。普段は人見知りで引っ込み思案なところがあるけど、本領のフィールドワークで気合が入ってるのかもしれない。
俺と神崎も筑後に倣って荷物を背負うと、筑後に続く。登山道に入ると深安山より幾分マシな細い道が山の上へと続いていた。水はけがいいのか昨日まで雨が降っていた割に足元はしっかりしている。
「まずは山頂に向かって、そこから山の向こう側に続く道を降りると沢に辿り着くんだ。そこがひとまず今日の目的地だよ」
先頭を行く筑後は時々後ろの俺たちを気にしながらも身軽に山を登っていく。人のことをとやかく言える立場じゃないけど、すらりと細身の筑後が苦も無く山を登っていくのは少し意外だった。好奇心が背中を押しているのか、あるいは経験値がすごいのか。
「ねえ、筑後君。今日はどうしてこの山を選んだの?」
「坂巻山という山の名前は昔から伝わっているものらしいんだけど、どうやら昔は坂の字が違ったらしくて」
振り返った筑後が指で空中に文字を描く。
「昔は逆に巻くって書いて逆巻山って呼ばれてたんだよ。そんな坂巻山には死んだ身内にあったとか、昔の英雄の亡霊を見たとかっていう『時を遡る』言い伝えが多く残ってて」
筑後は背負っていたリュックを体の前側で抱えると、中からタブレット端末を取り出す。何度かスライドさせると古い絵の画像を見せてくれた。それは初めてオーパーツ研究会に訪れたときに見た虚舟――蓋つき丼みたいな船の絵だった。船は水辺に浮かんでいるようで、やはり一人の女性が興味深そうにあたりを見渡している。
「ここでも虚舟の伝承が伝わってるんだよ。あまりこの辺りは人が立ち入らないらしいから、昔のものがそのまま残っている可能性はあるし。時間を逆巻きしたような言い伝えがいくつも残る理由が見つかるかも」
俺は未だにタイムトラベルなんてものは信じていないけど、筑後の話には不思議と興味を惹かれる。理性的なところでは筑後の話は“それらしい話のそれっぽい部分”を集めただけの偶然に見せかけた必然の集合体だと思っているけど、それを実際に確かめてみるという姿勢が好きなのかもしれない。
「つまり、この山にはタイムマシンが眠ってるんだね!」
俺以上に神崎はノリノリのようだけど。
「そう考えるとワクワクするよね。まあ、実際は何で坂巻山には時を遡る言い伝えが多いのかってヒントが見つかったらいいなってくらいだけど」
興奮した様子の神崎に筑後がはにかみながら答える。一見、噛み合わなさそうなタイプの二人に見えるけど、未来とかタイムトラベルの話になると驚くくらい波長が合うらしい。なんだか置いていかれているような感じを覚えつつ、現実でまで置いていかれない様にスイスイ登っていく二人についていく。
「虚舟の絵画からして、何か残っている可能性があるのは沢から下流の方だと思うから。今日は沢までついたら川を下っていくつもり。沢を集合地点にしておけば途中で疲れてもそこでまた集まれるしね」
この前深安山を登った時に分かったけど神崎も意外と体力があるし、筑後は時々振り返りながら先頭を余裕で歩いている。もし最初に脱落するとしたら俺だろうけど、こんな人気のない山の中を一人で待ち続けるのはそれはそれで疲れそうだ。
そこからも筑後のオーパーツに関する話を聞きながら30分くらい登ったところで山頂に辿り着き、小休止をしてから登ってきたのとは反対側の斜面を下る。10分くらいすると水の音が聞こえてきて、そこから5分くらい進んだところで視界に澄んだ青さを湛えた沢が姿を見せた。
「うわあ、綺麗……!」
神崎の口から感嘆の声が漏れる。小さな沢だとは思うけど、青みがかった水は木漏れ日の光でキラキラと穏やかに輝いていて、どこか神秘的な気配さえ纏っている。それこそ、ここで不思議なことが起きていたとしてもありえそうだと考えてしまうくらいに。
「ちょっと休憩してから、本格的に調査を始めよっか」
筑後の言葉で俺たちはそれぞれ手近な倒木や石に腰を掛けて持ってきた軽食を食べたり辺りを写真に収めたりする。沢に水が注ぐ音が心地よいゆらぎを奏でていて、そこに鳥の囀りや木々を通じた風の音が彩りを加える。正直、ここで帰ったとしても十分価値がある場所だと思う。
連休中は借りてきた永尾町の文献を読むのにほとんどの時間をつぎ込んでいたから、少し塞ぎがちあった気分もいつの間にか自然に溶け込んでいた。
10分くらいそんなふうにリラックスして、最初に立ち上がったのはやはり筑後だった。
「ここからはメインの登山道じゃなくて脇道に沿って川を下るから。無理をしないで、もし途中ではぐれたりしたらここに戻ってきて落ち合う感じで。じゃあ、行くよ」
俺たちが立ち上がって荷物を背負うのを見て、筑後は登山道から外れた獣道の方に進んでいく。一気に悪くなった足場に慎重に筑後の後を追う。筑後は少し進んでは周囲の写真を撮ったり、何かがないか探るようにあたりを見渡したりと、止まってはまた進むということを繰り返していた。
それでも結構ペースは速くて、俺は周囲を見る余裕もほとんどなくひたすら筑後の背中を追って山を下っていくこととなった。
*
そこから一時間くらい川を下っていって、少し開けたところで昼食となった。深い森に囲まれて水のせせらぎを聞きながらの弁当――ばあちゃんが朝から俺と神崎の分を用意してくれた――を食べるのは童心に帰ったみたいで不思議な気持ちだった。
「わわっ! タコさんウィンナーだ! 懐かしー!」
神崎が目をキラキラさせて弁当に箸をのばす。ばあちゃんが作ってくれたのは今は逆に珍しいくらいの定番の弁当でそれがまた懐かしさを引き立ててくれる。海苔で包まれたおにぎりにかぶりつくと歩き続けた体に塩味が染みわたった。
俺と神崎が弁当に舌鼓を打つ一方で、筑後だけは浮かない顔だった。
「予定では、ここで引き返して入口まで戻るんだったか?」
「うん。そうだね……」
頷く筑後の声に元気はない。その理由は想像がついていた。
ここまで降りてくるまでの一時間、筑後は精力的に辺りを調べながら来たが、目ぼしい発見は一つもなかった。筑後自身が「高校生がすぐに何かを見つけられるなら苦労はしないよね」というスタンスだったし、何か出てくれば儲けものくらいのはずだけど、それにしては筑後は気落ちしている。
「あのさ、もう少しだけ降りてみたらダメかな?」
「それ、何か見つかるまできりがないんじゃないか?」
あと30分降りて何も見つからなかったとき、そこですんなり引き返せるだろうか。もう少し行けば見つかるんじゃないかとどんどん深みにはまってしまう気がする。こういう時は潔く諦めた方がいいと思うのだけど。
「何かの欠片でも見つかればラッキーだって言ってただろ。急にどうしたんだよ」
「それは……」
筑後はしょんぼりと俯いてしまって、チクリと罪悪感にかられる。普段俺の周りにいるのは時乃とか神崎とか我が強く突っ走ってくタイプで、筑後みたいな控えめで一歩引きがちタイプはいなかった。ここは神崎に対応を任せたいけど、神崎は弁当に夢中になっている。俺もそんなに人に気をつかうタイプではないと思うけど、ここまでマイペースなのは羨ましい。
「ここは言い伝えの確度も高いし、絶対に何かある気がするんだ。うん、何か……時間を行き来した痕跡のような何かが、きっと」
「言い伝えもさ。先祖と出会ったとか、有名人の霊を見るって類の話は各地で似たような話が伝わってるだろ? 坂巻山っていう名前に引っ張られて、本質を見失ってないか?」
「それは、そうだけど……」
筑後が再び押し黙る。そうういう民話とか伝承の話は筑後の方が詳しいだろうし、別にこの場で筑後を論破したいわけじゃない。ただここで引き返すべきだと思っているだけなのに、どうすればうまく筑後を説得できるのだろう。
「でも僕は、宮入君に少しでも信じてもらいたくて。だから――」
「あっ!」
さっきまで弁当に夢中だった神崎がいつの間にかタブレットを片手に声をあげた。それから近くを流れる小川の水面を覗き込んだり足元の土を触り出したりする。いつもの宇宙人的行動っぽいけど、このタイミングで発動するのか。
呆気にとられたような筑後とともに神崎の行動を見守る。タブレットと辺りの地形を見比べて、雲一つない空を木々の隙間から見上げたかと思うと小川の方を見たまま少し長めの息をついた。
「ねえ、筑後君。今の私、ちょっと未来のことを言い当てられるかもしれない」
「え、と。神崎さん?」
小川の方から振り返った神崎はどこか神秘さを湛えたような無色の笑みを浮かべていた。
「お弁当食べ終わったら戻ろう? この辺り、もうすぐ水が出るよ」
*
神崎の言葉に筑後は怪訝な顔をしたが、構図的には二対一となったわけで、後ろ髪を引かれる様子をみせながらも戻ることを決めてくれた。帰りは緩やかな登りだったけど、筑後は時々写真を撮る程度で殆ど立ち止まることなく進んだから、行きよりも短い時間で沢のところまで帰ってくることができた。
「戻ってきたけど、なにも起きないじゃん」
沢のところで休憩をしながら、筑後は相変わらず清らかなままの水面を見て、ちょっとだけ拗ねたように呟く。
「まあまあ。ここなら大丈夫だから、ちょっと休憩していこう?」
一方の神崎はちょっと息を切らしているものの、体力的にも状況的にも余裕層に答えた。俺からすれば普通に会話してるだけでもすごいのだけど。と、神崎が俺の方に視線を向けてにっと笑みを浮かべてくる。
「宮入君はまだしばらく歩けないみたいだし」
「うるせえ」
俺だって深安山にはよく登ってるし、時乃に時々付き合わされて走ったりで人並み以上には体力もあるはずなんだ。だから、筑後とか神崎が異次元なだけで俺は悪くない。異次元、異次元か。そういえば、オーパーツ研究会に入ったあの日、筑後とそんな話になった。タイムトラベルの問題である親殺しのパラドックスは次元を超えることで解決できると。あの時は途中で議論が終わってしまったけど、気分転換くらいにはなるかもしれない。
「そういえば、筑後――」
筑後に話しかけようとしたところで、グググとかすかな振動を感じた。それは錯覚ではないらしく辺りを見渡すと木立がカサカサと葉を揺らし、そんな様子に筑後も周囲をキョロキョロとしている。
「これって、地鳴り?」
呟いた筑後が沢に目を向けて、その顔から色が消えた。
「水が……」
さっきまで底が見えるほど綺麗だった沢の水が濁っていた。黒ずみのようなものが沢のあちこちから吹き出していて、沢の一面をドンドンと黒く染め上げていく。留まることなく湧き上がってくる泥水は沢の水位をドンドンとあげていく。
やがて、黒く押しあがった水の塊が沢の端を越えると、轟々と音をたて一気に下流の方へと流れ出した。僅かな水が流れていた小川にそんな大量の水が流れ込んだらどうなるだろう。勢いよく流れ落ちる濁流は一気に小川の水位を上げ、もしあのまま小川沿いの道を歩いていたら――ここには戻ってこられなかったかもしれないと思うと、今になってゾワリと寒気が追いかけて来た。
「なんで……。どうして神崎さんはわかったの?」
「んー。私の力というか、ちょっとした未来からのお告げみたいなものだよ」
タブレットを小さく降って笑ってみせる神崎の姿にほうっと筑後は息を漏らした。水が出る、と言い出した時の神崎を思い出すと地面を触ったり川の様子を見たり、空の状態を探っていた。雲や生物の状態から天気を予測する観望予測みたいなものだろうか。俺には何の兆候もわからなかったけど、昨日まで雨が降り続いていたのだし、知識があればわかるのかもしれない。あるいは、経験的にこういう地形では雨が降ったときではなく、その後に水量が急に増すことがあると知っていたとか。
それならそうとあの場所で言ってくれれば、もっと納得して戻ってこられたのに。だけど、そんな考えは筑後の様子を見て打ち消した。筑後だって神崎の「未来のお告げ」という言葉を全部受け入れたわけじゃないだろうけど、その顔にはどことなく納得感と安堵感のようなものが滲んでいた。
「じゃあ、石川先生のところに戻るか。筑後」
「うん、そうだね……さっきはわがまま言ってゴメン。それから、神崎さん、ありがとう」
筑後の言葉に神崎は少し照れくさそうにはにかんでタブレットを鞄の中にしまった。
腰を上げた筑後と神崎の後に続いて立ち上がる。まだ疲れは残っていたけど、自分の命を奪っていたかもしれない黒く染まってしまった沢の傍にいつまでもいたいとも思えなかった。
とはいえ、降り積もっていた疲労のせいで露骨にペースが落ちて、筑後は俺に気遣いながら進んでくれる。さっきまでグイグイ先へ先へと進んでいた時からすると、何かまるで憑き物が落ちたようだった。
「俺がいなけりゃとっくに頂上ついてるよな」
「気にしないでよ。誰かと一緒にこうやって調査するのって初めてだけど、こんなに楽しかったんだって」
「それでつい深入りしそうになった?」
筑後は小さく頬をかいて苦笑を浮かべる。しまった。ちょっと嫌味っぽくなってしまったかもしれない。
「それももちろんあるんだけど。今日はどうしても宮入君にタイムトラベルの形跡みたいなものを見せてあげたくて」
沢の下流で引き返すかどうかで揉めたときも筑後はそんなことを言っていた。沢に戻って休憩した時にそれについて聞こうと思ったけど、水が噴き出したことですっかり忘れていた。
「実は、この前。神崎さんから宮入君の昔の話をちょっと聞いて」
帰りは俺の後ろを歩いていた神崎の方を振り返ると、神崎は口笛を吹きながら誰もいない背後を更に振り返って俺の視線から逃げた。ちょっと待て。俺の昔の話って間違いなく“呪い”に関する話のはずだ。
「筑後は呪いのこと、信じないのか?」
「うん。呪いなんてナンセンスだと思う。きっとなにか他の現象のハメコミだよ」
タイムトラベルのことを信じてる人間が呪いをナンセンスだと言い切るのはどこか不思議な感じもしたけど、迷いなくきっぱりと言い切ってくれた筑後の言葉に、緊張していた心がゆるりと解れる。
「僕には、神崎さんみたいに呪いの正体を調べる能力はないから」
部室に置かれているフラスコのことを思いだす。あれで本当に呪いの正体が突き止められるのかはわからないけど、筑後の言葉に頷いてみる。
「せめて、過去に戻れる……ううん、過去をやり直せる可能性みたいなものを宮入君に見せてあげられたら、僕も宮入君の力になれるんじゃないかなって」
「過去を、やり直す?」
「うん。例えば過去にメッセージを送って、宮入君のおじいちゃんとかお父さんが山に入ることを止めることができる。そんな未来の可能性」
荒唐無稽だと思いながらも、筑後の話に吸い寄せられていた。過去をやり直せる可能性。そうしたいと考えたこともなかった。でもそれは、そんなことできっこないと思っているからであって。もし万が一、過去に戻れるとしたら俺はどうしたいだろう。
筑後が一生懸命周囲を調べながら川を下っていたことを思いだす。あれは筑後の好奇心によるものだと思っていたけど、そんな単純なことじゃなくて。だとしたら、引き返すかどうかのところであんなに筑後が粘っていたのも。
「どうして、俺の為にそんな……」
筑後と知り合ってからまだ一ヶ月も立っていない。精々オーパーツ研究会に仮入部したってくらいで、それ以外に何か筑後の為にできたこともない。
だけど、筑後は不思議そうな顔で首を傾げた。
「えっと。友達の為に何かしたくなるのって、変……かな?」
本当に不思議そうな筑後の言葉に何というか虚を突かれた。もしかしたら俺は人間関係にギブアンドテイクみたいな要素を持ち込みすぎていたかもしれない。
ポンっと後ろを歩く神崎から背中を押された。ああ、もう。
「そういうのは、タイムパラドックスの問題を解決してから言ってくれ」
もし過去にメッセージを送ることで祖父や父さんを助けたら。呪いの話がなかったからと言って俺が友達に囲まれるような人生を歩んでこれたかはわからないけど、少なくともオーパーツ研究会に入ることはなかったと思う。そしたら俺は筑後と知り合いようがなかったわけで。
「宮入君は手ごわいからなあ」
「……いつか俺が間違ってたって謝るの、楽しみにしてるからな」
筑後は一度キョトンと目を見開いてから、にへらっと表情を崩す。
ああ、だからもう。本当にこいつはわかってるんだろうか。ほのぼのとした顔でこちらを見続けている筑後をさっさと帰る様に促す。背中を小突いてくる神崎の表情が手に取るようにわかって、絶対に振り返らないと決める。
それから石川先生の戻る駐車場までは特に何事もなく、山に来てようやく周囲の風景に溶け込むようなゴツイ車が見えた時にはやっと力が抜けるとともにどっと疲れが沸いてきた。
「おー、お疲れ。どうだったか……って、山の中で雨でも降ったのか?」
「なんでですか?」
「なんでって、宮入。お前、顔に濡れた跡があるぞ」
頬に手を当ててみると、確かに湿っていた。気づかなかった、いつの間に。
「ちょっと川で顔洗っただけですよ」
山道が細い一本道でよかった。この顔を誰からも見られずに済んだから。