神崎博士を送り出した時から季節は廻り夏が訪れていた。
 僕にできることはすべてやり切った。走り続けた後の空虚感に満たされながらも、時乃を置いていくわけにはいかなくて、僕はまだこの世界で生き続けている。
 時乃の病室でふと神崎博士が残していったタブレットを眺めてみる。高校時代から使っていた年代物ということだけど丁寧に扱われていて、これを見ると論文について解説するときに指を空に向けてチョイチョイと回していた彼女のことを思いだす。

「あれ……?」

 タブレットを開くと、一通のメールを受信していた。今はこのタブレットはスタンドアローンのはずなのに、いったいどうやって。
 メールを開くと、そこには一枚の写真。ところどころ欠損していたけど、四人の高校生が夏祭りの舞台をバックに笑顔を浮かべていた。

「ああ、そうか。成功したんだね。博士は律儀だなあ」

 タブレットをじっと見つめていると、もう枯れたと思っていた涙が溢れてきた。
 その写真に写っているのは、僕にあったかもしれない可能性。だけどもう、決して手が届かない世界。
 目の前で眠ったままの時乃の髪をそっと撫でる。向こうの世界の影響がこちらに波及してくることはない。こちらの世界はこのまま時が流れていくだけだ。
 でも、これでいい。そっちの世界でどうかみんな幸せに暮らしてほしい。

「ん」

 見間違えかと思った。時乃の瞼がピクリと動く。
 そんな、あり得ない。だって、向こうの世界の時乃とこの世界の時乃は何のつながりもないはずで。

「時、乃……?」

 僕の声が最後の一押しだったかのように、時乃がまぶたを開く。
 眩しそうに目を細めて、僕に向かって震える手を伸ばす。その手をしっかりと握りしめると、弱々しくもその手が握り返された。

「おはよう、翔太」
「おはよう。おはよう、時乃……」

 この二十年間、一度も動くことの無かった頬が微かに笑顔を彩った。
 ずっと見たくて、諦めて、諦めきれなくて。ようやく受け入れたつもりだったけど、
 受け入れる事なんて、全然できていなかった。

「翔太、私ね。ずっとずっと眠ってて、もうずっとこのままなのかなって思ってて……」 

 奇跡なんてものは存在しない。ずっとそう思ってきた。だけど、これは。
 多くの選択が、この世界の僕たちに1つの奇跡を届けてくれた。全然科学的じゃないけど、そんな気がした。
 時乃の手をもう一度握りしめる。もう二度と、この手を離すことがないように。この世界から離れていくことがないように。

「急に眩しくなって。『助けに来たよ』って女の人の声がして。その人が私をこの世界に引っ張ってくれて、目が覚めたの」