「おはよう、神崎」

 いつものように優しい日の光に照らされた神崎に声をかける。
 ぽかぽかとした春の陽気に照らされて、神崎は穏やかに寝息を立てている。
 後もう少し待っていれば眠そうに瞼を擦りながら目を覚ますような日常の風景だけど、神崎が目を覚ますことはない。
 神崎が“呪い”の影響で眠りについてから、約二十年がたった。その間、神崎が目を覚ますことは一度もなかった。おそらく、これからもそのキラキラとした瞳を開くことは一度もないのだろう。

「すっかり春になったよ。今年はさ、冬が長引いて四月になってようやく桜が咲いたんだ」

 春の柔らかな光が注ぐ窓辺に近寄ると、桃色の道があちこちに広がっている。きっとあの桜の下では入学式や新学期を迎えた子どもたちが学校に向かっているのだろう。
 窓を開けると温かな空気がふわりと病室内に入り込んでくる。

「そうだ。神崎と出会ったのもこんな桜の咲いた始業式の日だったよな。お前、いきなり俺の名前を呼んで『タイムトラベルを信じるか』なんて聞いてくるからさ、びっくりってかドン引きだったよ」

 ベッドのすぐ脇に置かれたスツールに腰を掛ける。この二十年間、どれだけここに座って神崎が目を覚ます瞬間を待ち続けただろう。
 不思議と、弱気になることはなかった。ここに来ると背中を押されたような気になって、何があっても前に前に進んでこられた。
 鞄からタブレットを取り出す。流石にあちこち劣化してしまったけど、二十年前から大切に持ち続けてきたタブレット。そのタブレットを枕元の棚に置く。棚の中には高校時代の卒業アルバムやオーパーツ研究会の冊子などが収められていた。俺や筑後が持ってきたものもあるし、当時担任だった石川先生が持ってきてくれたものもある。

「これ、返しに来たよ。二十年も借りっぱなしだったけど、おかげで色んな研究が進んだ。カンニングみたいでちょっと罪悪感もあったけどさ」

 タブレットの中に残っていた多くの論文は、恐らく神崎が元居た世界――この世界をA´とするのなら、´のつかない元の世界――の俺と神崎が研究してきた成果だろう。それは波動記録による疑似的なタイムトラベルの手法から“呪い”の原因と治療法まで幅広い研究がまとめられていた。
 完全な形でデータを飛ばすことはさすがに難しかったようで、所々欠損していたけど、それでも十二分に役に立った。

「本当は、この世界のお前のことを目覚めさせてあげられたらよかったんだけど」

 別の世界が二十年近く研究してきた成果を踏まえれば神崎を目覚めさせる治療法が見つかるのではと思っていたし、かなり前に進めることはできたけど、神崎を目覚めさせるには至らなかった。

「それでも、神崎が来てくれて、ほんとうによかった」

 ポンと神崎の頭に手を乗せる。そのさらさらとした艶やかな髪の感じは、出会った頃から変わらない。

「ありがとう。そして――」

 精いっぱい笑って、神崎の姿を目に焼き付ける。

「さよなら。神崎」



「遅いっ!」

 病院を出て研究室に向かうと、腕を組んでご立腹な時乃が待ち構えていた。
 腕時計を見るとまだ予定の時間まで余裕があるはずだけど、そんな俺の仕草を見た時乃はため息をつく。

「……まあ、いいわ。それで、ちゃんとお別れできた?」
「ああ」
「誰も見てないからって変なことしてないでしょうね」
「しないって!」

 必死に否定する俺が面白かったのか、時乃は勝気な笑みを浮かべながらくつくつと笑う。
 ちょっと釈然としない思いもあったけど、息をついて受け止める。俺が弱気にならずにここまでやってこれたのは、いつも前へ前へとグイグイ突き進んでいく時乃が傍にいてくれたおかげだったと思う。

「じゃあ、そろそろ行こっか。準備はいい?」

 時乃は返事を待つことなく俺の手を取ると、研究室の外へと向かっていく。
 その手にはいつになく強い力が込められていた。それでようやく時乃が怒っていた理由に気がついた。
 今日でお別れなのは神崎だけではない。だから、時乃は早めに研究室で待っていてくれたのだろう。

「ごめん、時乃」
「何が?」
「最後まで待たせっぱなしで」

 隣に並ぶ時乃は俺に一瞥をくれると、握りしめた手に力を込めた。

「ずっと昔言ったことあったと思うけど、わかってた。私はきっとこんな役回りなんだって。それでも、一度も後悔なんてしたことないから」

 いつも、どんなところからでも。時乃は俺のところへ駆けつけてくれて。一歩先を進んで俺に向かって手を伸ばしてくれた。だから、諦める事無くここまで走り続けてこられた。
 時乃とともに研究機関の建物内を進み、隣の建物にある実験室に到着する。
 実験室の中に入ると、白衣の男性が振り返って緊張感の混ざった笑みを浮かべた。

「宮入君。いよいよだね」
「筑後、準備は?」
「バッチリだよ。と、言っても、事前実験のできない一発勝負だけどね」

 神崎が“呪い”によって眠りについた後、俺は時乃と筑後には本当のことを話した。
 あまりにも荒唐無稽な話だから、気が狂ったと思われても仕方ないと思っていたけど、二人とも神崎にどこか不思議な雰囲気を感じていたらしく、思っていたよりずっとすんなりと俺の話を受け入れてくれた。

「長かったな。これまで」

 この二十年近く、三人四脚でやってきた。
 俺が“呪い”と呼ばれた風土病に関する研究を進める一方、時乃と筑後は神崎がこの世界にやってきたタイムトラベルについての研究を進めてくれた。
 時乃は波動理論について、筑後はゼロ・ポイントと呼ばれる領域を通じた別の世界への移動について、今では最先端の研究者になっている。もちろん、それには神崎が残してくれた論文の力も大きいのだけど。
 その集大成が、今日この日だ。
筑後の傍らには、人間の情報を波動記録としてゼロ・ポイントを通過させ、疑似的なタイムトラベルを行うための試作機が置いてある。

「始めよう。ツーダッシュプロジェクト、最後の仕上げだ」

 俺の言葉に時乃と筑後は頷いて、試作機の最後の点検に移る。
 これまでの実験は順調にいったけど、問題もあった。それは、別の世界に飛ばした記録が狙い通りの次元――物理的な位置と時間に辿り着いたのか、最終的な精度の検証は出来ていない。特に時間の方は若干の誤差が出ている可能性が高かった。
 理論的には穴はないはずだけど、その誤差がどんな影響をもたらすかわからない以上、誤差を減らすためにできることは最後までやっておきたい。

「本当にやり直しのポイントは私たちが“呪い”にかかったタイミングでいいの?」

 試作機のパラメータの最終チェックを進めながら、時乃が俺に向かって尋ねる。

「もっと昔にさかのぼれば、翔太のおじいちゃんやお父さんも救えるかもしれない」

 それは確かに考えたことはあるけれど、首を横に振る。
 神崎は8月に起こるはずだった俺と時乃の呪いに備えて、半年前からタイムトラベルをしたらしい。だけど、世界がAからA´に移り、そこに神崎というイレギュラーが加わったことで、神崎が知っている世界とは異なる動きを見せる事態となった。

「向こうについてからも、一発勝負だからさ」

 人間の情報を波動記録として出力し、別の世界に飛ばす。それができるのはどうやら一回限りらしい。二回目以降は元の情報を正しく飛ばせる保証がないというのが、筑後が突き詰めた結論だった。それは技術的な限界というより、非科学的かもしれないけど世界の理(ことわり)のような気もする。

「できるだけイレギュラー要素は少なくしたい」

 俺という異物が世界に紛れ込んだ時、徐々に世界は俺が知るものから離れていくのだろう。だから、俺が向かう先は深安山に時乃が向かったあの日。そこで“選択”をやり直す。

「だから、まずは何が何でも、世界から神崎を奪い返す」

 この世界で俺は無我夢中で時乃を助けに行ったけど、神崎の言葉に従って雨が止んでから助けに行く。それで、時乃を呪いから救いつつ、神崎が呪いに罹ることも無くなるはずだ。あるいは、神崎にわけを話して俺が二人分の治療薬を持って時乃を助けに行ってもいい。そのどちらを選ぶかは到着した時間や場所などによって臨機に対応する。

「それにさ。じいちゃんと父さんが亡くなってから、時乃がずっと一緒にいてくれたこと、なかったことにはしたくないんだ」

 もし祖父と父さんを救うところまで遡って上手くいったとしても、俺と時乃の関係はもっと希薄なものになってしまうかもしれないし、神崎とは出会うことすらないかもしれない。

「はあ……。遅刻するからにはちゃんと助けてあげてね、私のこと」

 パラメータの調整を終えた時乃が近寄ってきて、俺の背中をバンッとはたく。
 息が詰まるくらい痛かったけど、これが時乃なりの背中の押し方。苦笑が浮かぶのを自覚しながら筑後の方へと向かう。

「はい、宮入君。かぶってみて」

 筑後から手渡されたヘッドセットを身に着ける。これが俺の情報を書き出すためのセンサー部分となる。寸法も俺の頭に合わされて作られていたから、寸分のずれもなくしっかりと収まった。

「大丈夫そうかな?」
「付け心地はバッチリだな」

 緊張した面持ちの筑後に笑ってみせる。どっちみち、ここから先は筑後の領域で俺は身を任せるしかない。筑後の顔にはまだ緊張が残っていたけど、硬い頬に笑みを浮かべた。

「高校の時はタイムトラベルに関するオーパーツを調査してたのに、本当にタイムマシンを作っちまうとはな」
「みんなのおかげだよ。僕一人だったこうはいかなかったし……そもそも、坂巻山の鉄砲水に巻き込まれてたかもしれないんだから」

 筑後が差し出してきた手をしっかりと握りしめる。

「神崎さんは命の恩人で、僕の先生でもあるから。これが僕にできる最大限の恩返し」
「向こうの神崎にちゃんと伝えとく」
「うん。よろしくね」
「ああ、それから」

 言葉を続ける俺に筑後は首を傾げた。

「悪かったな。オーパーツ研究会に入った時タイムトラベルを疑ったりして」

 少しだけきょとんとしてから、筑後はふわりと笑顔を浮かべて首を左右に振った。
 坂巻山で交わした約束。筑後はちゃんと果たしてくれた。だから、ここからは俺が頑張る番だ。
 筑後の手を離して、深呼吸をする。この世界の俺はここで終わる。
 この世界が神崎の生み出したA´の世界なら、これから向かうのはA’’の世界。
 ヘッドセットが接続されたチェア型の装置に腰を下ろす。

「ありがとな。時乃、筑後」

 俺の前に立つ時乃と筑後を目に焼き付ける。

「行ってらっしゃい、翔太」

 時乃の声とともに装置が稼働すると、意識が吸い上げられるような浮遊感に満たされる。

 次の瞬間、眩い光に包まれ、続いて闇の中に落ちていった。



 目を覚ますと、夜だった。

 意識が朦朧とする。俺は無事に世界を越えられたのだろうか。徐々に視界がハッキリしてきて、腕を見ると高校時代の制服が目に入った。ポケットの辺りに何かが入っている感じがして取り出してみると、高校の頃に使っていたスマートフォン。電源をつけると二十三時の表示されていた。
 ちゃんと移動できたらしい。情報の転記による周囲との干渉が少なくなるよう夜中の時間帯を狙ったのだけど、そちらも上手くいったようだ。
 理屈ではわかっていても、きちんと高校時代に飛んできたことに安心する。どこにもたどりつけないまま俺の情報が路頭に迷う危険もあったわけだけど、流石は筑後といったところだろう。

「あれ……?」

 段々と意識が覚醒して、違和感に気づく。俺がいたのは自分の部屋ではなく病室だった。
それが意味していることに理解が追い付いて、これまで感じたことの無い痛みを伴うような悪寒が走る。
 目の前で神崎が眠っていた。嘘であってほしいと願いながらスマートフォンの日時を確かめると、神崎が倒れた日付を無慈悲に示している。

 ズレた。

 二十年遡って一週間程度のズレなのだから精度としては十分なのかもしれないが、それは同時に致命的な誤差だった。
 神崎の脳が完全に胞子に蝕まれるタイムリミットはわからないけど、どんなに長くてももう半日も残っていない。

 失敗した。

 どうする。どうすればいい。俺はこの世界でも神崎が意識を失っていくのを見守ることしかできないのか。
 駄目だ。このA"の世界をもう一度繰り返したところで、そこからもう一度やり直すことはできない。俺の意識は次の転送に耐えられない。
 なにか、方法は。
 せめて深安山の試料があれば。だけど、今から深安山に試料を取りに行ったとして間に合うのか。

「いや、ある……」

 神崎が“呪い”に罹ったのは、試料を採りにいった時乃と俺を助けるためだ。それはこの世界でも変わらないはずで。
 まだ、希望は残ってる。こんなところで諦めるわけにはいかない。元の世界で俺を送り出してくれた時乃と筑後のためにも。なにより、目の前の神崎の為に。

「待ってろ、神崎」

 病室を駆けだしてそのまま病院を後にする。ここから学校までは走って三十分くらい。それくらいどうってことないくらい、この頃の俺は時乃に鍛えられている。
 走りながらスマートフォンを取り出す。もうすぐ日付が変わろうとしている。頼む、繋がってくれ。

「もしもし? どうしたの、宮入君」
 願いが通じたのか、筑後はすぐに電話に出てくれた。

「筑後! こんな時間に悪い! 頼みがあるんだ!」
「えっと、どうしたの?」
「部室と薬品棚の鍵を持って、校門まで来てほしい」
「今から?」

 戸惑った様子の筑後の声。筑後の気持ちはよくわかるけど、今の状況をどう説明すればいいかがわからない。走りながらでは頭も回らないけど、今は一秒でも惜しい。

「頼む。信じてくれ」

 息を呑む音。それから数秒沈黙が続く。
 ダメか。それなら最悪部室のドアを壊してでも――

「わかった。今から行くよ。三十分くらいかかるけど大丈夫?」
「ああっ……ああ、バッチリだ! 頼む、筑後!」

 通話を切って、学校までの道のりを全力で駆け抜ける。
 まだだ。まだ、諦めるには大きなものを背負ってここにやってきたんだ。



 校門に辿り着くと、ジャージを身に纏った筑後がちょうど自転車でやってきたところだった。
 筑後はすぐに鞄から二種類の鍵を取り出して俺に渡してくれる。それは部室の鍵と薬品棚の鍵。坂巻山に行くときの車の話でこれをこっそり筑後が持っていることは気づいていたけど、石川先生に黙っててよかった。

「助かったよ、筑後。こんな時間に来てくれてありがとう」
「別にいいけど……何があったの?」
「悪い。今は説明してる時間が惜しいんだ。それに、ここから先は見つかったらただじゃすまないからさ」

 校門の横の塀に手をかける。この頃の永尾高校はまだ夜間のセキュリティがガバガバのはずだけど、見つかれば最悪停学だってあり得るだろう。そこまで筑後を巻き込むわけにはいかない。
 なんて考えている横で筑後も塀に手をかけていた。

「筑後、お前何して……」
「乗り掛かった舟だし。あ、僕の場合は乗り掛かった虚舟のほうがいいかな?」

 とぼけたように笑う筑後が身軽に塀の上に登る。

「それに。宮入君が何をするつもりかはわからないけど、部室のどこに何があるかは僕が一番よく知ってるから」

 塀の上から差し出された手を借りて、俺も塀を乗り越えた。暗い校内を筑後が先導するように走っていく。そのまま筑後は鍵のかかっていない一階の窓を探し出すと、躊躇いなくそこから校舎内に乗り込んだ。

「なんだか手慣れてるな」
「再犯だからね。前に一度神崎さんが下校後にどうしてもフラスコの様子を見たいって言ったことがあって」

 それは初耳だった。今となってみれば、神崎が部活に入りたいと言い出したのも、ここにつながるための大事な過程だったのかもしれない。実際、筑後がいなければ俺はここまでたどり着けなかった。
 20年ぶりの部室からはどこかノスタルジックな雰囲気を感じたけど、それに浸っている暇はない。かつてフラスコが置いてあったスペースには記憶通り時乃がとってきた深安山の試料が残っていた。

「本当に手伝っていいのか、筑後。まだバレずに済むぞ?」
「ここまできたらなんだって付き合うよ。だって、友達でしょ?」
「不法侵入に付き合って共犯になるようなやつは、友達は友達でも悪友かもな」
「悪友かあ。いいね、そういうの」

 筑後ははにかんだように笑うと薬品棚の鍵を開けた。これ以上は止めたって無駄だろうし、薬品や実験器具の位置を把握している筑後がいてくれるのは心強い。
 深安山の土を空のフラスコに詰める。この中に微量ながら“呪い”の原因となる菌類が含まれている。それを薬に作り替える。その方法は元の世界で研究を繰り返す中で頭に叩き込まれていた。

「じゃあ、筑後。今からいう器具と薬品を準備してくれ」
「うん、任せて」

 必要となるものを筑後に伝えながら並行して作業を進める。神崎のタブレットの論文を引き継いで研究することで、効果こそ高められなかったけど特効薬の製造方法はかなり改良できていた。元々の方法は専門的な設備の使用が前提で、それなしでやろうとすると神崎が実際に行ったように二か月程要するものだった。
 その手法は改良を重ねたことで、高校の実験室レベルの設備で数時間あれば一人分くらいの治療薬を作り出すことが出来るようになった。つまり、必要なものは全部そろっている。 試料も薬品も器具も。それをサポートしてくれる存在も。神崎を救うための状況を、神崎が整えてくれていた。
 念のため実験用の分厚いマスクを身に着けて、フラスコの半分くらいまで水を入れてすぐに蓋をする。間もなくフラスコの中が胞子による白い靄で満たされた。
 これが俺や時乃、それから神崎を苦しめさせてきたものの正体。
 そして、今は神崎を救う――この世界から神崎を奪い取るための薬の原料だ。



「できたっ!」

 試験管の中に仄かに褐色がかった液体が生成されて少しだけ息をつく。部室の中には神崎が山頂まで持ち込んだ鞄と中身が残されていて、そこに入っていたケースの中に試験管を慎重に収める。

「宮入君、これ」

 最後まで作業に付き合ってくれた筑後が何かを投げた。受け取ってみると、それは自転車の鍵。

「急ぐんでしょ? 僕は片付けてから帰るから、使って」
「助かる!」

 鞄を持って部室から外へと急ぐ。時間は朝の3時を回っていた。あとどれくらい神崎の体に猶予が残されているかわからない。一秒でも早く神崎の元に駆けつけたかった。
 塀を乗り越えて敷地の外に飛び降りると、こんな時間に車のヘッドライトに照らされる。今の俺は高校生の体で、こんな時間に歩き回っていれば何を言われるかわからない。
 素通りしてくれ、という祈りは虚しく、車はそこで止まって運転席から誰かが降りてきた。

「宮入。お前こんな時間に何してんだ。というか、お前今学校から出てきたか?」

 やたらとゴツイ車から降りてきたのは石川先生だった。ズカズカと近寄ってくると逃げる間もなく腕を掴まれる。

「お前、わかってんのか。こんな時間にほっつき歩いてるだけでも補導対象なのに、学校の中で何してたんだ」
「先生、見逃してください」
「ここで見逃したら教師失格だろうよ」
「お願いです! 神崎の……神崎のところへ行かないと!」

 不機嫌そうだった石川先生の顔が一瞬殴られたような表情になった。俺と鞄と自転車、それから一部屋だけ明かりの残る校内を見て、煩わしそうに頭を空いている手で頭をガリガリとかきむしる。

「おい、乗れ」
「先生、俺は……」
「神崎のところに行くんだろ。乗せてってやるよ」

 石川先生はそう言うと俺の腕を離してさっさと車に乗り込んでしまう。
 信じていいのだろうか。もし石川先生の言葉が嘘で俺の家や交番にでも連れていかれたら、確実に間に合わなくなる。

「……よろしくお願いします」

 それでも、助手席に乗り込んだ。
 元の世界で神崎が意識を失った後、石川先生は驚くくらい憔悴していたし、卒業してからもずっと気にかけて時折病室にもお見舞いに来ていた。今だって神崎という言葉で態度を変えた石川先生のことを、信じてみようと思った。
 車は荒っぽく走りだし、病院に向かう道へと進む。

「神崎が意識不明で入院したって聞いて、落ち着かなくてよ。じっとしてても眠れないからずっと車を走らせてたんだ」

 石川先生は前を見たまま独り言のように話し始めた。返事は求められていないような気がして、ただ黙ってうなずく。

「こんなこと言うと教師失格かもしれないけど。俺はあいつに救われたんだ」

 石川先生がすっと目を細める。

「お前の担任になるってとき、最初はすげえ悩んだんだ。お前に関する噂なんか信じちゃいねえけど、教師がなんと言ったところでこんな田舎じゃ噂の力は根強いからな。本当は綾村時乃と同じクラスの方がよかったんだろうけど、その辺は色々バランスもあってな」
「じゃあ、最初に神崎が俺の隣の席だったのは、もしかして……」
「転校生なら、しがらみもないかと期待したんだよ。そしたら、なんだかんだお前と神崎は上手くやっててさ。だから、もう一つ期待してみたくなった」
「……オーパーツ研究会」

 石川先生は前を向いたまま頷く。

「筑後が一年の時の担任は俺でな。クラスになかなか馴染めなかったあいつに居場所を作れればくらいの考えで、当時三年生が一人いるだけだったオー研に誘ってみたんだ。筑後は人見知りなだけで誰かと繋がりたいって思いは人一倍強かったし、その時は上手くいったけど、四月からまた一人になっちまって。どうにかしてやりたくてな」

 ふっと息を吐きだしたのは、石川先生なのか俺なのか。

「そんな時にお前らが部活のこと聞きに来て、ちょっと運命的なものを感じたんだ。駄目だったら仕方ないくらいのつもりだったが、お前らがオー研に入ってから筑後は去年よりずっと明るくなった。明るくなるのがいいことかは知らねえけど、少なくとも筑後はお前らが入部して嬉しそうだった」
「筑後は俺の噂のこと聞いても、態度一つ変えませんでした」

 それどころか、俺の為に必死になってタイムトラベルの証拠を探してくれた。前の世界ではその手法まで開発し、この世界では神崎を救う手立てを与えてくれた。

「アイツはいい奴だろ?」
「もちろん。悪友ですから」

 石川先生はちょっと驚いたように俺を見て、それから口元だけに小さな笑みを浮かべた。

「神崎のおかげで出来すぎなくらい悩みが二つ解決した。それで安心してた矢先、神崎が入院したって連絡が入って、全部神崎に投げ出しちまった罰なのかなって考えて」
「神崎は、押し付けられたなんて思ってませんよ」
「わかっちゃいるけど、教師も人間なんだ。ついそんなことを考えてたらいてもたってもいられなくなって、意味がないってわかりながらも学校の周り行ったり来たりして。そしたら、お前が急に学校から出てきたわけだ。オー研の部室が明るかったし、どうせ筑後も中にいたんだろ?」
「……筑後は俺が巻き込んだだけです」
「別に、怒りやしねえよ。お前らが無駄にそんなことするとも思えねえし。お前が神崎のところへ行きたいって騒いだとき、何となく納得しちまったんだ」

 さて、と石川先生が改まって俺を見る。

「見えてきたぞ。ところで、どうすんだ。面会時間も終わってるだろうし、神崎のところまで行く当てはあるのか」

 そう言っている間にも病院の夜間入口の辺りの駐車場に、病院に不釣り合いなゴツイ車が滑り込んでいく。

「先生」
「おう」
「時間稼ぎ、お願いします」
「あん?」

 助手席のドアを蹴り上げるようにして開き、病院に向かってダッシュする。

「おい、お前。正気かよ!」
「俺、石川先生のクラスでよかったです!」
「決めたぞ! 宮入、お前だけは補習だからな! 絶対神崎を連れ帰ってこい!」

 頭をガリガリとかきながら車を降りてきてくれた石川先生の姿を確かめて、俺は勢いそのままに病院内に駆け込んだ。



 午前四時、ベッドの上の神崎は静かに眠っていた。
 手早く鞄の中から注射器と試験管を取り出して、慎重に神崎の腕に注射する。
 神崎の状態に変化はない。後は朝になって神崎が目覚めるかどうか、信じて待ち続けるしかない。
 鞄の中に入っていた道具で後処置をして、そのまま神崎の手をギュッと握りしめる。

「なあ、神崎。やっぱりお前はすげえよ」

 一人で別の世界から飛んできて、高校生として暮らしながら俺と時乃の為にずっと準備を続けて。しかも、転校生としてやってきた神崎は誰も味方がいない状態で一からそれを積み上げた。

「筑後と石川先生に手伝ってもらったのに、この数時間だけでヘトヘトなんだよ。見ず知らずの学校に転校してきて、ずっと頑張ってくれたんだな」

 この世界では数時間前。体感では20年以上前に聞いた言葉を思い出す。
 はにかんだように笑った神崎が残したたった一つの秘密。

「どうしてお前がそこまで頑張れたのか。この前は秘密にされたけどさ、目を覚ましたら教えてくれよ」

 神崎が残したタブレットの記録から少しだけ察しはついていて。神崎が元いた世界の俺に対して嫉妬している自分がいた。
 神崎が見ていた俺はどっちだったのだろう。俺を通じて初めの世界の俺を見ていたのか、それとも。

「話したいことがいっぱいあるんだ。大体20年分くらい。考えてみろよ。この世界で俺とお前だけ高校生の体にアラサーの中身が入ってるんだぜ? これからどうするんだよ。色々と相談しないとな……」

 考えることは色々ある。俺も神崎もこれから先、二十年分くらいの記憶を持っているけど、この世界は俺と神崎という二つの異物を抱えたA"の世界だ。それがこの世界にどういう影響を与えて、自分たちの記憶とどう折り合いをつけていくのか。
 だけど、それは全部神崎が目を覚ましてからの話だ。
 流石に、少し疲れた。高校生の体だけど、中身はここまで二十年以上走り続けてきた。
 でも、走り続けてきたことは全く後悔していない。もし神崎が眠りについてしまった後のあの世界でもう一度やり直すの機会を与えられたって、俺は何度だってこの選択をするだろう。

 だからさ、神崎。この世界でもう一度――



 窓から差し込む光で目が覚めた。
 夏の気配を感じさせる強い日差し。前回もこうだっただろうか。
 神崎の手を握りしめたまま眠ってしまったようで――そうだ、神崎。

「嘘、だろ……」

 神崎は眠ったままだった。それは、二十年間変わることの無かった神崎の姿。
 体から力が抜けていく。間に合わなかった。駄目だったのか。せっかくやり直しのチャンスを掴んだのに、俺は救えなかったのか。
 俺はまた、選択を間違えたのか。
 どれだけ繰り返しても、この世界は俺の大切な人を奪い取っていく運命なのか。

「ごめん。ごめんな、神崎……」

 世界が滲む。最後に泣いたのはいつだっけ。ああ、そうか。二十年前の昨日だ。
 結局、俺はあの時から何も変われなかった。あの日誓った自分への約束を果たすことが出来なかった。俺を送り出してくれた時乃と筑後の願いを叶えることが出来なかった。

「神崎、ごめん」

 握りっぱなしだった手をもう一度握りしめる。
 祈るようにじっと、ぎゅっと。
 どれだけ世界をやり直したって、変えられないものがあるのだろうか。
 世界の理を飛び越えても、パラドックスを克服することはできないのだろうか。
 奇跡を願った時に助けに来てくれた女の子一人、救うことも許されないのだろうか。
 それでも俺は。俺は神崎を救いたい。
 もう繰り返すことが出来ないとしても、どうしても、救いたかった。

「どうして、もう一度会いたかった……」

 願いを込めてもう一度その手に力を込める。
 二十年前のこの日からずっと駆け抜けてきた。それでも、手が届かないものがあるのか。
 この手から零れ落ちてしまうものが、あるということなのか。

「あ――」

 ピクリとした微かな気配。手が控えめに握り返された。

「……宮入君」

 静かな部屋に、ポツリと零れた声が響き渡る。

「神、崎……?」

 神崎が薄らと目を開く。俺と目を合わさずに気まずそうに窓の方を見ていた。

「ごめん。ちょっと前に起きたんだけど、昨日色々言った後だから恥ずかしくて……っ!?」

 ずっと、その声を聞きたかった。笑った顔が見たかった。
 そこにいる神崎の存在を確かめたくて、起き上がりかけた神崎をそのままぐっと抱き寄せる。
 会いたかった。ようやく会えた。20年間、ただずっとこの日を待ち続けてきた。

「宮入君、ありがとう」

 ぽんぽんと、神崎の手が優しく俺の背中をたたく。
 その仕草の一つ一つが、まるで奇跡のようで。

「わかるよ。私が今こうしていられるのは、奇跡なんかじゃないって」

 神崎の腕にぎゅっと力がこもる。俺はここにいて、神崎もここにいる。
 ようやく、この世界に辿り着いた。多くの可能性が広がる世界の中から、ようやくこの世界をつかみ取ることができた。

「私が生きている世界を、宮入君は選んでくれた」
「俺と時乃が笑っていられる世界を、神崎が拓いてくれた」

 しばらくそうしてお互いの存在を確かめて。腕の力を少し緩めると神崎は少し照れくさそうに笑っていた。はにかんだ神崎の頬には一筋の涙の線に光が当たりキラキラと輝いている。

「ねえ、どうしようか宮入君。私たち、これから何も知らない高校生活をやり直さないと。まず何すればいいんだろ?」
「そうだな。腹減ったし、とりあえず校庭のいつもの場所でばあちゃんが作ってくれた弁当食べて……」
「いいね。いっしょにおはぎも食べたい。それからは?」

 二十年前から約束したままだった大事な予定が残っている。

「今度の土曜日、どこ行きたい?」