ここ最近では珍しく、春先まで冬の寒気がずっしりと居座っていた。
 新学期が始まるのを待っていたかのようにようやく桜が咲き始め、高校二年生の初日は桃色の風に背中を押されながら自転車を漕ぎ出した。
 住宅街を抜けたところの赤信号で足を止める。見慣れない制服の女子生徒が信号が変わるのを待っていた。
 春風がふわりと吹き抜けて、彼女の髪をふわりと揺らす。その隙間から、透き通るような瞳と目が合った。

 ちらっと俺の方を見た女子生徒は目が合った瞬間、驚いたように目を見開きそのまま俺の方に振り返る。腰の手前まで伸びた大人っぽい濡れ羽色の髪、思わず魅入ってしまうクリッとした瞳。一度見たら忘れられないくらいに印象的な雰囲気。
 これまで一度も見かけたことの無い女子生徒。それなのに、どうしてそんな眩しそうな目で俺のことを見るんだろう。
 女子生徒は期待に満ちた微笑みを浮かべて一歩こちらに向かって歩み寄る。

「ねえ、宮入君。タイムトラベルって信じる?」

 吸い込まれそうな表情から放たれた質問に一瞬思考が固まる。
 タイムトラベルって言ったのか。さっきまで見惚れかけていたその顔が急に胡散臭く見えてくる。
 聞き流そう。いきなりそんな質問をしてくる奴がまともなはずがない。女子生徒から信号の方に視線を向けると、タタタっと女子生徒が視界に割り込んできた。楽しげに笑いながら首をかしげる。

「あっ、そうだ。まずはタイムトラベルについて説明しないとだよね。宮入君に対して教える側になるの、緊張するなー」

 女子生徒は本気なのか冗談なのかドンドン話を進めていく。呆気に取られているうちに女子生徒はパチンと両手を合わせてから、ちょいちょいと空の方を向けた人差し指を顔の隣でくるくる回す。そんな仕草が不思議と懐かしく感じたけど、やっぱり俺は一度もこの女子生徒と会ったことはないはずだ。

「まずタイムトラベルには物理型と波動型というのがあってね。今から話すのは比較的容易にタイムトラベルできる波動型の方で……」

 女子生徒は勢いのまま何だかよくわからないことを話し始めた。謎のタイムトラベルの理論を語りながらさりげなく俺の進路を塞いでいる。話している内容はまるで意味が分からないけど、とにかく俺が答えるまで逃がさないという強い意識を感じた。

「わかった、わかったから。タイムトラベルなんて信じない。これでいいか?」
「じゃあ、その理由は?」

 面倒くさいな。新学期早々なんでこんなのに絡まれてるんだろう。ちょっとため息をついてみるけど女子生徒が動じる気配はなかった。仕方ない。

「……人間が認識できる世界が四次元である以上、四次元目の時間を自由に行き来できるはずがない。それに、タイムパラドックスの問題もある。例えばAという人物が今起きた問題を解決するために過去に戻って原因を取り除いたとするだろ」

 どこかで聞きかじったような知識を組み合わせただけだけど、女子生徒は瞳をキラキラとさせて俺の言葉を聞いている。なぜだか悪いことをしているような気分で居心地が悪い。ああ、もう。本当に何なんだ。

「Aが失敗しなかった未来ではタイムトラベルする理由がなくなる。だけど、タイムトラベルをしないと原因が取り除かれたという事実がなくなってAは失敗してしまう。そしたらまた問題を解決するためにタイムトラベルをして……とAはループの中に閉じ込められる。でも、グルグルとそこで時間が回り続けるっていうのもやっぱりあり得ない。タイムトラベルなんて理論的に破綻してるだろ」

 女子生徒は軽く腕を組むとうんうんと何度も頷く。適当に話しただけなのにそんな風に納得されると逆に恥ずかしかった。今はただ早くこの場から逃げ出したい。

「ほら、もういいだろ?」
「うん、ありがとう。急にごめんね。どうしても今の宮入君がどう考えてるか、聞いてみたくなっちゃって」

 女子生徒はちょっとドキッとするくらいに綺麗で――それでいてどこか儚げな笑みを浮かべると、俺の自転車の進路を開けた。ちょうど信号が青に変わり、吸い込まれそうな視線から逃げ出すようにペダルを踏む足にグッと力を込める。
 そのまましばらく漕ぎ進め、十分距離をとったかなというところで振り返ってみる。
 女子生徒は相変わらず交差点のところで立ち止まったまま、じっと俺の方を見ているようだった。
 もう一度記憶を辿ってみるけど、やっぱり見覚えはない。あんな相手、一度会っていたらそうそう忘れないと思う。でも、そうだとしたら。

「なんで俺の名前知ってんだよ……」



 学年が上がってクラス替えはあったけど、教室に入っても特にワクワクもドキドキもなかった。
 友達と呼べるような友達なんて殆どいないし、そもそも俺と仲良くしようという相手がまずいない。
 だから、普段過ごすのに困らない程度の関係性だけ築いて平穏にやり過ごせればそれでよかった。

 2年9組、担任は化学担当の石川先生。
 ちょっとおせっかいなところもある印象の三十代半ばくらいの先生で、そこは可もなく不可もなくというイメージ。教室の最後列の席でぼんやりと名簿や教室内を見渡していると始業の鐘が鳴り、ボサボサな髪を手で押さえつけながら石川先生が入ってきた。
 ちらっと隣の席を見る。教室の中でその席だけ誰も座っていなかった。
 名簿を見ると神崎香子という生徒の席のはずだけど、いまいちその名前に見覚えがない。まあ、一学年に400人も生徒がいる学校だから、同じ学年でも知らない相手の方が多いくらいなのだけど。

「さて、今日からこのクラスの担任の石川雄介だ。別に、ビシバシするつもりもないから気楽にやってくれ。今日はこの後体育館で始業式だが、お前たちだけはその前に1つ楽しいイベントがあるぞ」

 教壇に手をついた石川先生の視線が俺の方に投げられる。正確には俺の隣の誰も座っていない空っぽの席。なるほど、名前に見覚えがなかったのは俺が知らなかったからではなく、高校では珍しいけど転校生だからか――と考えて朝の光景を思い出す。見慣れぬ制服の見知らぬ女子生徒。
 いや、そんなまさか。

「じゃあ、入ってくれ」

 石川先生が廊下に向かって呼びかけると、ドアがガラッと開かれる。
 教室中が浮足立つ様子なんて初めてみた。廊下から入ってきた女子生徒の姿に隣の席の男子が惚けたように息を零す。教室あちこちで似たような反応が起きる中、多分俺だけが違う意味で息を呑んでいた。

「初めまして、神崎香子です。よろしくお願いします」

 濡れ羽色の髪を艶めかせた神崎がはにかむと教室中がざわざわと揺れる。

「神崎は親御さんの都合で今日から永尾高校で学ぶこととなった。新しい仲間だから、よろしく頼むぞ。じゃあ、神崎はあそこの空いている席に行ってくれ」

 はい、と頷いた神崎は石川先生が指さした通りに俺の隣の席にやってくる。

「今日からよろしくね、宮入君」

 ニコリと笑みを向けてきたのは、今朝俺にタイムトラベルがどうこう質問してきたあの女子生徒で。同じクラスになるところまでは百歩譲って認めるとして、なんで隣の席なんだよ。ちらっと様子を伺うと鼻歌交じりで席に座った神崎と目が合い、またふわりと微笑まれる。ああ、もう。どうしてそんなに親しげなんだ。今朝初めて会ったばかりだろう。そもそもあれだって、出会いと呼べるようなものじゃない。

「じゃあ、改めて今日の流れだが――」

 石川先生が始業式と午後からの授業の流れを説明するが、隣に座る神崎の存在にいっぱいいっぱいで説明は殆ど頭に入ってこなかった。



 神崎のせいで頭がいっぱいで殆ど記憶に残っていない始業式が終わり、石川先生からホームルームの続きがあった後、ようやく昼休みになった。
 この永尾高校は一応県内で進学校を名乗っていて、伝統やらなんやらということで始業式初日から早速午後の授業がある。普段ならそれをどうこう思うことはないのだけど、今日は朝から色々あったせいか既に肩の辺りにドッと疲れがのしかかっていた。

「香子ちゃんの制服、長部田高校のだよね! いいなー、可愛いー!」
「高校の途中で転校って大変だね。何かあったらいつでも言ってね」
「ってか、香子ちゃんスゴイ可愛いよね。ほら、見てよ。男子がずっと話したさそうにこっち見てる」

 昼休みに入ると待ちに待ったというように神崎の周りに人だかりができる。朝の続きでタイムトラベルがどうこう聞かれたら面倒くさいなと思っていたけど、これならその心配はなさそうだ。

「あ、そうだ。香子ちゃん、お昼一緒に食べようよ!」
「えっと、まさか初日から午後まで授業と思ってなくて。お弁当持ってきてなくて……」

 隣の席での会話に何となく耳を傾けていたら、不意に視線を感じた。何気なしに神崎の方を見ると、ピッタリ神崎と目が合った。そのとたん、神崎はしてやったりとでもいうように口角をあげる。

「あ、そうだ。宮入君もお昼持ってきてないんだよね? せっかくだし購買案内してほしいな」

 突然、俺に対してそんなことを言い出した神崎に周囲の女子の顔に驚きとか若干の敵視のような色が浮かぶ。周囲の女子から「余計なことするな」というオーラを感じた。まさしく俺もそう思う。余計なことに首を突っ込みたくない。
 というか、なんで俺が昼飯持ってきてない事知ってるんだよ。

「いや、俺は……」
「ほらほら、早くしないと全部売り切れちゃうんじゃない?」

 どっちが転校生なのかわからないことを言い出した神崎は立ち上がると、周囲の女子の間をすり抜けるようにしてパタパタと教室の外へと駆けていく。

「ほら、宮入君。早く早く!」

 廊下に出た神崎が中の俺に向かってピョンピョンと手招きする。大人びた雰囲気と無邪気さが合わさって、神崎の周りには人を惹きつける世界が醸し出されている。
 いつまでもそうさせておくわけにもいかないし、ため息をついてみながら立ち上がる。朝もそうだったけど、神崎は人の退路を断つのが無駄に上手い。
 教室の中からの多種多様な視線を背中に受けながら廊下に出る。なんで神崎が俺を指名したのかはわからないけど、なにやらご機嫌な様子の神崎を先導して購買に向かった。

 空腹の学生で混み合った購買でいくつかパンを買って、人の波から抜け出す。あとは教室に戻れば解放されると思っていたけど、なぜか神崎はそのまま校舎の外に向かおうとしていた。
 このまま神崎が教室に戻らなければ、戻ってくるのを待っている女子たちに何を言われるかわからない。呑気に外へと向かおうとする神崎の腕を慌てて掴み、とどまらせる。

「教室に戻らないのか?」
「昼休みは気分転換に教室の外でって決めてるから」

 なんだよ、それ。それならそうと教室でそう言えば購買から外まで付き合ってくれた女子もいただろう。
 いや、もしかして。初めからこれが神崎の目的だったとしたら。
 もし神崎があの教室に息苦しさを感じるというのなら、少しだけシンパシーを感じる。といっても、何だこいつっていうのが99%で、残る1%くらいの共感にすぎないけど。

「ねえ、宮入君。外でどこか落ち着いてお昼食べられるところってある?」

 神崎の手を取っていたつもりが、いつの間にか神崎に腕を握られていた。とっさに振り払いかけるけど、購買の周りには多くの生徒が行き交っていて、ここであまり目立ちたくないという気持ちが上回る。
 いつのまにか、またこうやって退路を塞がれている。

「あるけど、あまり期待すんなよ」

 そう答えて手を引っ込めると意外とあっさり解放された。なんか、俺がどんな反応をするか神崎に読まれているような気がする。そんなにわかりやすい人間でもないと思うんだけど、やっぱり俺が覚えていないだけでどこかで会ったことがあるのか。
 とにかく校舎の外に出て、グラウンドを横切り敷地の端に向かう。この辺りは色々な木々が植えられているだけで休み時間も寄り付く生徒はほとんどいない。そんな校内でも一際閑散としたエリアだけど、一歩入り込んだところにちょっと上等なベンチが据えられている。

「わあ、秘密の場所みたい!」

 神崎は瞳をキラキラとさせて早速ベンチに腰を掛ける。帰る素振りを見せようものならまた退路を塞がれそうで、諦めて最初から神崎の隣に腰掛ける。雑然とした校内の音は遠く、聞こえるのは若葉が風で揺れる音。一人になりたいときに見つけた不思議な場所だった。

「やっぱり、ここに来てよかった」

 買ってきたばかりの焼きそばパンを頬張りながら神崎がポツリと零す。

「まあ、うちの学校では珍しく静かな場所だから」

 一学年400人いるから、校舎内はどこでも大体人の声がする。そういったものから遠ざかることが出来るこの場所を見つけたのは偶然だったけど、昼休みは時々ここで時間を過ごすようにしていた。
 だけど、神崎は少し不思議そうな顔で俺を見た後、パッとそこにイタズラっぽい笑みを重ねた。

「ううん、そうじゃなくて。この学校に転校してきてよかったなって」
「この半日だけで、そこまで言い切れるのか?」

 そこまで判断するだけうちの学校のことを知ることはできてないと思う。もしかして、神崎の前の学校は都会にあって、こういった自然な場所がなかったとかそういうことだろうか。
 だけど、神崎はフルフルと首を横に振って、すっと顔を寄せてきた。漂ってくるのはラベンダーっぽい花の香り。

「言い切れるよ。宮入君、君がいるから」

 不意に覗かせた神崎の艶っぽい表情にドキッとしてしまい、慌ててこいつは今朝いきなりタイムトラベルがどうこう聞いてきた人物だと自分に言い聞かせる。それに、神崎とは今朝初めて会ったばかりのはずで、俺がいるからなんていう言葉の意味がわからなかった。

「あのさ。俺たちって会うのは今日が初めてだよな?」
「ううん。これまでに会ったことはないよ」

 ちょっとだけ変わった言い回し。まあ、気にするほどのことでもない。

「じゃあ、なんでこんなに俺に構うんだよ。それに、なんか俺のこと知ってる感じだし」
「君が、宮入君だから」

 神崎の答えはまるで答えになっていなかった。でも、神崎はいたって真面目な顔をしていて、これ以上質問を続けても埒が明かなさそうだ。
 仕方ない。本当に神崎とこれまで会ったことがないかは別に確かめるとして、今は紙袋の中のカラリと揚がったカレーパンに集中することにする。隣の神崎も食事に集中することに決めたようで、ニコニコとしながら次のメロンパンを手に取った。

「うん、そう。きっと私の選択は、間違ってない」

 神崎の不思議な独り言を聞きながら、スパイスの香るカレーパンを飲み込んだ。



 午後の授業を終えると再び神崎の周りに人だかりができた。遊びに行くかとか、部活どうするのかという誘いが矢継ぎ早に飛んでいる。荷物を纏めながら耳を傾けていると、神崎がこちらを見る気配があった。うっかりまた神崎の方に視界を向けてしまって、だけど今回は神崎と目が合う前に女子の一人がさっとずれて視界を遮った。

「あのさ、宮入君とはあまり関わらない方がいいよ」

 囁くような声だけど、隣の席だから当然俺のところまで聞こえてくる。そんな言葉、慣れっこ過ぎてもはや何の感情もわいてこないけど。

「どうして?」

 少しだけ神崎の口調が鋭くなった。

「神崎さんは引っ越してきたばかりだから知らないだろうけど、宮入君の家は……その、呪われてるから」
「呪い……?」

 訝しむような声を出す神崎に周囲の女子たちがゆっくり頷く。隙間から見える神崎の顔には困惑と呆れが入り混じっている。やっぱり普通なら馬鹿らしいと思うだろうけど。
 神崎が小さく俯いて、音を出さずにため息をつくのが見えた。

「悪いけど、私はそういうの――」
「翔太ー! ばあちゃんから今日の買い物リストが来たんだけど!」

 神崎の言葉は途中で教室の後ろから入ってきた女子の声に遮られた。
 幼馴染で去年は同じクラスだった綾村時乃が、一身に集まる視線をものともせずに俺の席まで歩いてくる。時乃は肩に届かないくらいのところですっきり切りそろえられた髪を揺らし、やれやれとでも言いたげにスマホの画面を突き出してきた。
 メール画面にはにんじん、じゃがいも、玉ねぎといった食材が並んでいる。

「今日の晩御飯はカレー? それとも肉じゃが?」
「さあ、意外とシチューかも。というか、クラス替わってもばあちゃんは俺へのおつかいの内容を時乃に送るんだな」
「翔太が全然メール見ないから私に送ってくるんでしょ!」

 時乃が両手を腰に当てて小さく頬を膨らませる。その言葉に言い返すことができなくて首をすくめる。誰かから連絡が来るなんてことが殆どないから、メールはもちろんスマホでSNSをこまめにチェックする習慣、身に着きようがなかった。

「でも、時乃もわざわざ来なくても転送してくれりゃいいじゃん」
「だからっ! 翔太がスマホをチェックしないんだから転送しても意味ないでしょ!」

 バシッと俺を指さした時乃は、ふと何かを思いついたようにニッと笑ってそのまま顔を寄せてくる。

「あ、もしかして。翔太ってば、私にこうして会いに来てほしいからメール読まないようにしてるとか?」
「まさか」

 とりあえず、肩をすくめてみせてから時乃のスマホの画面の写真を撮る。さっきまで呪いがどうこう言っていたクラスメイトが呆気に取られているうちに退散したかった。すでに荷物をまとめ終えていた鞄を手に取り、後は帰るだけ――というところで教室の中から「あーっ!」という声が響いてくる。
 この状況でそんなことができる人間は限られていて。

「もしかして、時乃さん! 綾村時乃さん!」

 時乃を指さして立ち上がった神崎が、何故か興奮した様子で両手をワナワナさせながら時乃ににじり寄っていく。なんかヤバいその動きに、普段は勝気の時乃も気圧されたように後ずさった。

「そ、そうだけど。あなた、誰?」
「神崎香子。今日から転校してきて宮入君と同じクラスになったんだ。よろしくね」

 なんでわざわざ俺の名前を出したのか。

「よろしく」

 頷きかけた時乃が途中で首をかしげて、訝しげに神崎を見る。

「って、あれ? 私のことなんで知ってるの? 前に会ったことあったっけ」
「うーん、会ったことはないんだけど、なんて言ったらいいのかなあ……?」

 人差し指を顎に当てて考え込む神崎と混乱したまま俺と神崎を交互に見る時乃。教室内から「修羅場?」という声が聞こえてきたけど、ある意味では間違ってない気がする。もっと正しい言葉は混沌、だと思うけど。

「神崎は宇宙から転校してきたんだよ」
「おー、うまいこと言うね。流石は宮入君」

 何故か感心されてしまった。むむむ、と悩み続けていた時乃だったけど、「なるほど」とこっちはこっちで納得する。考えることを諦めたらしい。神崎に向けてちょっと硬めの笑顔を浮かべた時乃は、すぐに俺の方を向いてヒラヒラと手を振った。

「じゃあ、そろそろ陸上の練習だから。ばあちゃんによろしくね」
「おう、練習頑張れよ」

 踵を返して教室の外に駆け出していった時乃を見送った後、ざわつく教室のどさくさに紛れて俺も教室を後にした。



 帰宅途中でいつものスーパーに寄って祖母から頼まれたものを買い揃え、自転車のカゴに野菜を詰めたトートバッグを載せた状態で祖母の家に向かう。祖母の家に寄ると少し遠回りになるけど、自転車なら大した距離じゃない。
 住宅街をぼうっと自転車を漕いでいると、どうしても神崎のことを思いだす。朝から不思議な発言をかました転校生は結局一日中俺を振り回し続けた。つかみどころがないというか、そもそも掴んでしまってはいけないような相手な気がする。
 やたらと俺に絡んできたけど、以前会ったことはないと言い切るし、時乃とも会ったことはないようだ。そのフレンドリーさは今の俺には少しだけ眩しくて、でも悪い気まではしなくて。
 だけど、親しげな態度がたまたま隣の席だったからだとしたら、“呪い”のことを知っても神崎は俺に対する態度を変えることはないだろうか。

「ん、あれって……」

 視線の先に珍しい制服の女子が歩いている。珍しいけど、今日一日で随分見慣れた黒を基調とした制服だ。
 どうしてこんなところで。
 引き返そうかと思ったけど、それより先にまるで視線を感じ取ったかのようにその女子が振り返る。
 その女子――神崎はすぐに俺に気づくとブンブンと手を振る。こうなってしまったら、今更脇道に逃げるわけにもいかない。諦めて神崎の元に近寄って自転車を降りる。
 それにしても、結局一人で帰ってるのか。てっきり女子の誰かとどこか遊びに行くなりすると思っていたけど。

「わあ、宮入君。奇遇だね」
「一応聞くけど、本当に奇遇なのか?」
「もちろん。私の下宿、この先だから」

 なぜか神崎が得意げに胸を張る。そっか、親の都合で転校してきたと言っていたけど、下宿してるのか。永尾高校は県外から受験する学生向けにいくつか高校指定の下宿先があるけど、女子が下宿してるのは珍しいと思う。

「宮入君はさっき言ってたおばあちゃんのところに行くの?」

 神崎の視線は自転車の前かごのトートバッグに向けられている。俺と時乃の会話からすぐに察しがついたらしい。

「そうだけど」
「ねえ、私もついていっていい?」

 また神崎が不思議なことを言い出した。普通、出会ったばかりの相手の祖母の家に行こうなんて思わないだろ。

「いや、何でそうなるんだよ」
「ほら、私引っ越してきたばかりで友達って宮入君しかいないし」

 既に友達認定されていた。何をもって友達というのかって議論は、多分不毛なんだろう。だけど、仮に俺たちが友達だとしても、友だちがいないというのなら神崎がやるべきことはここで一人でほっつき歩いていることじゃない。

「友達が少ないって言うなら、なおさら俺じゃなくて他の人と絡めよ」
「んー。でもさ、呪いとか言い出しちゃう人たちとあまり仲良くできる気しないし」

 神崎は飄々と肩をすくめながら答えた。何でもないそんな神崎の仕草に、気がつけば息を呑んでいた。
 呪いなんて聞いたら普通は神崎みたいな反応なのかもしれないけど、今の俺にはなんだかとても新鮮で。
 胸の奥の一番弱い部分が騒ぎ立てるのを、学ランの上からギュッと握って抑えこむ。小さく息を吸う。逸るな、期待をするな。期待すればするだけ、裏切られたときに辛くなるだけだ。

「……わかったよ。来てもいいけど、特に何もないところだからな」
「やった! 楽しみだなあ」
「だから、何もないって」

 神崎の一歩前に出て自転車を押す。本当に朝から振り回されっぱなしだし疲れはするんだけど、不思議と苦にはならなかった。どうして神崎がスキップしそうなくらい楽しそうに歩いているのかはわからないけど、そんな神崎と歩いていると空が少しだけ明るく見えた気がした。



「ばあちゃん。頼まれてたの買ってきたよ」

 住宅街から少し外れたところにある昔ながらの平屋の引き戸をガラガラ開ける。平日は二、三日に一回くらいのペースでこうやって頼まれたものを買ってきてるから勝手はよく知っていた。
 居間に向かうと祖母はテレビを見ながら煎餅を齧っているところだった。これ見よがしに野菜の入ったトートバッグをガサガサ振ってみせると、そこでようやく祖母が顔をあげる。

「ああ、翔太じゃないか。ありがとね。それじゃ、立ってるついでに買ってきたものを冷蔵庫に入れておいて――おや、そっちの子は?」

 顔をあげた祖母の焦点が俺の後ろにいる神崎に合った。それを見た神崎がトトトっと祖母の前に進み出ると、流れるように膝をつく。

「私、今日転校してきた神崎香子です。たまたま隣の席になった翔太君に色々案内してもらって、友達もいないだろうからって放課後も私の面倒を見てくれて」

 なんか絶妙に結果までの過程が全部違っている気がする。神崎の言葉だと俺がとても面倒見がいいやつみたいだけど、宮入翔太はそんな人間ができたやつじゃない。目の前のばあちゃんも怪訝そうに神崎の言葉を聞いている。

「へえ、翔太がねえ。珍しいこともあるもんだ」
「実は、翔太君とは朝から偶然出会ってて。教室に案内されて隣の席になった時にはそんな運命的なことあるんだ……ってビックリしました」

 神崎は口元に両手を当てて何やら楽しそうに話している。一方で、祖母の目はジトっと湿って不審そうに俺を見る。こういう時の祖母は碌なことを言い出さない。

「なあ、翔太。友達が少ないのは別に構いやしないけどね。女をとっかえひっかえするような男にはなるなって言ってきたはずだろう?」

 案の定だった。

「いつ俺が女をとっかえひっかえしたんだよ」
「だってあんた、時乃ちゃんのことはどうすんの」
「時乃はただの幼なじみだし、そもそも神崎とはたまたまそこで会っただけだよ」
「ふうん、どうだかねえ。あんたのじいちゃんも若い頃は女癖が悪かったもんさ」

 自分の祖母の家のはずなのに、楽しそうに俺たちのやり取りを見ている神崎よりも居心地の悪さを感じている気がする。ばあちゃんと母さんがタッグを組んで俺をからかう時に似ている感じ。こんなとき、俺にできることというのは限りなく少ない。

「とりあえず、冷蔵庫に食材しまったらじいちゃんのとこにいるから」

 歯向かっても勝てないのなら、とっとと逃げるべきだ。返事を待たずにトートバッグを持って台所に向かい、買ってきた野菜を冷蔵庫にしまっていく。それから、居間と繋がるのとは別のドアを通って仏間に向かった。手入れの行き届いた仏壇にはまだ若々しさを湛えた祖父の写真が飾られている。
 リンを鳴らし、線香を供えて手を合わせる。祖父が亡くなったのは十年程前。物心がついたばかりの頃で祖父の記憶は朧気ではあるけど、よく山に連れて行ってくれて色々なことを教えてくれた優しい祖父だった。
 そんな祖父はある雨の日に仕事で山に入った後、突然亡くなった。幼いながらにそれを“呪い”のせいだと周りの大人が噂していたことはよく覚えている。その大人たちの表情に憐れみと嘲笑が同時に浮かんでいたことも。

「じいちゃん。ゆっくりだけど、俺、ちゃんと前に進んでるから」

 祖父の死は少なからず俺の人生の選択に影響を与えた。あの頃、何もできなかった後悔を今もどこか引きずっている。だから、せめてこれからの自分にできることをずっとずっと考えてきた。どれだけ変な噂が流れても高校に通っているのは、それに必要なことだから。
 蝋燭の火を消し、仏間を後にする。居間に戻ると祖母も神崎もいなくなっていて、台所の方から包丁の音に混じって声が聞こえてきた。

「香子ちゃん。翔太はあんな感じで不愛想だけど、もしよかったら仲良くしてやってね」
「もちろんです。宮入君はいい人ですから」
「そうかい、そりゃあよかった。昔はもっと素直な子だったんだけど、立て続けに祖父と父親を亡くしてねえ……」

 祖母の言葉に神崎が目を見開くのが見えた。これ以上祖母が話すのを止めた方がいいと思ったけど、竦んでしまったように足が動かなかった。もし神崎が呪いのことを知って俺への態度を変えてしまったら。神崎も結局周りのやつらと同じだったら。
 別に今日出会ったばかりの相手からどう思われようが気にすることでもないはずなのに、神崎が他のクラスメイトに混ざって蔑んだ視線を送ってくるのを思い浮かべると足が凍り付いたように動かなくなる。

「身内が二人も呪いで亡くなっちまって、この辺りじゃ随分風当たりが強くてね。そんな中で育っていくうちに周りに心の内側を見せなくなっていったんだ」

 祖母は切った野菜を鍋の中に入れると調味料を加えてゆっくり煮込んでいく。野菜が炊かれる温かな香りが広がるのとは裏腹に、家の中はどこか冷え込んだ空気に包まれている感じがした。

「あの。学校でも翔太君に向かって呪いって言ってた人がいるんですけど。その、呪いっていうのは……」

 鍋を少しかき回した祖母はすっと天井の方に視線を向ける。

「ここから北の方に深安山ってちょっとした山があってね。そこの山頂にはちょっと大きな祠があるんだ」
「祠、ですか」
「そう。遥か昔にこの辺りにいた鬼を封じた祠とか伝わってるけど、その鬼は水とのつながりが深いらしくてね。強い雨が降った日にその祠に近づくと鬼に呪われるなんて昔から伝わってるのさ」
「それは……」

 神崎の目は訝しむ様に祖母の背中を見つめている。それは呪いという存在を前提に話をしていいのかどうか悩んでいるようにも見えた。鍋に蓋をして振り返った祖母はそんな神崎を見て穏やかに笑う。

「呪いなんてバカらしいと思うだろう? だけど、うちの人も息子も言い伝えの通り雨の日にあの祠に行って、帰ってきたとたん急に体を壊して死んじまったんだ。それが本当に呪いのせいなのは知らないけど、宮入家は呪われてるから気をつけろだなんて言い出す家が出て、それが今も翔太を苦しめてる」

 祖母の肩が小さく動き、息がゆっくりと吐き出される気配を感じた。

「それなら、やっぱり呪いはあるんだよ。誰かを殺す呪いじゃなくて、生き延びたものを苦しめる呪いがね」

 祖母がゆっくりと神崎の手を取り、そっと、そしてギュッと握りしめる。

「私にできるのは、あの子の食事を作ってやるくらいだからね。呪いとか関係なくあの子と一緒に生きてくれる人がいたら、私は安心なんだ」
「任せてください」

 神崎は祖母の手を握り返して胸を張る。

「呪いなんてものがあってもなくても、宮入君は宮入君ですから」
「そうかい、そりゃあ頼もしいねえ。翔太のこと、頼んだよ」

 祖母がポンっと神崎の頭に手を載せるとゆっくりと艶やかな髪を撫でる。神崎はどこかくすぐったそうにしながら祖母の手を受け入れていた。



 祖母が作った夕飯を受け取り家を出る。祖母が作ったのはカレーでも肉じゃがでも、それからシチューでもなくて、予想外にポトフだった。トートバッグの中には俺と母親の分の他に、神崎の分のタッパーに詰められたポトフが入っている。

「なんでお前が泣いてるんだよ」

 神崎を送っていけと祖母から言われて歩き出したのはいいものの、少し歩いたところで神崎は瞳からボロボロと涙をこぼして話せるような状態じゃなくなってしまった。
 慰めようにも神崎がなんで泣いているのかわからなくて、ただ神崎が歩き続ける隣を自転車を押していく。

「だって。宮入君、これまですごい大変だったんだなって思ったら……」

 しばらくそんな風に歩いて、ようやく涙が止まったのか神崎がポツリと零す。

「別に言うほどでもないって。時乃とかもいたし」

 幼馴染の時乃は祖父や父さんが亡くなってからも変わらず傍にいてくれた。小学校のころは俺より時乃の方が体も大きかったから、呪いのことでからかってくるようなやつがいたら俺より先に飛び掛かるくらいだったし。
 俺が時乃にしてやれたことなんて数えるくらいしかないはずなのに、時乃はなんだかんだ今だって傍にいてくれる。俺を遠ざける人も少なくないけど、時乃みたいな人は確かにいて。だから、そんなに俺自身の境遇を不幸だとか思ったことはない。

「だけど、じいちゃんと父さんはもう庇ってくれる人もいないから。だからせめて俺が呪いなんてないってこと、証明したいとは思ってる」

 祖父と父さんが亡くなった原因をきちんと突き止めることができれば、呪いで亡くなったなんて不名誉な終わりを塗り替えることが出来るはずだ。でも、こんな田舎の集落で起きた呪いの話なんて誰も真剣に調査はしてくれなくて。だから、自分で調査できるだけの知識と経験が必要だ。

「私も手伝う」

 神崎はゴシゴシと目元を拭うと真っ赤な眼ではっきりと宣言した。泣きはらした顔はグチャグチャだったけど、夕日に照らされたその瞳は今日見た神崎の表情の中で一番綺麗で――心の空白にすっと入り込んできた。

「……ありがとな。でも、今の俺たちじゃできる事なんて限られてるから」

 今はとりあえず勉強して、大学とかその先で専門的な知識を身につけるしかない。遠回りでもそれが一番確実だと思う。だけど、神崎は首を横に振ると自転車を押す俺の手に自分の手を重ねた。

「私、これでも優等生でやってきたんだよ? だから、きっと宮入君の力になれると思う」
「いくら成績が良くても、呪いの調査なんて……」

 途中で思わず口をつぐんでしまう。決意のこもった神崎の瞳に真っすぐと見つめられて、言葉が出なくなってしまう。
 少しだけ、信じてみたくなった。
 呪いのことを気にしないでいてくれるだけじゃなくて、呪いなんてなかったと解き明かそうとしてくれる人を。もしかしたら本当に、何かが変わるのかもしれないと。
 でも、神崎が本当に手伝うつもりなら、伝えておくべき話がある。

「呪いなんて信じないって言いながらだけどさ。俺のじいちゃんや父さんだけじゃなくて、何人も呪いにかかったって記録がこの町には残ってる。深安山の祠から帰ってきてから間もなく昏睡して、殆どは二度と目が覚めない。運良く目覚めても重い後遺症に悩まされ続けたって話だ」

 そういう記録が単に言い伝えだけでなく古文書にも残っている。そう言ったものが積み重なっているからこそ、この辺りでは呪いというものが未だに信じられているわけで。

「神崎だってそんな風にならないとは言い切れない。それでも――」
「怖くないよ。怖くないから、私はここにいる」

 即答どころか俺が言葉を言い終わる前に神崎が答える。俺を見る瞳は全く揺らぐことは無くて、その光に吸い込まれそうになり思わず目を逸らした。何だか胸の奥の方がザワザワとして変な気分になる。

「……わかったよ。じゃあ、よろしく頼む」

 神崎の目を見ないようにしながら手を差し出す。一瞬だけ神崎はきょとんとしたけど、すぐにその手を取ってくれた。ふわりとした手の温もり。そういえば、最後に誰かと握手をしたのはいつだっただろう。祖父と父さんが亡くなって、気がついた頃には俺と触れることさえを躊躇われることも少なくなかった。

「じゃあ、まずは現場を見ないだね! 早速だけど、今度の週末にでもその祠、見に行こうよ!」

 なんかとんでもないことを、神崎はキラキラした目で言い始めた。
 ああ、そういえば。こいつは出会ったばかりの俺にタイムトラベルがどうこう聞いてくるやつだった。握手する手をギュッと握りしめられて、今更逃げ道を失ったことに気づいた俺は神崎の言葉に頷くしかなかった。