筆の進みが遅くて随分めぐみをハラハラさせてしまいつつ、なんとか新刊を発行した彩里は、日曜の同人誌即売会にサークル参加した後、同じジャンルのお仲間四名とめぐみと一緒に、池袋のダイニングバーで打ち上げ(アフター)をした。
 アルコールで乾いた喉を潤し、一通り語り合い、すっかり出来上がった頃、トイレに行った子と入れ替わりに、すっと彩里の横に腰掛けたのは、めぐみだった。
「ヒダリさーん、今日はほんっと、お疲れ様でした」
「あ、ヨルノミさんも、お疲れ様です」
 こういう場所で呼び合うのは、もちろん本名ではなく、お互いがそのジャンルで使っているペンネームだ。
 同人仲間のプライベートは、詮索しないのが不文律になっている。
 めぐみとは、最初のオフ会の後で本名を教え合って以降、ふたりきりの時は本名で呼び合ってきたが、本当はその方がイレギュラーなのだった。
「ヒダリさんの新刊、最高だった~……! 我慢できずに自分のスペースで読んで、泣いちゃって、自分のところに来てくれたお客さんにびっくりされちゃった。でもその方も、ヒダリさんの本、いつも買ってるファンの人だったみたい」
「恐れ入ります。……やだ、めぐ、じゃなくてヨルノミさん。あらたまって、恥ずかしい……」
「いやもう本当にすばらしくて! 家まで黙っていられないよー。ほんと、すご、もう一コマ一コマ額装したいくらいの神画力はいつものこととして、ラストシーンのあまりのエモさに、もう、……ファンです!」
「泣かないで……! ありがとうございます、でも、本当、このあたりで、勘弁してください、……めぐみさん」
 他のひとならともかく、同居人から正面切ってファン宣言などされてしまったら、どういう顔をしていいかわからない。
 彩里はほてる顔に手で風を送りながら、小声でめぐみに囁きかけた。
 しかし、めぐみはかなり酔っ払っているらしく、溢れんばかりの感情を乗せて、熱く感想を語り続けた。
「そりゃ、普段は、目の前にいる女の子がヒダリさんと同一人物だって、うっかり忘れがちだけど。本当に本当に、ずっと好きだから。今のうちに感想言わせてね。本当に、新刊、最高でした。ラスト、夜の海に浮かび上がった大きな吹き出しの、声の質感とか、吐息に含まれる湿度とか、そういうのはありありと伝わってくるのに、あの子がなにを言おうとしたのかは、わかるようでわからなくって、なんとも言えない切ない余韻で。きっとあの子の声、歪んで、溶けて、消えていく、泡沫なんだって思った」
「泡沫……」
「もちろん、ヒダリさんがどういうつもりで描いたのかは、わからないよ。もしかしたら、セリフの中身を入れ忘れたとか、そういうあれかもしれないし」
「いえ、それは流石に、ないです。敢えて、です」
「だよね。すごく、彼が言うはずだったこと――に、想像を掻き立てられた。描かれてないからこそ」
「ヨルノミ先生の手で、続きを書いてくださっていいですよ。二次創作の二次創作として」
「こんなに美しいお話の続き、書けるわけなーい!」
 めぐみがこれほど酔うのは珍しいことだ、と思いながら、熱に浮かされたような早口でしゃべる彼女を見ていると、向かいに座った仲間が茶々を入れてくる。
「そこのごふーふ、見せつけてくれますな~」
「あれ、ご結婚されてるんでしたっけ。ヨルノミさんとヒダリさんって」
「あ、はい……」
「へえ~。リアルゆりっぷる、知り合いで初めて見ました」
 百合、では、ない。
 彩里は一瞬訂正しようかと迷ったが、酔っている上なにも考えずに口走った感じの仲間の顔に、何も言えなくなった。
 別の仲間が、彩里の表情の翳りには気付かず、うっとりするような息をつく。
「いいなぁ。オタ友との結婚って、ある意味、夢ですよね。うちもオタ婚なんですけど、旦那と趣味が合わなくて、萌え語りはできないから、羨ましい」
「趣味が近い分、離婚の原因が、うっかり逆カプにはまった、とかにならないよう、気を付けますよ」
 めぐみの混ぜっかえしで、どっ、と笑いが起こった後、一座の話題はたちまち、最近のジャンル内学級会といったゴシップ話に移っていった。