それから互いの親族にあいさつをし、彩里はめぐみが住んでいる西荻窪の2LDKのマンションに移り住んだ。
籍は入れたが、式も新婚旅行も、彩里の調子が落ち着くまで保留になった。
彩里は東京で転職活動を始めたものの、コンクールに出た頃の自信は霧散していたし、他の出場者に見つかって、やはり地方を捨てて東京に出てきたのかと思われるのも嫌だった。
それでも、なんとか気持ちを奮い立たせて外資系ラグジュアリーホテルの求人に応募し、面接にこぎつけた。
数日前にめぐみと下見がてら、ラウンジでアフタヌーンティーを楽しんだが、ハイセンスな内装や映えるスイーツはともかく、ベルトコンベア作業のように大勢の客をあしらうサーヴィスにショックを受けた彩里は、結局、面接の日は靴を履き終わることができず、人事担当者に断りの電話を入れてしまった。
つまらないことに固執し、わがままを言っている、という自覚はあった。
客が満足しているのなら、それでいい――はずなのに。
技術を修練し、心を込めて賓客を迎え、どんなトラブルも涼しい顔で何事もなかったようにおさめてしまう、古きよき日本のサーヴィス精神というものは、なじみのある同人用語に言い換えるとすると、もう「オワコン」「爆死」なのだろう。
そんなものへの愛着を抱え続けていても、未来はない。
彩里は、ジャンルへのハマり方を間違えたのだ。
一度これと決めたジャンル観を捨てて、みんなに支持される「覇権」解釈に乗り換えるというのは、彩里のオタク気質的に、とても難しいこと。
だったら、ジャンル自体を移る方が、まだマシだった。
好きな業界にいられないのなら、もう何でもいい。
手当たり次第に他業種の求人を漁る彩里に、めぐみは、
「焦らないで、ゆっくり考えればいいよ」
そう優しく声をかけてくれた。
大切なことだから、きちんと体調を回復して、受けたダメージから立ち直って、冷静な判断ができるようになってから決めても遅くはない、と。
「そういうわけにはいきません」
甘やかされるほど、彩里は反発し、早く生活を軌道に乗せなければ、と焦ったが、疲れ切った心と体は、気持ちになかなか追い付いてくれない。
最終的には、彩里は小さな印刷所でアルバイトをしながら、めぐみのリクエストに沿うかたちで、お絵描きと同人活動を再開した。
生活費は折半する約束だったが、めぐみから請求された家賃や水道光熱費は、想像よりずっと安かったし、めぐみが話題の店からお取り寄せする高級ハムや海産物、フルーツやスイーツなどのご相伴に預かることも、結構多い。
家事を多めにやって体で返そうとは思っても、一人暮らし歴が長いめぐみの部屋は時短家電での自動化がかなり進んでいて、あまりやることもないのだった。
めぐみに言えば、
「え? 普段のお礼? 気にしなくていいよ、そんなの。……でも、どうしてもって言うなら、彩里ちゃん、この映画一緒に見て⁉ すごく界隈で話題で気になってるんだけど、結構血みどろって言われてるのが気になって……ひとりじゃ怖いから」
そんなふうにかわされて、結局、いつもの平日夜のルーティンになってしまう。
原稿中は自分の本のスケジュールで互いにいっぱいいっぱいだったが、行き詰った時は、同じ家の中にいて、気がねなくなんでも相談できた。
締め切り前は、軽食を自分で買ってきて、原稿しながら好きに食べる。
ルームシェアのような気安さで、気付けば新婚生活最初の一年目が過ぎていたのだった。
◇