寛子の記憶に残っている、シューズが床をこするキュッキュという音と、ドリブル音。天井の高い体育館の反響。
 忘れられない、一佳の姿。
 体育館の空気はどこか硬かった。これから決勝戦、という興奮は帯びていたが、学校行事らしいわいわいとした喧騒が少なく、座っている生徒の表情もどこか強張っていた。人数も少ない気がする。
 大勢に紛れれば、高等部のジャージも目立たないだろう、という寛子の思惑は外れて、できるだけ階下からは見えなさそうな位置を選んで座った。
 クラスマッチでバスケットボール選手として出場することを、あるいは出場せざるを得なくなったことを、一佳は事前にわざわざ告げた。世間話の延長、という顔で。
 応援に行くよ、と言ったら、いいです、と断られた。
 その時の彼女の表情で、古傷が治り切っていないことを察した。
 普通、かかわりたくない、と思うものだ。
 寛子にわざわざ出場を告げたのは、隠したい自分の弱さを許せない、頑なな一佳らしい。それでも、痛みに疼いた表情を見逃すほど、寛子はばかではないつもりだった。
 ――要はほうっておけなかったのだ。
 試合開始前のコートの上では、それぞれのチームがウォーミングアップを始めていた。一佳一人が頭ひとつ長身で、落ち着いて頼もしげだったが、華があるのは断然、対戦チームの方だった。
 チームの核と思しき三人は、声出しをしながら、部活の基礎練よろしくボールをリズミカルにゴールの奥の板に当て、一定の周期で華麗にシュートを決めている。俊敏で、動きに無駄がないし、掛け声や腰の落とし方が独特で、きっと、現役バスケットボール部の子たちなんだろう、と傍目にもわかる訓練され具合だ。
 ――あれが、多分、二年前にロッカー室で一佳とやり合ってた子たち。
 という先入観がある所為か、寛子は思わず、ハラハラと手に汗を握りしめていた。
 一年当時、先輩に目をかけられたことで同級生の不興を買ったというが、二年のブランクは大きい。一佳はその後、他の運動部に所属したわけでもない。
 一佳のいるチームは、みんなでパス回しの練習をした後、各自でシュート練習に入った。対戦チームのような本格的なシューズを履いている子は、一佳以外はもう一人。本格派な感じの対戦チームに雰囲気で押されていて、「素人」な感じがした。
 ――あの子が打ちのめされるところを、私はこのまま見てもいいんだろうか。
 彼女の性格を知っている分、自分が失敗して恥をかくより、つらい気がした。
 しかし、そんなのは、寛子の杞憂だった。
 スリーポイントラインの外側に、ジャージの裾が余った長身の、ほっそりとした一佳が立つ。
 気負う感じはなく、ボールを掌になじませるようにドリブルしながら、研ぎ澄まされた目をゴールに据えて。
 しなやかに膝を屈伸させて伸びあがる。
 一連の一佳のフォームが綺麗すぎて、寛子はぞぞ、と鳥肌に似た感覚に襲われた。
 すぱっ、と気持ち良く風を切る音で、ボールがリングを通り抜ける。
「……あの一佳、かっこよかったぁ」
 相変わらず一人ぼっちで。
 でもチームメイトの目は、きっと心も、一佳に向いていた。
 ひいき目もあるだろうが、一佳のシュートで、浮き足立った「素人」チームも、落ち着いたように思う。
 その後も、飛距離を変えて放たれる一佳のボールは、すべて綺麗にリングを通っていた。
 ウォーミングアップ終わり、のホイッスルが鳴ると、誰ともなく、チームメイトが一佳の周りに集まり始めた。
 一佳は大げさに周囲を鼓舞するわけでも、ふざけるわけでもなく、ただ自然体で立って、チームメイトと一言二言交わす。
 試合が始まってからも、一佳はとにかく落ち着いていて、相手チーム選手の隙をついて、ボールを拾い、回し、冷静に点を決めていった。
 試合の細かいところまで、寛子は覚えていない。
 そもそも授業で習うレベルしかルールを知らないけれど、クラス対抗、という特別な熱気からか、弾丸のように突っ込んでいく「素人」チーム相手に、「玄人」チームは手を焼いているように見えた。
 対戦チームにはバスケットボール部の中でもエース級なんだろうと思しき人がいて、皆がボールを集めていたが、切れ味鋭く放ったボールはことごとくリングに嫌われてしまっていた。
 執念でゴールを止めようとする、一佳チームメイトの尽力もあっただろう。必死に走り、想定外の動きでエースに食らいつく、その様子はこう言っては何だが、少しニホンミツバチの熱殺蜂球を思わせた。
「……クラス替えした先に、すごく熱い委員がいたんですよね。全体優勝するぞ、って言って、各種目に運動得意な子を割り振って、自主練の計画立てて」
「へえ……」
「私も、その子に無理矢理口説き落とされて……」
「ほうほう」
 寛子は聞きながら、口角が上がってしまう。
 特別な熱気から、一人距離を取るように、一佳はどこまでもフェアプレーで、小憎らしいほど完璧だった。
 味方がミスをして、ジェスチャーで謝意を一佳に向けた時も、淡い笑顔で頷いてみせていて、「素人」チームの精神的支柱となっているように見えた。
 ――あれがあの子なんだ。
 と寛子は思った。
 あれもあの子なんだ、が正しいだろうか。
 二歳年上の寛子と二人きりの時には、見ることができない、佇まい。
 コート内は、一佳のための四角い水槽だった。
 彼女はそこで、素早く優雅に身を翻し、誰も寄せ付けなかった。
 もし二人の年齢が逆で、寛子が中学一年生の時にあの一佳を見ていたら、憧れの先輩として、告白もできないほど苦しい片思いが始まっていたかもしれない、そう思うほどに。
 否。年齢は関係ないかもしれない。
 シンプルに、憧れの後輩だ。
「あの時、私、あなたに一目惚れした気がするんだ」
「……………」
「あれ? 一佳、沈没してる? 眠った……?」
「……起きてますけど、なんて返そうか困ってます」
「うん」
 そうだと思った。
「あの時って……もう知り合って二年以上……。え、本当にその時でいいんですか? さんざん……その前は何だと?」
「それは……もちろん大好きだったけど。本気で惚れ直したって意味で」
「そうですか。ふうん。でも本気の前は、遊びですよね……」
 冗談めかした声を投げてくるが、語尾が薄っすら冷たい。
 寛子はそっと唇を舐めた。
 大人になった一佳はめったに感情をあらわにしないが、拗ねたり諦めたりはする。すぐに怒りの燃料にならなければ、熾火はずっと残っていくだろう。
 それでいい。
 誤解や行き違いで曲がるものは、都度、伸ばせばいい。
 話していられる間は。チャンスはいくらでもある。
「そんなわけないでしょ」
 許容の境目を探り続ける。
 試し行動。無償の愛。様々な感情と行動で織り上げられる長い時間のことを、「恋人」や「名前のつかない関係」なんて言い切ってしまうのも、あまり情緒がない。
 寛子と一佳だ。その間にあるのは、かけがえのない美しいもの、――と最後に名付けたいと願う、ありふれた日常に過ぎない。
「そりゃ、最初は一佳とのこと、将来を見据えた真剣交際とは言えなかった……と思う。だって、私、十五やそこらだった」
「十五やそこらには、難しいですよね」