「……寛子(ひろこ)さん」
「うん?」
「寛子さんは、私の、どこが好きなんですか?」
眠る前。薄闇の向こうにいる筈の、同棲中の彼女に目を凝らす。
今の家では、洋間にシングルベッドを二つ、左右の壁に沿わせ、間を通路にしていた。
どちらかが自宅で療養生活を送らなくてはならなくなった時のことを考えると、敷布団の方が良かった気もするが、金銭的に少し余裕ができた暁に意気揚々とベッドを買った時には、世の中がこんなことになるなんて思ってもいなかったのだから、仕方ない。
もしもの時は、元気な方がリビングでこたつ寝するしかなかった。
乗らない車も買えないし、テントを置く庭もない。
都心通勤圏内の狭い借アパートでできる家庭内での感染症対策なんて限界がある。
それでも、日本国内でワクチン接種が始まって、最初の冬。
ニュースを見る限り、新規感染者の数は随分抑えられているように見える。
人の往来が増える年末年始を越えた後も、オミクロン株とやらがこれ以上広がらず、重症者や死者が出なくなってくれれば、言うことはないのだけれど……。
「寛子さん」
促すような一佳(いちか)の声、その濃淡を、寛子は確かめる。
今日の声は、そこまで芯がない。水に滲んだ絵の具のように淡く、そのまま空気に溶け入りそうだ。
「……ぜんぶに決まってるでしょ?」
寛子は、一佳以上に、薄く、返す。
あくまでも、寝る前のほんのたわむれ。横になった拍子に、ちょっと心の中身がこぼれただけ、の体裁を取って。
寛子が何気なく言ったつもりの言葉が、一佳には、時々、違う重さで届く。
受け止め過ぎて、必要以上に傷ついたり、質問をした自分を恥じて、攻撃的になったり――考え過ぎだと思うのだけれど。
眠りに入る前は、特に、その傾向があった。
……そう。自己肯定感というもの。
その存在や、扱い方、高過ぎることや低過ぎることの弊害まで、このところ、よくSNSの話題になる。
寛子の自己肯定感が、水準に比べてどのくらいかはわからないが、どちらかと言うと、低い人の特徴は、一佳に当てはまることの方が多いかもしれない。一佳にも、自覚があるようだ。
「そうじゃなくて」
不服そうな一佳の声に、寛子は愛おしさを覚える。
――だいぶ、甘えることを覚えたね。
今すぐ彼女のベッドにダイブしたくなるが、いきなりそれをやると、野良猫が毛を逆立てるように威嚇される。
予想は容易だった。
これまで、寛子は何度もやったから。
愛情や幸福感を人に伝えたい時、寛子はよく体を使う。
セックス、まではしなくてもいい。好きな人とするのは気持ちがいいけれど、服越し、素肌、内臓――深部に近付くにつれ、神経が昂って快楽が増すかわりに、気をつけなくてはならないことも増えていく。
自分の深部だって、見たり触ったりするのは、一種、覚悟が必要なことだ。自分以外の――となれば尚更、こわい。
こんなことまで他人にゆるしてもらえるのか、という感動もあるが、それはそれだけ、壊れやすい場所に招かれた、という、責任と表裏だ。正直、重い。
人は簡単に壊れる。壊せる。体でも、心でも。壊れ方のバリエーションを知れば知るほど、恐ろしくなる。子どもの頃のような無謀はもうできない。
――だけどスキンシップくらいなら。
相手が厭がる場所を知っているなら、少し気安く臨める。
『人とハグしたら、ストレス値が下がるらしいよ』
――思えば、最初の誘い文句から、そうだった。
しかし、思えば一佳は、よく唇を噛んで耐えるような顔をする。
あまりストレスから解放されているようには見えない。
今更だが。
「……そんな、考え込むような話です? 寛子さん」
「いや。ぜんぶ、としか。一佳の性格も、顔も好き」
「顔……。学生の時から、言ってましたよね」
「初めて会った時の一佳の顔、記憶してる。あまりないことだから、よっぽど好みで、じーっと見たのかなって、私。顔の話、厭?」
「厭というほどでは……美人じゃないですけど。好みって言うの、寛子さんくらい」
「すっごく好き」
「はいはい、どうも」
「大好き」
ひらがなにしてたった四文字。よっつの音。何度言ったところで、金銭的にも、体力的にも、痛手はない。良心を育てていない人なら、嘘でも言える。記録に残らないから、送った実感も、届いた実感も、チャットアプリのやり取りより希薄で。
――気持ちは込めているつもりなのに。
「そっち行っていい? 一佳」
「ええ……? いや、ここは流しましょうよ。明日の仕事……」
「行きたい」
地続きに寝ていた頃に比べると、やはり距離を感じる。寛子は、薄闇の通路をぱたぱたと蹴散らし、一佳のベッドに辿り着いた。
当て勘で手を伸ばすと、ふにっと頬に指先が触れる。
自分の腰に当ててあたためた右手で、一佳の頬を包み込んだ。
一佳の方に、まだはっきり厭がる様子はない。
夏より、冬は、そういう意味では一緒に居やすい。
寒いとヒトは体調を崩す。他人の体温は、体温保持の役に立つ。
――短絡的だけど。生物だから仕方ない。
感覚は、赤子でも持っている。
物心つく前から、寛子は人に触れるのが好きだった。嫌いな親戚には寄り付きもしなかったが、従兄弟や仲の良い友達に何も考えずにまとわりついていた。
体はセンサーだ。自分が好かれているのか、嫌われているのか、あれこれ気を揉まなくても、相手に触れてしまえば大体わかる。
その手っ取り早さは、不器用な幼子のコミュニケーションには、特にうってつけだった。
けれど、世の中には、ルールというものがある、という。
時や場所を選ばず、先生や大好きなお友達にまとわりついてはいけません。好き嫌いをせず、皆で仲良くしなければいけません。多少厭なことをされても、お友達なのだから許してあげましょう。大人の言うことに逆らってはいけません。良い子でいなくてはだめですよ。どうしてって? ……どうしても。
寛子にとって、納得のいくものもあったし、反発したいものもあった。
正直、今もある。
異論を差し挟まず、従え。と言われると、特にもやもやする。
寛子は、なんにしても、そのものの正体というものを知っておきたい欲が強い。
ルールも、理屈も、常識という名の共通認識も、嘘も、クッション言葉も、建前も、この世から消えてしまえ! と思っているわけでは、もちろんないのだが。
核にあるものの正体をきちんと理解して初めて、それを覆うものの必要性だって、身に染みてわかる筈だ、と、思うわけで。
――やっぱり、この世に学問があって良かった。人類は、まだ、大丈夫。
脈絡が、あるのかないのか。どこへ向けてかわからない感謝とポジティブ精神が突然湧いてきて、自分はやはり自己肯定感とやらが相当高いようだ、と寛子はしみじみ感じた。
――一佳に、分けてあげられたらいいのにね。要るかどうかは置いといて。
「私が持ってる余分なものは、全部この子にあげたい」という温度を持った感情が、一佳との接触面から流れ出していくようだ。
ヒトの体に備わった五感、そしてまだ名付けられていないプラスアルファの感覚は、常に、今も、情報収集と発信をしている筈で。