湿った風が前髪をふわりと揺らす。
 なかなかヘアサロンにも行きづらいと感じているうちに随分伸びた、と思いながら、寛子(ひろこ)はルーズに波打つ前髪を、手櫛で横に流した。
 横を歩く一佳(いちか)を見上げる。
 不織布マスクのせいで、外では彼女の目元しか見えない。
 表情に乏しいのはいつものことだが、思いつめたような瞳をする回数は、ご時世柄かこのところ増えていて、長年の付き合いでも完全には機嫌を読み切れなかった。
 だから、外に連れ出したのだ。
「いい天気だねー」
 寛子はわざと能天気に言いながら、川沿いの道を歩く。舗装された道路の両サイドは芝生で、同じようにマスクをつけた家族連れや二人組、学生グループなどで埋まっていた。上半身裸の男性もいて、さすが都会だ、と意味がわからないことを思ったりする。
「散歩って……。電車乗ったら散歩じゃなくないです?」
「景色違うところに来たら、気分変わるかなと思って」
「歩くだけで?」
 一佳は懐疑的だ。彼女の人生には、遊びが足りない。
「視界広いと気持ちいいし。太陽に当たればセトロニンが分泌……」
「出た。すぐ麻薬の売人みたいになる、寛子さん」
「……脳内麻薬、ね。人聞き悪い」
「ホルモンごときにどうにかできるなら、三十年以上も、私は根暗やってないですよ。歩けば考え事がはかどっちゃうし……」
「何考えてるの?」
「人類の幸福について?」
「スケールおっきい」
 寛子が言うと、一佳は肩を竦めて笑う。
 この感じなら、思いつめていると言っても少し余裕があるようだ。
「こんなご時世ですからね。考えざるを得ません」
「背負うねえ……」
 寛子に言わせれば背負い過ぎなのだが、下手に土足で踏み込めるところでもない。
 言葉を選ぼうとした時、視線が、ついと流れた。
 つい、吸い寄せられたと言うべきか。
 空気を読んで、一佳も黙る。
 しばらく不自然ではない沈黙が続いた。
 相手にこちらの声が聴こえない程度の距離を稼いでから、寛子は口を開く。
「見た?」
「見ました。女の子二人組?」
「うん。……なんか、指輪つけてあげてたね、シロツメクサの?」
 高校生くらいだろうか。仲睦まじげで、柔らかで、棘がなくて。
 相手にすっかり心を許しているのがわかる、無防備な笑顔を向け合っていた。
「花を摘んであげた、ではなくて?」
「いや、多分指輪、ほんとに」
 ……なぜ強調したのだろう、と遅れて後悔する。
 何、というわけでもないけれど気まずくて、ハンドバッグを握る左手に力がこもる。
 寛子も、一佳も。左手の薬指には何もつけていない。
 形として、交換しているものは、何もなかった。
「そういうのではない」筈だから。
 ……と無言のうちに寛子は思っていたけれど、一佳はどう思っているのだろう。気付けば互いに三十代半ば。友人から届く年賀状のほとんどは、赤ちゃんや家族の写真入りだ。
「……それでも、友達かも。深い意味はなくて」
「深い意味は……そうだね。わかんないよね、見ただけだと」
 外から見てわかる記号を身に纏う、リスクとメリットについて考える。きっとそれは地元と都会では違う。
 都会の人は、大して周囲に興味がない、踏み込まない。大勢が過ごす大都市に暮らすマナーとして、そういう態度が自然と身についているのだろう。
「四つ葉って探したことある?」
「いいえ。よく踏まれるところにあるんですっけ」
「それ、よく言うよね」
「全然。そういうの、どっちかというと信じてないので。そんなので幸せになれたら苦労しません……」
「リアリストだねー」
「どうしてだろ、いちいち、ですよね。いちいちこじらせてるんだな、私。四つ葉のクローバーくらい信じても、悪いことは起こらないのに……。なんでだろう。……さっきの二人、すごくかわいかったですね。あんな風に生まれてこれてたら、どんなにかって」
「一佳もかわいいよ」
 中高の頃から一等、目に刺さって鮮烈だった。
 万人にわかってもらえるかわいさではないかもしれないけれど、寛子にとっては、替えのきかない女の子のままだ。
 学生時代から続く関係性が途中で色合いを変えても、離れ離れになっても。
 しかし、寛子だって、先ほどの女の子が羨ましいのは変わらなかった。可能なら戻って訊いてみたい。どうやったらあんなに自然に指輪を渡すことができるのか。
「……こじらせって、いつか直せるのかな……」
「無理じゃない?」
「諦めるの早すぎません?」
「天パって、アイロンかけても夕方には戻るじゃん」
「一緒にしないでくれます? ……あっ、潮の匂い」
 一佳が立ち止まる。
 気付くのが遅いが、マスクをしていては、なかなか気づきづらいのだろう。
「この先、海? 懐かしい。そうか――この川も汽水か」
「似てるかな、あの町に」
「全然公園の規模が違いますね。予算も」
「うっせえ」
「なんとなく、はい、……なんとなく」
「物言いたげだなぁ」
「だから、連れて来てくれたんですか?」
 陽光を受けて、眩しいくらいの川面。水と泥と、潮の匂い。
「学生の時、よく堤防らへんでぷらぷらしたよね」
「生物実験室を諸事情で追い出されたら、あんまり、行くところもなかったですもんね。自販機でペットボトル買って、何時間もいましたね。暇か、っていう。喧嘩した時、ベッタリくっついたドライブのカップルが来たの、あれは本当に気まずかった」
「あー、喧嘩……原因なんだったのかな」
「……私ですよ」
「えっほんとに? 覚えてすらないけど」
「私もよく覚えてないけど、私です。コンプレックス強かったのも、親のことでずっとイライラしてたのも、不安をコントロールできないのも、いつも私でしたから。言い争った内容は忘れたけど、泣いた後、飲んだ桃のジュースの味とか、堤防をよじ登る時に擦った膝の痛さとか。腕にかかるスクールバッグの重み。そんなのばかり覚えてます。あとは寛子さんがどんな表情してたか、髪に何つけてたか、とか」
「ま、……私のこと、好きだね?」
「興味はあるんでしょうね」
 私だって好きなのにな、と寛子は思う。
 だけど、四六時中それを垂れ流しにするというよりは。
「寛子さんが好いてくれてるのは、わかってますよ。……独特ですけど。今日も私のことを思って連れ出してくれたの、わかってます」
 ――好きと言うよりは。
 寛子は、横を向いた一佳のまつげの先がひかっているのを見る。
 おそらく、陽光の加減だけど。
 ――彼女が壊れないか。寛子はそれがいつも心配で、彼女が何を着ていようが、何かに怒っていようが、それを後回しにしてしまって、怒られがちなのだけれど。
「……恋するだけで幸せになれない、な」
「わかるよ。でも、今日あなたと歩いて、私は楽しい」
 それがあなたの恋なのだと。これが私の恋なのだと。
 恋じゃないかもしれないけれど。お互いを大切に思う、一緒にいる理由を定義で強くしたい思いが、それでもあるのだ。