「わかりました。ひとまず、ここ出ましょうか」

     ◆

「一佳……私、自分の分、払うってば」
「いいですよ。来てくれたんだから、こんな時くらい」
「いや、もう、お願いだから!」
 店の外で押し問答になった挙句、寛子は無理やり一佳の手に二千円を押し付けた。
 ――もう、全然、スマートじゃない。
 そればかりか、一佳の示してくれた好意に対しても失礼になるかもしれないとわかっていたが、寛子のキャパシティは既にいっぱいで、これ以上考えることは増やせないのだった。
 自分でもどうかと思うくらい強引に押し切った後、反動で力が抜けてしまいそうになりながら、寛子はひとまず、バス乗り場に向かうことを一佳に告げた。
「本当に帰ってしまう気ですか?」
「……みちみちに考える……とりあえずギリギリまで悩むためにも、乗り場だけ確認しておくわ……」
 予約したバスは、もうキャンセルの窓口も閉まっている時刻だろう。残るか、帰るか。内定を受けるか、蹴るか。どう組み合わせるのがベストなのか、せめてベターなのはどれなのか、まったく冷静に計算できずにいる。
 一佳は、最後まで送ってくれるつもりなのだろう、寛子のすぐ横を歩いていた。
 一人になってしまいたい気分も強かったけれど、ここでうやむやに別れてしまっても、後悔するだろう、とも思う。
 転職活動が無駄撃ちに終わっても、一佳に会えるという口実があって――だから上京する勇気が出た、と、いうのに。
 会ったところで、振り回すだけで、一佳は楽しめなかったのではなかろうか、と、心配になってしまう。
 学生の時は、そんな不安とは無縁だった。くだらない話で笑い合えたし、許される限り、ずっと一緒にいたかった。
 相手の時間を無駄に奪うことを、後悔したことはなかったと思う。
 それくらい当時の自分は愚かだったし、けれどいつの間にか、何かの勾配が変わってしまったのだろう。
 一佳は何も悪くない。
 来たら、と声をかけてくれた。
 来たよ、と伝えれば、仕事終わりに会いに来てくれた。
 明るい夜道を歩いているうちに、クールダウンしてくるのを感じて、寛子は口火を切った。
「ごめんね、一佳。せっかく久しぶりに会って、話して、たのに。最後こんな感じでぐだぐだになっちゃって……」
「いえ。気にしませんけど。転職って、おおごとですもんね」
 寄り添うように共感されたことで、寛子も見栄を張らず、しみじみ肩を落とすことができた。
「本当にね……」
「こんなせんぱい、見たことなかったから。意外ではありましたけど」
「そうだっけ」
「昔は、悠然としていましたよね。コミュ力が高くて、自信ありげで、人目を全然気にしてなかった。生物実験室の中でも、外でも。生徒相手でも、教師相手でも」
「まあ、そんなのは、学生の特権でしょう」
「そんなことないですよ。学生だって、難しい。本当は」
「…………」
「せんぱいは、特別だった。水族館で言うなら、息苦しい、分厚い特殊ガラスの水槽の中で、堂々と水面近くを横切っていく。白くて大きいエイみたいでした」
「……エイ……ねえ……」
「いやですか?」
「ううん。……私は、水族館ならイルカと……、あと、スケルトンなエビが好きだな。小さいの。内臓が赤くって、神経質そうにずっと手足動かしてるような」
「そうですか」
「どうでも良い話でごめん。オチはない」
「全然いいですよ」
 沈黙が落ちる。あまり、嫌な沈黙ではなかった。
「……全然、いいです。オチがなくても。私、関西人じゃないんで」
 一佳はご丁寧に、二度、繰り返して、言った。
 関西人ではないから、どうでも良い話しか、できない。
 以前からできなかったし、していなかった。それでも、お互いだけが大切で、何だかわからないけれど、いつも楽しかった。
 その時間を、別に今、過ごしても。
 悪いことではないだろう。きっと。
「一佳は?」
「え?」
「水族館で、好きなの、いる?」
「私ですか? なんだろうなぁ……色々……捨てがたいです」
 一佳は生真面目に考え込んでしまう。頭の中で記憶を探って、じっくり順位を決めている、ような、そんな熟考の後、
「ないしょですかね」
「……えー。もったいぶっておいてそれ?」
 寛子が抗議してみせると、一佳は小声で言った。
「ないしょですけど、エイかな」
「…………え~~~~~~~~⁉」
 シャレのつもりはなかったし、一佳は関西人ではないので、鋭いツッコミも入ることはない。
 が、何か声を発して、気まずさをごまかさないと、寛子はどうにも耐えられなかった。否、気恥ずかしさ、だろうか。
 ――こういうことを、言う子に、なったの?
 キザ、という言葉は、もう死語なのかもしれない。だから言うことはできないが、心の中でそう叫んでみる。
「何か、言ってくれないんですか。せんぱい」
 一佳はきれいに唇の端を吊り上げて、意地悪そうに笑った。
 ――そんな顔も、するようになって。
「……言わない」
「ええー」
「調子に乗りそうだから」
「……乗ってますかね? 私」
 もう、と少しだけ怒った振りをしながら、寛子は肩を竦める。
 いつの間にか肩甲骨周りのこわばりがほどけていることに気付いた。いつからこわばっていたのかも、もう覚えていない。
 大学――も、楽しかった。就活――も、なんとか笑ってごまかしながら、やっていけた。
 では、社会に出てから。
 ――どうして、一佳にまで、気を張っていたんだろう。
 弱みを見せたり、心配させてはいけない、と。
 寛子が思っているより、一佳は図太いし、怖い子ではない。
 知っていた筈なのに。
 ー―その好意だって。
 だけど、そこに自覚をもってあっさり乗ってしまったら、あまりにも、過去の自分が汚れる、気がして。
 一佳と離れることを、選んだ。あっさり、離れられたくせに。
 好かれるとやっぱり嬉しい。受け入れられた気がして、少し自由になれる。
 だけど、彼女の好意に、ただ乗りはしたくない。
 だけど、あげられるものも、別にない。
 好きと言われたから好きを言い返すのは、なんだか、儀礼的だし、安い。
 そんな細かい感情が混ざり合って、自分でも、自分の気持ちがわからなくなっていて、そのもつれた糸が、少しずつ、ほどけ出す。
 話をすることで。
 ――と、人間関係の綾みたいなものについて多少造詣が深まった気がしつつ、肝心の、問題がまるまる残ったままで、そんなことにうつつを抜かしている場合か、と自分に言ってやりたくもなる。
「……一佳はさ、」
 これまでと声のトーンが違う、ということに気付いたのだろう。
 一佳はやや慎重にあごを引いて、寛子に続きを促した。
「なんで東京に来たの?」
「就職を機に。同窓会で、言いませんでした?」
「いや、だから、なんで東京なの。入りたい会社が、あったの?」
「いえ。たまたま受かったところにお世話になりましたし、そこも辞めて、今の会社は二社目ですし」
「じゃあ、なんで⁉ 親戚でもいたの?」
「いませんよ。みんな、地元から出てません」
「知り合いもいないし、地元も遠いし……困った時、頼れる人とかいないのに……よくわからないところに……」
「…………」