とも思うけれど、それは寛子の嫉妬か気後れかもしれない。
 首長竜に会える博物館が、東京にある。
 ということだけは、ずっと前から知っていた。どこで知ったのかは覚えていないけれど、一佳に出会うずっとずっと前の、古い記憶。
 その記憶が滞在中、突然掘り起こされた。自身の思いつきに興奮した寛子は、就寝用の一人用カプセルに寝そべった体勢で、検索窓に打ち込んだ。
【首長竜 東京 博物館】
 三つのキーワードで、あっさり場所が判明した。国立科学博物館――「かはく」がある上野恩賜公園の中には、パンダで有名な動物園の他にも、博物館――「トーハク」や美術館、コンサートホールや野球場、有名な料亭などが点在していて、平日だというのになかなかの人出だったが、それも無理からぬことだ。
「……ヤバいよね。一佳は思わない?」
「思いますよ」
 何が、と訊かれるかと思ったが、一佳はあっさり、まだ何も言っていない筈の寛子に丸ごと共感してみせる。
 それでも、齟齬はあるだろう、と思い、言葉を重ねた。
「ここのミュージアム、これだけ見れて、無料でしょ? かはくだって……六百円くらいだったよ。電車代入れて、千円ちょいで、こんなさぁ……」
 ――ここになら、永久に閉じ込められても良い。
 そう思えるくらい、好きなものに満たされる環境に出会えれば、充足して、幸せだと感じて良い筈なのに、ちりちりとした感情が胸を満たす。そんな電気信号にも、もう、慣れ始めてしまって。
「もう……ヤバい……」
「やばいですよね。そんなことばっかりですよ……」
 一人の時は、風船のように瞬間的に膨れ上がることのある感情も、一佳が即応じてくれたことで、おとなしいままだった。
 ――こんな……無料のもの好きみたいな、せせこましい、お金の話。そうと誤解されても、仕方ないのに。
 本当は、金の話ではないのだ。ないけれど、金の話でもある――。
 そんな「言っても仕方のないこと」で、大の大人が膨れっ面をするわけにはいかない、という、理性はある。だけど。
「なんかね……言葉にならないけど、ああいうもの、知らずに大人になっちゃったわけで」
「子供のお小遣いで、何度でも繰り返し、あの情報に溺れることができたら、どれだけ……とは思いますね。いえ、それでも、何者にもなれなかった可能性が大ですけど、私は、なんの才能もないから」
「そんなことないよ」
「けど、せんぱいは、こっちで博士とか、なれてたような気がする。中学生で立派に研究とかやっていたわけだし」
「いや~……多分、全然だよね……。けど……調べて、調べて、先生に聞いてとかしなくても、一発じゃん、とは思ってしまった」
 充実しているとはとても言えない地方の博物館や図書館で、目を皿のようにして興味のあることに関連した何かを探し出そうとしなくても、「ここ」にあったんだ、という、気持ちと。
 そういう日々が楽しくもあったのだけれど、という気持ちは、並び立つ。
 効率がすべて、ではないのだけれど。
「回り道をした、って徒労感がね……。何だろ、これ。きちんと大人になれているんだから、くどくど言っても仕方ないんだけど」
「……わかります」
 大人になった今なら、多少の出費をすれば、欲しい情報や刺激が得られる、その場所を探し出せるとわかった今でも、なんとなく釈然としない。
 子どもの自分に、嘘を信じさせていた――というような負い目が、ある。その嘘をついたのは自分ではないけれど、進んで信じたのは自分ではなかっただろうか。地元は良いところ。教育の機会は平等。努力は報われる。……それを本当に真実にできるかどうかは、自分の努力次第。
「……まあ、いいや。一佳がわかってくれたから、良いことにする」
「何ですか、それ」
 許してやる、と、いう気持ちになる。誰に対して向けた気持ちかはわからないけれど、あの環境で懸命に自分たちを育んでくれた親や教師たちにだけは絶対に向けてはいけない感情だろうから、――おそらく努力不足だった自分を、だろう。
 何者にも――大人にすらなりきれない自分を、ゆるしてやる。
 というと、やっぱりゆるせない、という気持ちにもなるのが、我ながらめんどくさいところだ。
「……わかんないけど。自分でもうまく説明できないくせに、って思うけど、だけど、多分、今、全然わかんね、ひがみじゃね、興味ねえ、って突き放されたり、かわいそうだね、って同情されたりしてたら、泣きそうだった。そこまでいかなくても、多分、落ち込んだと思う。……だから、ありがと」
「……ええ……?」
 一佳は、なぜこのタイミングでお礼を言われるのかわからない、という顔で、戸惑っている。
 ――仕方ないではないか。
 寛子自身も、よくわからない。初めて経験する感情なのだから。
「今一緒にいてくれてるのが、一佳で良かったな、って話だよ」
 言いながら、手を握ったり、上半身をぎゅっとしたり、――キスをしたり。
 ものすごくそういうことを繋げたいタイミングではあったが、過去は過去として、今の一佳がそういうことを望むかどうかはわからない。人目だってある。だから、衝動は表に出なかった。
「……変な、せんぱい……。あ、」
 出なかった、のだけれど、共感や親密さを覚えた所為なのか、展示を見ながら物理的な距離を縮め過ぎて、小指と小指がぶつかってしまった。
「ごめん」
 咄嗟に謝ったものの、寛子の心臓から、甘くてすっぱいものが一滴、滲んでこぼれた。多分、それは欲情なのだと、思った。
 ――なんとなくさびしい気持ちと、自己嫌悪、共感から生まれる恋なんてろくでもないものとわかっているけれど。
 結局のところ、それしか寛子は知らない。
 ドラマのようにスタイリッシュな瞬間など、人生のどこを探しても見つからなくて、ただの恋が、ずっと難しい。

     ◆

 ぱっと第一印象で選んだカフェさえ、大都会の決まり事のように繁盛していて、満席だった。駅近は大体そうで、ゆっくりできる場所がない。地元では、何も考えずにだらだらと何時間もおしゃべりしていられる場所はいくらでも余っているので、カルチャーショックだった。
 いつもの空間は、人がいない、という現象だったのだと思えば、「当たり前」がくるりと反転するようだ。
 町に若者が減った、と地元の大人が言う。その若者は死んでしまったわけではなく、大都会のカフェに集っていたというわけだ。
 十分ほど待たされた後、二層吹き抜けのおしゃれなフロアに案内されると、後は互いの近況を喋るのに必死で、時間を忘れそうだった。気になったデザートも、テーブルに到着した時に写真は撮ったものの、味はまったく覚えていない。気付けば胃の中におさまっていて、皿は空になっていた。
 机の上に置いた端末で時間を確認した寛子は、目を疑った。
「もう十九時だって。しゃべり出すと一瞬じゃない?」
「そろそろ出ます? バス乗り場までのルート、確認したいっておっしゃっていましたよね」
「そうね……けど、もう十分……いや三十分くらいなら……」
 ぐずぐずと時間を計算し直していたら、いつか言われる、と思っていたことを、やっぱり突かれる羽目になった。
「せんぱい。どれくらいホテル暮らししたんですか?」