「……あんた、一佳(いちか)。また背伸びた?」
「え」
冷蔵庫を開けたところで、母の玲香(れいか)に声をかけられた。
彼女は作り置きの夕食を温めているところで、いつもなら手を動かしている時に話しかけると機嫌を損ねるくせに、今日は無遠慮に近付いてきて、一佳の肩を掴む。
「痛っ」
「なーに、大げさ。……絶対伸びたでしょ。伸びた。やーだ」
やぁだ、いやねぇ、と繰り返されると、悪いことをしたような気持ちになってくるものだ。成長が、そんなに悪いことだろうか。
前回の健康診断では、165cmと言われた。クラスの女子の中で一番背が高い。学年では二番目だ。……というのは中学入学時からの事実で、視界はそれから大きく変わらない。
――せんぱい(・・・・)は最初から小さいし。
一番距離が近い人の、時々金に透ける猫っ毛や、リスのように
くるくるよく動く眸(ひとみ)を思い出すと、少し気分が和んだ。
しかし、ふんわりした気持ちは、玲香の声にかき消される。
「パパに似たのかしら」
それだって、悪いことではない。と思う。
一佳は、昔から、父親っ子だった。会社経営をしている父は仕事で帰宅が遅いし、出張も多いから話す回数は減っているが、歳の割に若々しく、長身で堂々としている父に似てはいけないのか。
――そんな言いかた、しなくても。
言い回しに、声音。そこから滲むネガティブな圧が、一佳の顔から、表情を消させる。
玲香は、いつからか、たいてい機嫌が悪い。笑顔や楽しい気分は罪なのだと言うように、一佳からも、父からも、もって回った雰囲気で、それを奪おうとする。
「バスケ部なんて、やめて正解よ。女の子がそれだけ大きいと、男の子がデートに誘う時、気後れするでしょ。でももう手遅れかしら。……髪くらい伸ばしたら?」
一佳は飲み物を諦め、ぱたんと冷蔵庫の扉を閉めた。
部活をやめることになった経緯を、もちろん玲香は知っている。
入部間もない頃、恵まれた体格を持つ一佳は、キャプテンや副キャプテンに目をかけられていた。ささいな理由――皆のしている掃除を免除され、朝練参加を命じられたことか何かで同級生部員の反発を買い、つまはじきにされていたところ、大ごとになって、担任教師からそれぞれの親が呼び出された。
マイペースな玲香が保護者会で親らしく立ち回れるとも思えず、詳しい話は聞かないままだが、元部活仲間たちとは、学年がひとつ上がってクラス替えを経た今も、気まずいままだ。
そんな経緯を知った上で、違う理由で「やめて正解」,と言える玲香のことを、逆にすごい、と一佳は思う。
「女の子と仲良くできないなら、男の子と話しなさいよ。せっかく共学なんだし。年頃の女の子らしく、かわいくしてりゃ、やさしくしてくれるわよ」
余計なお世話、と、一佳は言わない。
反抗期と決めつけられるのがわかっているし、伝えたところで実りがない。それにしたって、ほうっておいて、と思う。
娘のクラスメイトの顔ぶれも、授業参観や体育祭などの学校行事に一切顔を見せない玲香は知らない。今の「男の子」がどれだけシャイかも、同族の輪を抜けた「黒い羊」を取り囲む空気の独特さも、わからないならせめて黙っていてほしいのに。
見当はずれな助言など、受け流すのがきっと一番かしこい、と、一佳も頭ではわかっている。
だけど、思いがともなっていないのに、口先だけ嘘をつくなんて、自分というものへの裏切りのようだ。
「……二階で洗濯物たたんでくる」
「ついでにママのスカート、アイロンかけといて」
「……はい」
――また、男の人と会うの。
と、うんざりした気持ちで一佳はリビングを出る。
彼女比で機嫌が良さそうだったのも、それが理由なのだ。
色を抜いた長い髪を巻き、昔父からもらった外国の香水を振り、膝をあらわにするミニスカートで出かけることが、玲香にとって「かわいくする」ということなのだろう。
それで、どれだけ価値のあるやさしさが相手から返ってくるものかは知らないが、ああはなりたくない、と一佳は思う。
父親似、ばんざい。
――女、というものが、たぶん、一佳は好きになれないのだ。
すぐ群れる面倒な女子のグループも、電車で化粧する配慮のないOLも、理性より感情を優先してわめくドラマの女優も、「ああはなりたくない」の対象だから。
だからと言って、男になりたい、わけでもないけれど。
かわいくない一佳でも。男の子ならゆるされる。
男なら。成績が良ければ。仕事ができれば。父のようにたくさん稼げれば、かわいくなくても、つまはじきにならない。成員としてみなされる気がするのに。
合わない女子なんかに生まれたから。
――こういうところが「かわいくない」のだろう。
わかってはいるが、死ぬほど厭なものに染まるくらいなら、死んだ方がましだ。死ぬほどつらいことが、今以上に増えないうちに。
夕食の片付けを済ませた一佳は、早々に自室に引き上げた。
宿題は学校で済ませたが、授業の復習をしなくては。――今日の授業中、教壇に立つある教師の咳払いの回数に関する報告書をせんぱい(・・・・)の寛子(ひろこ)に送らなくてはという衝動にかられて、ルーズリーフ二枚に渡る大作をしたためた。その穴埋めだ。
――どうして授業中に、今すぐやらなければ、と思ったことほど、後で考えるとまったく必要のないことなの。
嘆きながらノートを埋めていたら、時計の針は、あっさり翌日を迎えていた。
いつの間にか、雨が降っている。隣家の屋根か雨樋か何かに当たって、澄んだ音がぱらぱらと鳴っていた。
そろそろ、と思ってベッドに潜り込んだものの、全然眠気が来なかった。雨音を聞きながら、湿気を吸った布団の中で何度か寝返りを打って一時間弱、下手をすると朝までこのままかもしれない、と焦り始めて、体を起こす。
なんとか、もう少しクタクタになって、眠るスイッチを入れなくては。
父も母も、日付が変わる前には就寝する。ラジオも音楽も流せない。こういう時は、本。
だが、自分の本棚の前で、一佳はしばらく茫然としてしまった。
見慣れたはずの、本の背の並び。題字の上で目が滑って、ひとつのところに視点が定まらない。手に取りたい本が見つからないのだ。
確かに中学受験で忙しかった頃から、新しい本はあまり増やせていない。けれど、本は昔から好きだったから、百科事典から近代文学、現代小説、エッセイまで、硬軟織り交ぜて好きなものを集めていたはずなのに。
――夜なので、怖くも重くもない、柔らかな文体の、女性主人公の小説がいいんじゃないか。
思って探してみたが、やはりページをめくる手が進まない。文体は好きだ。けれど、違う。
――こんなに、人って、突然生まれ変わったみたいになるもの?
そう、その表現が一番ぴったりくる。
――誰か、他人の、部屋みたい。
書店の目立つところに堂々と置いてある、「ふつう」の小説。
一佳を取り囲む現実と地続きの――学校やオフィスで、家族や、友達と仲良く語らい、異性の恋人とけんかしながら愛し合う日常が、当たり前に進行する本の世界に、入っていくことを体が拒む。