宇上くんが私への挨拶を諦めるのにそう時間はかからなかった。
もしかしたら、転校初日にされたようなアドバイスを、私の知らないところでまた受けたのかもしれない。
私に声をかけてくれる人はいなくなった。
それはつまり宇上くんが来る前の日常に戻ったと言うだけのこと。
なのにどうしてこんなに淋しく思ってしまうのか。本当に自分本位のことばかりを考えてしまう自分に腹が立つ。
私が今の状況を作った。私がこうなるように仕向けたのだ。今更私が被害者ぶっていいわけがない。
「はぁ」
一気に空気を吐き出した私は、スクールバッグを肩に掛けなおして家までの道を歩いた。
普段は自転車通学なのだが、今日は朝から自転車のタイヤがパンクしていた。たまたま仕事が午後からだった母が午前中に自転車を修理に持って行ってくれることになったが、朝から学校までの道を走る羽目になった。
遅刻はしなかったけれど、いつもと違って息が乱れていた私に集まる視線は少し熱を感じるものもあった。
今日に限って宇上くんが久しぶりに私に声をかけてきたのは、私が遅刻ギリギリだったことや珍しく息を乱していたからではないのだろう。
彼はみんなと違って顔を赤らめるようなことはなかったけれど、私にこんな力がなければきっと今日だって声を掛けたりしなかったはずだ。
それがとても悔しくて、嬉しくて、気が狂いそうになった。
どうしてか私は彼にこの力が発動することが心底嫌に思っていた。
「……はぁ」
ぐるぐる考えては息を吐き出して頭を空っぽにする。
すっきりしたはずの頭はまたすぐにこの力のことや宇上くんのことでいっぱいになる。
結論の出ない無意味な思考。
こんな時は誰かの恋物語で癒されるに限る。
さっさと家に帰って小説を読もう。今週の土曜日にはまた本を返しに行かないといけない。
「にゃぁ……にゃぁ」
歩調を早めようとした私の耳に、弱弱しいながらも可愛らしい鳴き声が届いた。
どこから聞こえているのかと辺りを見回せば、すぐ近くの電柱の横にダンボール箱が置かれているのを見つけた。
箱から身を乗り出すようにして、三毛の子猫が鳴いていた。
「にゃぁ」
吸い寄せられるようにダンボール箱に近寄る。
私を見上げる2つの目は左右で色が違っていた。
「にゃ、にゃぁ」
私を呼びつけるかのように懸命に鳴いている姿が愛らしい。
そっと手を差し出せば、子猫は頭を摺り寄せてきた。
お菓子が入っていたらしいダンボール箱には、「拾ってあげてください」ときれいとは言えない字で書かれた貼り紙がされていた。
「君はこの飼い主を魅了できなかったんだね」
自分で言って残酷だなと思った。
魅了できていれば捨てられることはなかっただろう。
まだ小さいし、生まれてそれほど経っていないんじゃないかな。
この子を捨てた人には、新たに子猫を養うだけのお金はなかったのかもしれない。
人には人の事情があるかもしれないけれど、だからって命を捨てていいことにはならない。
かくいう私だって、この子に手を差し出しているけれど飼えるかと言われると……無理だ。
あのアパートが動物を飼ってもいいかどうかは気にしたこともないから知らないけれど、そもそもシングルマザーで私を育ててくれている母に猫を飼ってもいいかなんて言い出せない。そんなお金の余裕がうちにないことは分かる。
ゴロゴロと喉を鳴らして私の手に顔を擦りつける猫を置いて帰るのも心苦しいけれど、私にはどうすることもできない。
……こともないのか。
私の力があれば、誰かにこの猫を飼ってくれませんかと言えばきっと簡単に頷いてくれるはずだ。だけど、その人の本性は分からないから、私にいい人だと思われたくて猫を引き取るだけの人もいるはずだろう。引き取られた後、この子がどんな目に合うのか私には分からない。
本当にいい人だったらいい未来があるだろうけど、ご飯もくれない、虐待をする、そんな人に引き取られてしまったら……。もしもそれでこの子猫が命を落とすようなことになったなら、私は一生後悔する。
だからって、ここに置いて行っても後悔はするのだけど。
「にゃぁ」
「……君は可愛いね。私のことは十分魅了できているのにね」
それとも私がこの子を魅了してしまっているのか。手にすり寄って来てくれている理由はそれかもしれない。
「ふふ、くすぐったいよ」
私は仕返しとばかりに子猫の頭をすりすりと撫でた。子猫は気持ちよさそうに目を細めている。
動物ってどうしてこんなに可愛いんだろう。
これじゃあ私が魅了しているのかこの子に魅了されているのか分からなくなる。
だけどその曖昧さが心地よかった。
「よしよし」
この子を撫でていると、自然と頬が緩むのを止められない。
子猫が私の腕に体を擦りつけてくる感触を楽しんでいると、不意に視線を感じた。
私はハッと我に返って緩んでいた表情を引き締めた。
子猫に差し出していた腕を引っ込め、反射的に立ち上がった。
少し先にある角から曲がってきた場所で、自転車から下りて私の方を見て佇む男子学生がいた。
あれは私が通う学校の男子制服。そして彼は私と同じクラスで。
「夕、山……?」
私の隣の席の人。
「……宇上くん」
「あ、俺の名前覚えててくれたんだ」
そう言った彼に、言葉を返したのはこれが始めてだななんて頭の片隅で思う。
「てか、初めて話してくれたね」
宇上くんも同じことを考えたのか、苦笑しながらそう言った。
彼の名前を口にしてしまったことを後悔した。
話さない方が彼のためにもよかったのに。
「その子猫、捨てられてたの?」
「……」
宇上くんは子猫に視線を移して私に問う。
だけど私は答えるべきなのか迷った。
「ごめん、俺と話したくない、んだよね」
宇上くんが困ったように笑った。
その顔は純粋に私からの返事がないことを淋しがっているだけに見えた。顔も赤くないし、挙動不審でもないし、今いる場所から私に近づいて来ようともしない。
「……捨て猫みたいだね」
短く素っ気なく答えれば、それだけで宇上くんはほっと息を吐き出した。
「そっか。夕山、連れて帰るの?」
「この子を育てられるお金、うちにはない」
彼に優しくしないように、温度のない声で答える。
「そっか。じゃあ、俺が引き取ってもいいかな? うち猫が2匹いるんだけど、仲良くしてくれるかな」
「引き取るなら、もうこの子を捨てないで」
「そんなことはしないよ」
「にゃぁ」
子猫が宇上くんを見て鳴く。
宇上くんは私を見て「近くに行ってもいいかな」と許可を取るようなことを言った。
この子に近づくのに私の許可なんていらないのに。
「どうぞ」
冷たく返した私は、場所を開けるようにダンボール箱から少し離れた。
自転車を押して近づいてきた宇上くんは、電柱の傍らに自転車を止めた。
「ありがとう。……初めまして、子猫ちゃん」
宇上くんはその場にしゃがんで子猫に手を伸ばす。
差し出された宇上くんの手に鼻を寄せた子猫は、すぐに私にしたように彼の手に頭を擦りつけた。
そうそう、そうやって宇上くんの心を掴むんだよ。家に連れて帰ってもらえるように、彼を魅了しなきゃ。
私は心の中で子猫を応援する。
子猫の頑張りが効いたのか、宇上くんはゆるゆるの頬で子猫を撫でまわしていた。
「うんうん可愛いな。名前なんて言うんだろう……。分かるものは……ないか。夕山、この子に名前つけたりした?」
しゃがんだ状態で私を見上げた宇上くんに、私は無表情のまま首を横に振った。
「そっか。じゃあ名前つけてあげないとだ。夕山つける?」
「……私が飼うんじゃないから」
「そう? ……じゃあ、瞳の色が特徴的だからアイにしようかな」
「にゃあ」
「お、気に入った? そうかそうか、可愛いな、アイ」
「にゃぁ、にゃあ」
宇上くんの言葉に答えるように、アイと名付けられた子猫は何度も鳴いた。
連れて帰ってと言いたげに頭を宇上くんの腕に擦りつけていた。
アイちゃんをそっと抱き上げた宇上くんは、小声でよいしょと呟きながら立ち上がった。
「にゃぁ」
「よかったね」
私はアイちゃんに声をかけ、バイバイと手を振って背を向けた。
あとは宇上くんに任せよう。
「夕山!」
呼び止められ、勝手に足が止まってしまった。
せめて振り返らないようにしよう。少しでもボロを出さないように。
「ありがとう。アイの様子、時々伝えるよ」
「……そういうの、いらないから」
振り返らないまま答え、私はまた歩を進めた。
今宇上くんはどんな顔をしているだろう。また淋しそうな顔か、それとも呆れたような苦笑いか……。
それでも私は真っ直ぐに前を見たまま歩いた。眉間にしわが寄るのが分かっても、足を止めたりしなかった。
もうこれっきりにしたほうがいい。明日学校に行けばまた話すこともない。ただのクラスメイト。ただ隣の席なだけ。特別話すようなこともない、そんな関係。それでいい。
もしかしたら、転校初日にされたようなアドバイスを、私の知らないところでまた受けたのかもしれない。
私に声をかけてくれる人はいなくなった。
それはつまり宇上くんが来る前の日常に戻ったと言うだけのこと。
なのにどうしてこんなに淋しく思ってしまうのか。本当に自分本位のことばかりを考えてしまう自分に腹が立つ。
私が今の状況を作った。私がこうなるように仕向けたのだ。今更私が被害者ぶっていいわけがない。
「はぁ」
一気に空気を吐き出した私は、スクールバッグを肩に掛けなおして家までの道を歩いた。
普段は自転車通学なのだが、今日は朝から自転車のタイヤがパンクしていた。たまたま仕事が午後からだった母が午前中に自転車を修理に持って行ってくれることになったが、朝から学校までの道を走る羽目になった。
遅刻はしなかったけれど、いつもと違って息が乱れていた私に集まる視線は少し熱を感じるものもあった。
今日に限って宇上くんが久しぶりに私に声をかけてきたのは、私が遅刻ギリギリだったことや珍しく息を乱していたからではないのだろう。
彼はみんなと違って顔を赤らめるようなことはなかったけれど、私にこんな力がなければきっと今日だって声を掛けたりしなかったはずだ。
それがとても悔しくて、嬉しくて、気が狂いそうになった。
どうしてか私は彼にこの力が発動することが心底嫌に思っていた。
「……はぁ」
ぐるぐる考えては息を吐き出して頭を空っぽにする。
すっきりしたはずの頭はまたすぐにこの力のことや宇上くんのことでいっぱいになる。
結論の出ない無意味な思考。
こんな時は誰かの恋物語で癒されるに限る。
さっさと家に帰って小説を読もう。今週の土曜日にはまた本を返しに行かないといけない。
「にゃぁ……にゃぁ」
歩調を早めようとした私の耳に、弱弱しいながらも可愛らしい鳴き声が届いた。
どこから聞こえているのかと辺りを見回せば、すぐ近くの電柱の横にダンボール箱が置かれているのを見つけた。
箱から身を乗り出すようにして、三毛の子猫が鳴いていた。
「にゃぁ」
吸い寄せられるようにダンボール箱に近寄る。
私を見上げる2つの目は左右で色が違っていた。
「にゃ、にゃぁ」
私を呼びつけるかのように懸命に鳴いている姿が愛らしい。
そっと手を差し出せば、子猫は頭を摺り寄せてきた。
お菓子が入っていたらしいダンボール箱には、「拾ってあげてください」ときれいとは言えない字で書かれた貼り紙がされていた。
「君はこの飼い主を魅了できなかったんだね」
自分で言って残酷だなと思った。
魅了できていれば捨てられることはなかっただろう。
まだ小さいし、生まれてそれほど経っていないんじゃないかな。
この子を捨てた人には、新たに子猫を養うだけのお金はなかったのかもしれない。
人には人の事情があるかもしれないけれど、だからって命を捨てていいことにはならない。
かくいう私だって、この子に手を差し出しているけれど飼えるかと言われると……無理だ。
あのアパートが動物を飼ってもいいかどうかは気にしたこともないから知らないけれど、そもそもシングルマザーで私を育ててくれている母に猫を飼ってもいいかなんて言い出せない。そんなお金の余裕がうちにないことは分かる。
ゴロゴロと喉を鳴らして私の手に顔を擦りつける猫を置いて帰るのも心苦しいけれど、私にはどうすることもできない。
……こともないのか。
私の力があれば、誰かにこの猫を飼ってくれませんかと言えばきっと簡単に頷いてくれるはずだ。だけど、その人の本性は分からないから、私にいい人だと思われたくて猫を引き取るだけの人もいるはずだろう。引き取られた後、この子がどんな目に合うのか私には分からない。
本当にいい人だったらいい未来があるだろうけど、ご飯もくれない、虐待をする、そんな人に引き取られてしまったら……。もしもそれでこの子猫が命を落とすようなことになったなら、私は一生後悔する。
だからって、ここに置いて行っても後悔はするのだけど。
「にゃぁ」
「……君は可愛いね。私のことは十分魅了できているのにね」
それとも私がこの子を魅了してしまっているのか。手にすり寄って来てくれている理由はそれかもしれない。
「ふふ、くすぐったいよ」
私は仕返しとばかりに子猫の頭をすりすりと撫でた。子猫は気持ちよさそうに目を細めている。
動物ってどうしてこんなに可愛いんだろう。
これじゃあ私が魅了しているのかこの子に魅了されているのか分からなくなる。
だけどその曖昧さが心地よかった。
「よしよし」
この子を撫でていると、自然と頬が緩むのを止められない。
子猫が私の腕に体を擦りつけてくる感触を楽しんでいると、不意に視線を感じた。
私はハッと我に返って緩んでいた表情を引き締めた。
子猫に差し出していた腕を引っ込め、反射的に立ち上がった。
少し先にある角から曲がってきた場所で、自転車から下りて私の方を見て佇む男子学生がいた。
あれは私が通う学校の男子制服。そして彼は私と同じクラスで。
「夕、山……?」
私の隣の席の人。
「……宇上くん」
「あ、俺の名前覚えててくれたんだ」
そう言った彼に、言葉を返したのはこれが始めてだななんて頭の片隅で思う。
「てか、初めて話してくれたね」
宇上くんも同じことを考えたのか、苦笑しながらそう言った。
彼の名前を口にしてしまったことを後悔した。
話さない方が彼のためにもよかったのに。
「その子猫、捨てられてたの?」
「……」
宇上くんは子猫に視線を移して私に問う。
だけど私は答えるべきなのか迷った。
「ごめん、俺と話したくない、んだよね」
宇上くんが困ったように笑った。
その顔は純粋に私からの返事がないことを淋しがっているだけに見えた。顔も赤くないし、挙動不審でもないし、今いる場所から私に近づいて来ようともしない。
「……捨て猫みたいだね」
短く素っ気なく答えれば、それだけで宇上くんはほっと息を吐き出した。
「そっか。夕山、連れて帰るの?」
「この子を育てられるお金、うちにはない」
彼に優しくしないように、温度のない声で答える。
「そっか。じゃあ、俺が引き取ってもいいかな? うち猫が2匹いるんだけど、仲良くしてくれるかな」
「引き取るなら、もうこの子を捨てないで」
「そんなことはしないよ」
「にゃぁ」
子猫が宇上くんを見て鳴く。
宇上くんは私を見て「近くに行ってもいいかな」と許可を取るようなことを言った。
この子に近づくのに私の許可なんていらないのに。
「どうぞ」
冷たく返した私は、場所を開けるようにダンボール箱から少し離れた。
自転車を押して近づいてきた宇上くんは、電柱の傍らに自転車を止めた。
「ありがとう。……初めまして、子猫ちゃん」
宇上くんはその場にしゃがんで子猫に手を伸ばす。
差し出された宇上くんの手に鼻を寄せた子猫は、すぐに私にしたように彼の手に頭を擦りつけた。
そうそう、そうやって宇上くんの心を掴むんだよ。家に連れて帰ってもらえるように、彼を魅了しなきゃ。
私は心の中で子猫を応援する。
子猫の頑張りが効いたのか、宇上くんはゆるゆるの頬で子猫を撫でまわしていた。
「うんうん可愛いな。名前なんて言うんだろう……。分かるものは……ないか。夕山、この子に名前つけたりした?」
しゃがんだ状態で私を見上げた宇上くんに、私は無表情のまま首を横に振った。
「そっか。じゃあ名前つけてあげないとだ。夕山つける?」
「……私が飼うんじゃないから」
「そう? ……じゃあ、瞳の色が特徴的だからアイにしようかな」
「にゃあ」
「お、気に入った? そうかそうか、可愛いな、アイ」
「にゃぁ、にゃあ」
宇上くんの言葉に答えるように、アイと名付けられた子猫は何度も鳴いた。
連れて帰ってと言いたげに頭を宇上くんの腕に擦りつけていた。
アイちゃんをそっと抱き上げた宇上くんは、小声でよいしょと呟きながら立ち上がった。
「にゃぁ」
「よかったね」
私はアイちゃんに声をかけ、バイバイと手を振って背を向けた。
あとは宇上くんに任せよう。
「夕山!」
呼び止められ、勝手に足が止まってしまった。
せめて振り返らないようにしよう。少しでもボロを出さないように。
「ありがとう。アイの様子、時々伝えるよ」
「……そういうの、いらないから」
振り返らないまま答え、私はまた歩を進めた。
今宇上くんはどんな顔をしているだろう。また淋しそうな顔か、それとも呆れたような苦笑いか……。
それでも私は真っ直ぐに前を見たまま歩いた。眉間にしわが寄るのが分かっても、足を止めたりしなかった。
もうこれっきりにしたほうがいい。明日学校に行けばまた話すこともない。ただのクラスメイト。ただ隣の席なだけ。特別話すようなこともない、そんな関係。それでいい。