あっという間に春休みが開けて、私たちは高校3年生になった。
惣太郎くんとまた同じクラスになれたのは嬉しいけれど、席は離れてしまった。担任は引き続き加賀山先生だった。
3年生にもなれば誰もが受験勉強モードになるのかと思えば、特にそんなこともなかった。
ただ選択授業は受験に必要な科目が選択肢に増えていた。
いまだ進学にするか就職にするか決められずにいたけれど、天秤は進学に傾きつつあった。
春休みの間にネットで近くの大学を検索してみたところ、図書館司書の資格がとれる大学もいくつかヒットした。
どこも今のアパートから通える距離にある。できることなら電車やバスみたいに、人が多い乗り物を避けたい。つまりは自転車圏内の大学の方が嬉しい。
そういうのもあったけれど、まだ決めかねていた。
その大学に不満はないけれど、家を出るのならもっと広範囲で大学を探せる。
「涼心。まだ進学か就職で迷ってる?」
図書館の特等席でぼんやりしていた私は、惣太郎くんに声を掛けられて我に返った。
「うん。司書の資格がとれる大学は近くにあるけど、家を出るんだったらその大学じゃなくても探せるなって思って」
「家を出るかどうかで迷ってるんだ?」
「今はほとんどそこかな」
「じゃあ進学に決まり?」
「……司書の仕事には興味があるなって思って。なるかどうかは置いといて、勉強はしてみたいかな」
惣太郎くんに言われて初めて私は自分が本に関わる仕事に興味があるかもしれないと気づけた。
惣太郎くんはなんとなく言ったことかもしれないけれど、私には進路を決めるヒントになった。
私の答えに、惣太郎くんは小さく笑った。
「そこまで絞れてよかったじゃん」
「うん」
「……涼心は何で家に出ることに拘ってると言うか……出たいの? 親子仲が良くない……とか?」
「そんなことないよ。お母さんとは仲いい」
「……お母さんとは?」
「あぁ、うちシングルマザーだから」
「え……ごめん。知らなかった」
……あれ、話してなかったっけ。
惣太郎くんは結構な秘密を話しているから、父のことも話した気になっていた。
「お父さんの顔は、覚えてない。私が赤ちゃんの時に離婚したからね」
「夫婦仲が良くなかったとか?」
「違うよ。お母さんは私もお父さんも大事で、どっちも守りたかったって言ってた。こんなこと言ったらお母さんに怒られそうだけど……私のせいなんだよ」
苦笑すれば、母に聞かれるより先に惣太郎くんにムッとされてしまった。私は苦笑いをして続ける。
「赤ちゃんっていう存在だけで、『力』の作用が大きくなるのに、私はちょっと力が強かったみたいで。お父さんは私に魅了されちゃって……。誰にも触らせない、見せたくない、自分のもの、誰にも渡さないって思考に行って、赤ちゃんに母乳をあげられるわけでもないのに私をお母さんにも渡そうとしなかった。そんなんじゃ赤ちゃんも死んじゃうし……。私を守るためにお母さんはお父さんと別れたの。私がお父さんを壊しちゃった」
父が今どこで何をしているのか分からない。
会いたいと思わないわけじゃないけど、合わせる顔もない。
「そんな顔で笑わないで……」
「……ごめん」
惣太郎くんは何も言わず私の頭を引き寄せた。
そんなに見られないほどの顔をしていただろうか。
それもそうか。眉間にしわを寄せて、だけど何でもない事みたいに笑おうとしているのだから。見るに堪えない顔でしかないな。
「ごめん」
「謝らないで。俺こそごめん。俺が涼心に独占欲を出してたの、怖かったよね」
「……少し。でも、いつもすぐに安心させてくれたから、大丈夫だったよ」
私は惣太郎くんの肩に額を押し付けながら言った。
「ふ、涼心猫みたい」
私はさらに強く額を押し付けた。
「私のお母さん、恋多き乙女なんだけど。彼氏ができても私が家にいるからいつも外で会うし、私がいたらずっと再婚もしないと思うから。私がいたら邪魔だろうなって思って」
「でも家を出る考えなおそうとしてたよね。それは解決したんじゃないの?」
「うん。お母さんは私がいらない子じゃないって言ってくれたから。でも、やっぱりいつかは自立しないといけないし。それは早い方がいいかなって思ったり」
惣太郎くんには言わないけれど、恋多き乙女なのにクズ男ホイホイなお母さんを近くで慰められる場所にいたいと思ったり。
「そんなに急ぐこともないんじゃない? 涼心は涼心のペースでいいと思うよ」
惣太郎くんの肩から額を離す。
惣太郎くんの優しい声に、私は小さく頷いた。
ーー
「お母さん。私、家から大学に通おうと思う」
また何日か自分で考えてみて結論を出した。
行きたいと考えている近くの私立大学で学べる科目をネットで調べ、資料請求もして読んでみた。
司書の勉強以外にも日本文学や児童文学の勉強ができると言うのも面白そうだなと思った。
私はもっといろんな物語に触れたい。
「決めたのね」
「うん。大学も決めたよ。ここ」
「あら、近いじゃない。ここで何を勉強したいの?」
「司書資格をとってみたいなって思って」
「へぇ。将来は司書さんになるの?」
「分からないけど。勉強するのは自由だから」
私はいたずらが成功した時のような笑みを浮かべて見せた。
母は一瞬目を見開いたけれど、すぐに口角を上げた。
「涼心、変わったわね」
「そうかな」
「前はそんな笑い方する子じゃなかった」
「どんな笑い方?」
「自分に自信があるような笑い方」
自分じゃよく分からなくて頬に手を当てる。
そんな顔をしていただろうか。
首を傾げいていると、母はおかしそうに分かった。
「ふふ、今度は変顔大会?」
「変顔じゃないし!」
私は近くにあったクッションを投げつけた。
「わぶっ」
見事に顔面でキャッチした母は、「やったなぁ!」とクッションを投げ返してきた。キャッチしやすい場所に投げられたクッションを受け止めた。
「あははっ」
それを母に投げ返そうか迷ったが、結局ソファーに戻したそれを背もたれにするようにソファーに座った。
「お母さん。恋ってすごいね」
「あら、涼心ったら今さら気づいたの?」
お母さんは私に変わったと言ったけれど、それはきっと惣太郎くんと出会ったおかげ。
この力と向き合うきっかけをくれたのも惣太郎くんだった。
惣太郎くんが私を見つけてくれたのは……私が憎んでやまなかった「人を魅了する力」のおかげだ。
「この力も、たまにはいいことするよね」
その呟きは、2人だけのリビングでは簡単に母の耳に届いた。
母は勢いよく私の隣に腰を落とした。ソファーの上で小さくバウンドした反動が私のところにまで伝わってきた。
「……そうね。私が涼心と出会えたのは、この力のおかげ、かもね」
母は私の方に身を傾け、囁くようにそう言った。
その声はどこか嬉しそうに聞こえた。
ーー
最初の頃はあまり学業に追われている感覚はなかったけれど、夏休みに入るころにはちらほらと受験対策として面接練習をする生徒も増えていた。
面接で受験するのを遠慮しようと思ったら、、やっぱり筆記試験を狙うしかない。
この力と向き合って受け入れたと言っても、好感度を稼ぐのと恋愛感情を持たれるのとではだいぶ違ってくる。
面接で稼ぎたいのは好感度だけど、それだけを稼ぐのは今の私には無理だ。
惣太郎くんと一緒にいるときに外でうっかり笑ってしまい、チラチラと熱のこもった視線を向けられたことは1度や2度ではない。
あれは好感度ではなく確実に恋愛感情や欲の籠った目だ。そんなのはいらない。
そういえば、私が笑みを向けても惣太郎くんはそんな目を向けてこないとが気になって、何も感じないのかと興味本位で聞いたことがある。
『正直めっちゃ刺さる時あるよ。いつもじゃないけど。ときめくだけじゃ済まない時。でも涼心を怖がらせないように耐えてるの、俺』
そう言われた時はさすがに『笑うのやめようか?』と返してしまった。
『絶対いや。俺を殺す気?』
『なんかごめんなさい』
それでこの話は終わった。私は惣太郎くんを怒らせてしまうポイントがいまいち把握できなかった。
正直、恋なんて相手の笑顔にときめくなんてのはよく聞く話で。惣太郎くんが感じているものが私の力によるものなのか、それとも力なんて関係なく彼の独自フィルターがかかっているのかは定かではない。
どちらにせよ、その感情のままに私を同行しない辺り惣太郎くんの理性が働いているのだろうし、そういうところが彼の優しさなんだろう。
だから彼のことは信じられる。彼はきっと『信じたい』と言った私の言葉を覚えてくれている。
だけどそれは惣太郎くんだからこそ力のせいなのかが曖昧で、多少は力の影響があってもいいかと思えるのであって、面接官に同じ感情を抱かれても困るしとてもお断りしたい。
そんなことで入学が決まってもろくなことはないだろうし。
そこはフェアでいきたい。私は私の実力で大学に行きたい。平穏なキャンパスライフを求めるのなら、絶対にその方がいい。
結局私と同じ大学を希望した惣太郎くんとは、図書館で勉強する日々が続いていた。
惣太郎くんは指定校推薦とか、面接で入試を受けることにしたようだけど、万が一のことを考えて勉強にも力を入れいてた。
「ど、どうしよう涼心」
「ど、どうしたの惣太郎くん」
今日も図書館で勉強していると、惣太郎くんが驚いたような声を出した。
私は戸惑いのあまり惣太郎くんと同じような言い方で彼の名前を呼んだ。
「涼心のおかげで成績上がったからか、すらすらと問題集が進んでしまう。逆にあってるか不安になってきた」
私は問題集の答えを引き抜いて、彼が解いている問題がある場所を探す。
古典の、3ページ目……あった。
「えっと……。大門1は全部正解、その次はこことここは間違ってるけどそれ以外正解。大門3……も全部正解」
かなりの正答率だ。さすがは惣太郎くん。
「でもなんで日本史ないの? あったら全問正解なんて余裕でやれるよ」
「ほんとに?」
「……ちょっと調子乗った」
惣太郎くんは言ってから肩を竦めた。
ーー
惣太郎くんは文化祭当日に欠席した私と文化さんを回れなかったことを長らく引きずっていた。非日常なことがあると、私に向けられるし視線は増えてしまうし、文化祭はとくに外部の人も出入りするから危険も増える。自分の身を守るためにも、学校行事は基本的に休むことにしていた。
そんな文化祭が終わると、3年生は一気に受験ムードになった。
指定校推薦も公募推薦も目前に迫って来ている。
惣太郎くんの成績なら指定校推薦は確実に狙えるだろう。夏休みには面接の練習もしていたし、絶対に合格できるはず。
問題は私の公募推薦。自分の学力に見合っていない大学を受けるわけでは無いし、合格はできると思うけど。私はさらに特待生を狙いたい。
あまりお金に余裕があるわけじゃないし奨学金を借りる予定でもあるけれど。ここで学費を半額にでも減らせれば、もう少し楽ができる。
私はほとんど家にこもって勉強をし、学校の試験の成績は学年でも1桁になるくらいまで順位を上げた。私より頭がいい人なんて世の中にたくさんいるだろうけれど、私は特待生を狙えるだろうか。
学校での指定校推薦の枠をゲットした惣太郎くんに負けていられないと思うと、勉強にも身が入る。
最近はあまり図書館で会うことは減っていたけれど、メッセージのやり取りは続いていた。
あまり頑張りすぎないように、と言いながらも、応援する猫のスタンプが送られてきた。
たまに送られてくるアイちゃんたちの写真や動画に癒しを貰いながら、私は公募推薦に挑んだ。
そこでも表情を引き締めていてもチラチラと視線を感じることはあったけれど、試験が始まればみんな自分の将来に向き合うことでいっぱいいっぱいになっているようだった。
かくいう私も目の前の試験で頭がいっぱいになっていたから、視線に気づかなかっただけの可能性もあるけれど。
最初は迫ってくるような時計の音や、他の受験生のペンを走らせる音への焦りがあった。だけど数学の最初の方で惣太郎くんと一緒に勉強したのと似たような問題が出来てきた時、彼のことを思い出して緊張が和らいだ。ここにいないのに、「大丈夫だよ」と言う優しい声が聞こえた気がした。
とにもかくにも試験は無事乗り切った。
あとは結果を待つだけだ。
惣太郎くんとまた同じクラスになれたのは嬉しいけれど、席は離れてしまった。担任は引き続き加賀山先生だった。
3年生にもなれば誰もが受験勉強モードになるのかと思えば、特にそんなこともなかった。
ただ選択授業は受験に必要な科目が選択肢に増えていた。
いまだ進学にするか就職にするか決められずにいたけれど、天秤は進学に傾きつつあった。
春休みの間にネットで近くの大学を検索してみたところ、図書館司書の資格がとれる大学もいくつかヒットした。
どこも今のアパートから通える距離にある。できることなら電車やバスみたいに、人が多い乗り物を避けたい。つまりは自転車圏内の大学の方が嬉しい。
そういうのもあったけれど、まだ決めかねていた。
その大学に不満はないけれど、家を出るのならもっと広範囲で大学を探せる。
「涼心。まだ進学か就職で迷ってる?」
図書館の特等席でぼんやりしていた私は、惣太郎くんに声を掛けられて我に返った。
「うん。司書の資格がとれる大学は近くにあるけど、家を出るんだったらその大学じゃなくても探せるなって思って」
「家を出るかどうかで迷ってるんだ?」
「今はほとんどそこかな」
「じゃあ進学に決まり?」
「……司書の仕事には興味があるなって思って。なるかどうかは置いといて、勉強はしてみたいかな」
惣太郎くんに言われて初めて私は自分が本に関わる仕事に興味があるかもしれないと気づけた。
惣太郎くんはなんとなく言ったことかもしれないけれど、私には進路を決めるヒントになった。
私の答えに、惣太郎くんは小さく笑った。
「そこまで絞れてよかったじゃん」
「うん」
「……涼心は何で家に出ることに拘ってると言うか……出たいの? 親子仲が良くない……とか?」
「そんなことないよ。お母さんとは仲いい」
「……お母さんとは?」
「あぁ、うちシングルマザーだから」
「え……ごめん。知らなかった」
……あれ、話してなかったっけ。
惣太郎くんは結構な秘密を話しているから、父のことも話した気になっていた。
「お父さんの顔は、覚えてない。私が赤ちゃんの時に離婚したからね」
「夫婦仲が良くなかったとか?」
「違うよ。お母さんは私もお父さんも大事で、どっちも守りたかったって言ってた。こんなこと言ったらお母さんに怒られそうだけど……私のせいなんだよ」
苦笑すれば、母に聞かれるより先に惣太郎くんにムッとされてしまった。私は苦笑いをして続ける。
「赤ちゃんっていう存在だけで、『力』の作用が大きくなるのに、私はちょっと力が強かったみたいで。お父さんは私に魅了されちゃって……。誰にも触らせない、見せたくない、自分のもの、誰にも渡さないって思考に行って、赤ちゃんに母乳をあげられるわけでもないのに私をお母さんにも渡そうとしなかった。そんなんじゃ赤ちゃんも死んじゃうし……。私を守るためにお母さんはお父さんと別れたの。私がお父さんを壊しちゃった」
父が今どこで何をしているのか分からない。
会いたいと思わないわけじゃないけど、合わせる顔もない。
「そんな顔で笑わないで……」
「……ごめん」
惣太郎くんは何も言わず私の頭を引き寄せた。
そんなに見られないほどの顔をしていただろうか。
それもそうか。眉間にしわを寄せて、だけど何でもない事みたいに笑おうとしているのだから。見るに堪えない顔でしかないな。
「ごめん」
「謝らないで。俺こそごめん。俺が涼心に独占欲を出してたの、怖かったよね」
「……少し。でも、いつもすぐに安心させてくれたから、大丈夫だったよ」
私は惣太郎くんの肩に額を押し付けながら言った。
「ふ、涼心猫みたい」
私はさらに強く額を押し付けた。
「私のお母さん、恋多き乙女なんだけど。彼氏ができても私が家にいるからいつも外で会うし、私がいたらずっと再婚もしないと思うから。私がいたら邪魔だろうなって思って」
「でも家を出る考えなおそうとしてたよね。それは解決したんじゃないの?」
「うん。お母さんは私がいらない子じゃないって言ってくれたから。でも、やっぱりいつかは自立しないといけないし。それは早い方がいいかなって思ったり」
惣太郎くんには言わないけれど、恋多き乙女なのにクズ男ホイホイなお母さんを近くで慰められる場所にいたいと思ったり。
「そんなに急ぐこともないんじゃない? 涼心は涼心のペースでいいと思うよ」
惣太郎くんの肩から額を離す。
惣太郎くんの優しい声に、私は小さく頷いた。
ーー
「お母さん。私、家から大学に通おうと思う」
また何日か自分で考えてみて結論を出した。
行きたいと考えている近くの私立大学で学べる科目をネットで調べ、資料請求もして読んでみた。
司書の勉強以外にも日本文学や児童文学の勉強ができると言うのも面白そうだなと思った。
私はもっといろんな物語に触れたい。
「決めたのね」
「うん。大学も決めたよ。ここ」
「あら、近いじゃない。ここで何を勉強したいの?」
「司書資格をとってみたいなって思って」
「へぇ。将来は司書さんになるの?」
「分からないけど。勉強するのは自由だから」
私はいたずらが成功した時のような笑みを浮かべて見せた。
母は一瞬目を見開いたけれど、すぐに口角を上げた。
「涼心、変わったわね」
「そうかな」
「前はそんな笑い方する子じゃなかった」
「どんな笑い方?」
「自分に自信があるような笑い方」
自分じゃよく分からなくて頬に手を当てる。
そんな顔をしていただろうか。
首を傾げいていると、母はおかしそうに分かった。
「ふふ、今度は変顔大会?」
「変顔じゃないし!」
私は近くにあったクッションを投げつけた。
「わぶっ」
見事に顔面でキャッチした母は、「やったなぁ!」とクッションを投げ返してきた。キャッチしやすい場所に投げられたクッションを受け止めた。
「あははっ」
それを母に投げ返そうか迷ったが、結局ソファーに戻したそれを背もたれにするようにソファーに座った。
「お母さん。恋ってすごいね」
「あら、涼心ったら今さら気づいたの?」
お母さんは私に変わったと言ったけれど、それはきっと惣太郎くんと出会ったおかげ。
この力と向き合うきっかけをくれたのも惣太郎くんだった。
惣太郎くんが私を見つけてくれたのは……私が憎んでやまなかった「人を魅了する力」のおかげだ。
「この力も、たまにはいいことするよね」
その呟きは、2人だけのリビングでは簡単に母の耳に届いた。
母は勢いよく私の隣に腰を落とした。ソファーの上で小さくバウンドした反動が私のところにまで伝わってきた。
「……そうね。私が涼心と出会えたのは、この力のおかげ、かもね」
母は私の方に身を傾け、囁くようにそう言った。
その声はどこか嬉しそうに聞こえた。
ーー
最初の頃はあまり学業に追われている感覚はなかったけれど、夏休みに入るころにはちらほらと受験対策として面接練習をする生徒も増えていた。
面接で受験するのを遠慮しようと思ったら、、やっぱり筆記試験を狙うしかない。
この力と向き合って受け入れたと言っても、好感度を稼ぐのと恋愛感情を持たれるのとではだいぶ違ってくる。
面接で稼ぎたいのは好感度だけど、それだけを稼ぐのは今の私には無理だ。
惣太郎くんと一緒にいるときに外でうっかり笑ってしまい、チラチラと熱のこもった視線を向けられたことは1度や2度ではない。
あれは好感度ではなく確実に恋愛感情や欲の籠った目だ。そんなのはいらない。
そういえば、私が笑みを向けても惣太郎くんはそんな目を向けてこないとが気になって、何も感じないのかと興味本位で聞いたことがある。
『正直めっちゃ刺さる時あるよ。いつもじゃないけど。ときめくだけじゃ済まない時。でも涼心を怖がらせないように耐えてるの、俺』
そう言われた時はさすがに『笑うのやめようか?』と返してしまった。
『絶対いや。俺を殺す気?』
『なんかごめんなさい』
それでこの話は終わった。私は惣太郎くんを怒らせてしまうポイントがいまいち把握できなかった。
正直、恋なんて相手の笑顔にときめくなんてのはよく聞く話で。惣太郎くんが感じているものが私の力によるものなのか、それとも力なんて関係なく彼の独自フィルターがかかっているのかは定かではない。
どちらにせよ、その感情のままに私を同行しない辺り惣太郎くんの理性が働いているのだろうし、そういうところが彼の優しさなんだろう。
だから彼のことは信じられる。彼はきっと『信じたい』と言った私の言葉を覚えてくれている。
だけどそれは惣太郎くんだからこそ力のせいなのかが曖昧で、多少は力の影響があってもいいかと思えるのであって、面接官に同じ感情を抱かれても困るしとてもお断りしたい。
そんなことで入学が決まってもろくなことはないだろうし。
そこはフェアでいきたい。私は私の実力で大学に行きたい。平穏なキャンパスライフを求めるのなら、絶対にその方がいい。
結局私と同じ大学を希望した惣太郎くんとは、図書館で勉強する日々が続いていた。
惣太郎くんは指定校推薦とか、面接で入試を受けることにしたようだけど、万が一のことを考えて勉強にも力を入れいてた。
「ど、どうしよう涼心」
「ど、どうしたの惣太郎くん」
今日も図書館で勉強していると、惣太郎くんが驚いたような声を出した。
私は戸惑いのあまり惣太郎くんと同じような言い方で彼の名前を呼んだ。
「涼心のおかげで成績上がったからか、すらすらと問題集が進んでしまう。逆にあってるか不安になってきた」
私は問題集の答えを引き抜いて、彼が解いている問題がある場所を探す。
古典の、3ページ目……あった。
「えっと……。大門1は全部正解、その次はこことここは間違ってるけどそれ以外正解。大門3……も全部正解」
かなりの正答率だ。さすがは惣太郎くん。
「でもなんで日本史ないの? あったら全問正解なんて余裕でやれるよ」
「ほんとに?」
「……ちょっと調子乗った」
惣太郎くんは言ってから肩を竦めた。
ーー
惣太郎くんは文化祭当日に欠席した私と文化さんを回れなかったことを長らく引きずっていた。非日常なことがあると、私に向けられるし視線は増えてしまうし、文化祭はとくに外部の人も出入りするから危険も増える。自分の身を守るためにも、学校行事は基本的に休むことにしていた。
そんな文化祭が終わると、3年生は一気に受験ムードになった。
指定校推薦も公募推薦も目前に迫って来ている。
惣太郎くんの成績なら指定校推薦は確実に狙えるだろう。夏休みには面接の練習もしていたし、絶対に合格できるはず。
問題は私の公募推薦。自分の学力に見合っていない大学を受けるわけでは無いし、合格はできると思うけど。私はさらに特待生を狙いたい。
あまりお金に余裕があるわけじゃないし奨学金を借りる予定でもあるけれど。ここで学費を半額にでも減らせれば、もう少し楽ができる。
私はほとんど家にこもって勉強をし、学校の試験の成績は学年でも1桁になるくらいまで順位を上げた。私より頭がいい人なんて世の中にたくさんいるだろうけれど、私は特待生を狙えるだろうか。
学校での指定校推薦の枠をゲットした惣太郎くんに負けていられないと思うと、勉強にも身が入る。
最近はあまり図書館で会うことは減っていたけれど、メッセージのやり取りは続いていた。
あまり頑張りすぎないように、と言いながらも、応援する猫のスタンプが送られてきた。
たまに送られてくるアイちゃんたちの写真や動画に癒しを貰いながら、私は公募推薦に挑んだ。
そこでも表情を引き締めていてもチラチラと視線を感じることはあったけれど、試験が始まればみんな自分の将来に向き合うことでいっぱいいっぱいになっているようだった。
かくいう私も目の前の試験で頭がいっぱいになっていたから、視線に気づかなかっただけの可能性もあるけれど。
最初は迫ってくるような時計の音や、他の受験生のペンを走らせる音への焦りがあった。だけど数学の最初の方で惣太郎くんと一緒に勉強したのと似たような問題が出来てきた時、彼のことを思い出して緊張が和らいだ。ここにいないのに、「大丈夫だよ」と言う優しい声が聞こえた気がした。
とにもかくにも試験は無事乗り切った。
あとは結果を待つだけだ。