家に帰った私は、今日のことを母に話した。
 事細かく話したわけじゃないけれど、この力のことを話してしまったこととか、年末に言えなかった図書館での告白とか、大まかな部分を話した。
「そっか。ずっと悩んで苦しかったね。話してくれて嬉しいわ」
 母は私の頭を優しくなでてくれながら微笑んだ。
「偽物の恋心か……。そうね。そう思ってしまう気持ちもわかるし、その宇上くんって子が力はきっかけにすぎなかったって思うのもわかる。でもどちらにしても確証はないんだし、涼心が思いたいように思ってもいいんじゃないかしら」
「……お母さんは、どう思う?」
 母は箪笥に視線を向けた。
 あの中に、父からもらった結婚指輪が捨てられずにしまわれている。きっと母はそれを見ているのだろう。
「相手の本性は、もしかしたら涼心が子ども授かって、力が弱まったときに分かるのかもしれない。だけど、不確定な未来を想像して立ち止まっているのももったいないなって思ったりもする」
 母だったら、告白なんてされたら簡単に頷くだろう。ましてや自分が好きだと思っている相手から告白されて、母が返事を先延ばしにするとは思えない。
「お母さん。私、子どもができるのも怖いよ。本当はね……ずっと、お母さんとお父さんが離婚したのは私のせいだって思ってる。もし同じことが起きたら……私と同じ思いを、子どもにまで味わわせたくない」
「涼心は優しい子ね。相手のこと一番に考えてしまうんだから。……お父さんのことは涼心は悪くない。誰が悪いわけでもないわ」
 母は私を抱き寄せ、耳元で呟くように「涼心は悪いくない」とくり返した。
「涼心は優しいけど、自分に厳しすぎるわ。もっと自分のことも優しくしてあげて。自分が今、どうしたいと思っているのか汲み取ってあげて。前にも言ったけど、その力を含めて涼心なの。力に振り回されたんじゃ、涼心があまりにも可哀そうだわ。いっそ利用するくらいの気持ちでいないと」
 母は私を優しい子だなんて言ってくれるけど、本当は臆病なだけだ。変化が怖いだけ。いつかくる終わりが怖いだけ。
 母が思うようないい子なんかじゃないし、むしろ自分が辛い思いをしたくなくて諦めているようなものだから。
 最初から何もなければ、失うことなんてないのだから。始まらなければ終わらない。
「考えすぎもよくないわ。お母さんみたいに考えなしもよくないけど。ふふ、お母さんと涼心の性格を足して2で割ったら丁度いいかもしれないのにね。でもお母さんと反対の涼心は、お母さんみたいに悪い人に捕まったりしないわ。ね?」
 母なりに背中を押してくれているのだと分かる。
「待って、むしろ私がいいんじゃないの? とか言ったら実はダメ男ってことになっちゃうのかしら。それはダメね」
 母は自分が言った言葉の裏を読んでブツブツと呟いている。
「でも、私の意見なんて気にせずに涼心が選んだ人なら、きっと大丈夫ね」
 ひとりで結論を出した母は、にっこりと満足そうに笑った。
「ねぇ涼心。ひとついいことを教えてあげるわ」
「何?」
「お母さんが自分の力のことを誰にも話さないのは、誰かに話したことがあるからなのよ」
 顔を近づけて秘密の話のように語る母の言いたいことを考える。
 誰かに話したことがあるから、誰にも話さない。
 それはつまり……。
「信じてもらえなかったの。私たちの『人を魅了する力』って、恋心を芽生えさせてしまうけど、人の考え方をかえてしまうものじゃないわ。その人は『そんな力あるわけない。僕は僕の意思で気味を選んだんだよ』なんて言ってたけど……浮気されたわね」
 当時のことを思い出したのか母は満面の笑みで拳を握りしめた。目が笑っていない。
 私はどうどうと母を落ち着かせる。
「はぁ……。でも、こうも言ったのよ。『たとえそんな力があっても、それは君の魅力だろ?』って。力を信じていないからこそ出てきた言葉だとは思うけど。でも、その言葉があったからその力を含めて私って思えるようになったのは事実ね」
 浮気されるほど私に魅力はなかったようだけれど、とまた笑顔で拳を握った母を宥める。
「……待って、それって私ができる前の話?」
「そうよ。お母さんがぴちぴちの中学生だった頃の話よぉ。相手はひとつ上のせーんぱい」
 語尾に音符マークが付きそうなほどご機嫌に言った母に、私は首を傾げた。
「力があったのに、浮気されたの?」
「力が弱まる前に浮気をされたのはそれが最初で最後よ。私の方からだんだん冷めていっちゃったの。顔はよかったけどもともと女好きで有名な人だったのよね。だんだん距離を置くうちに魅了の力が弱まっていったんだと思うけど。気づいたら他の女の人と恋人つなぎで歩いていたわ」
 心が離れれば、魅了の力は弱まる。
 それでも冷たい態度を取るだけでもチラチラと視線を感じる私は、母より魅了の力が少し強いせいだろう。きっと母と同じくらいの力だったなら、そんなこともなかったはずだ。
「……でも、私の力強いせいで、やっぱり宇上くんに強制的に恋心を芽生えさせてしまっていたら?」
「私たちみたいな人がいるんだから、どこかにこの力が効かない人もいるかもしれない。前にも言ったけどね。宇上くんがそういう人だって可能性もないわけじゃない。それにこうも考えられるわ。私たちは本当にゼロから恋心を芽生えさせているのかしら?」
 母は立てた人差し指を頬に当てて、わざとあざとく首を傾げる。きっと同じ力を持っている私でなければ、この仕草だけでときめく人は大勢いるのだろう。
 母が言いたいことはなんとなく察しがついた。
「もとからその人の中にある恋愛への興味を引き出して、さらにそれを私たちに向けている……ってお母さんは考えてるの?」
「考えているって程じゃないけど。可能性の話よ。恋愛に興味がない人だって世の中いるでしょう? 恋愛感情を持たない人だっているわ」
 私が頷くのを見た母は、さらに仮説を述べる。
「そういう人ってお母さんたちの力でも恋愛感情を引き出せるのかしら?」
 好意を向けてくる人全員に聞いたわけじゃないから、何の証明もできやしない。
 だけど、可能性としてはいくらでも語れる。
「宇上くんは恋愛に興味がなかったんでしょう?」
 恋愛に興味がないのと、恋愛感情がないのとでは別の話かもしれない。
 それでも、興味がないから人より私の力が効きにくかったと言う仮説が立たないわけでもない。
「ふふ、本当に賢い子だこと」
「恋愛に興味おおありの先輩には浮気されたくせに……」
「まぁ酷い! 力なんてきっかけ作りで十分よ! そのきっかけから興味が私たちに向いていて、こっちからも積極的にアプローチしたのなら、恋愛感情を増幅させられるのかもねって言う仮説。あの人はあちこちに興味が向いていて、さらにお母さんから離れていったから力の影響が薄まったんじゃないかって」
 母は自分の力について何も考えず受け入れているようで、実は結構考えているんだなと初めて知った。
「力がなくたって同じでしょ? 第一印象で興味を持ってもらえるようにして、積極的にアプローチすれば好きになってくれるかもしれない。お母さんも涼心も、『なってくれるかもしれない』っていうところが『絶対に好意を持ってもらえる』って確定してる。その違いだけなのよ、きっと」
「力がなくても、一緒……」
 母は小さく頷いた。
 これは母なりの、「人を魅了する力」と向き合っていくための考え方なんじゃないだろうか。そう思ったら、力を受け入れるってそんなことでいいんだと思えた。
「宇上くんは、涼心に好きになって『もらえるかもしれない』っていう場所いて、それでもアプローチしてくれたんでしょ? 涼心は宇上くんに『絶対好きになってもらえる』場所にいるのに。そう考えたら、力がない人の恋愛って純粋にかっこいいと思うの」
 言われてみれば、私と宇上くんではハンデの差がある。
 私って実はズルい人間なんじゃ……。
「あ、またマイナスに考えたでしょ」
「……そんなこと」
「あのね。みんな同じじゃないのよ。いろんな人がいるの。その中で、涼心は涼心なの。その力を含めて涼心なの」
「うん」
「みんな自分が持っている武器で戦うのよ。涼心もお母さんも、持っている武器が『人を魅了する力』だったってだけ。あとはみんなと一緒。お母さんが恋をして何が悪いの? 涼心が恋をして何が悪いの? 私たちの力を知らない人からすれば、それはただの『私たちの魅力』なのよ」
 母は春のような温かい笑みを浮かべて言った。
 それだけで引っかかっていたものが小さくなった気がした。
 今すぐにこの力を受け入れることはできないかもしれないけれど、母の考えは力との向き合い方のヒントになった。
「うん。ありがとう、お母さん」
「どういたしまして。また悩んだら、一緒に考えてあげるわ」
「うん。お母さん、大好き!」
 母の胸に飛び込めは、母は驚きながらも抱きしめ返してくれた。
「お母さんも涼心が大好きよ」
 宇上くんへの返事が決まった。

ーー
 翌日の土曜日、私は久しぶりに図書館に足を運んだ。
 宇上くんがいるか分からなかったけれど、行けば彼に会える気がしていた。
 私は真っ直ぐにいつもの特等席に向かった。
 私がいつも座る隣の椅子は空っぽだった。待っていれば来るだろうか。
 私は近くの本棚から読んだことがない海外のミステリ小説を引っ張り出した。私はこれから自分の恋を始めようとしているのだから、もう恋愛小説への憧れは必要ない。
 特等席に座ってミステリを読み始める。主人公が死体を見つけるところから始まった物語に、あっという間に引き込まれてしまった。

「……ふぅ」
 面白くて一気に読んでしまった。固まってしまった体をほぐすために伸びをすれば、隣に人がいるのが視界の端に映った。
「来てくれたんだ、よかった」
 そうだった。私は彼を待っていたんだった。
 ずっと逃げ回っていた期間なんて嘘のように、彼は当然のようにそこにいた。
 それが嬉しくて、私にだけ向けてくれる安堵したような笑みが愛おしくて、胸がきゅうっと締め付けられた。
「それ、面白かった?」
「うん」
 いつもはわりと直球に話を進める彼が、今日はわざとどうでもいい話題を振っているように思えた。
「そういえば、前にここに置いて行った本あるでしょ。あれ、借りて読んでみたんだよね。全部面白かった」
「そうなんだ。先を越されちゃったね」
 私は宇上くんの雑談に乗ることにした。
 早く答えを返したい反面、心臓が口から飛び出そうなほどに緊張している。
「今年になって、初めて家にこたつを迎えたんだけどね。そしたらアイたちが陣取っちゃってさ。うち猫が3匹いるからもう猫様専用こたつみたいになってるんだよ。あ、写真見る? こたつで丸くなってるアイ、可愛いよ」
 返事もしていないのにスマホを操作した宇上くんは、こたつの中で丸まっている三毛猫を見せてくれた。
 一緒に黒猫とハチ割れ猫が戯れている画像も見せてくれた。
「こっちのハチ割れがモフ。黒猫がサラ。毛並みから取った名前だけどかわいいでしょ」
 薄緑の首輪がもふっとした毛の間から見えているモフちゃん。赤い首輪が良く似合うサラちゃん。アイちゃんは水色に金色のラインが入った首輪をしていた。
「アイちゃんの首輪、よく見つけたね」
「3件目のペットショップで見つけたんだ」
 そんなに回ってアイちゃんの首輪を探してくれたんだ。アイちゃんが大事にされていることが分かって嬉しくなった。
 スマホから視線を上げれば、宇上くんは数秒ほど私を見てから、ハッとしたように視線を逸らした。
「あ、えっと、そろそろまた学年末になるだろ? またここで勉強教えてくれない?」
「それはいいけど」
「……あと……」
 そろそろ話題が尽きたようだ。
 宇上くんは視線を彷徨わせて話題を探している。
「話題、なくなったんなら……私から、いいかな」
「……はい」
 なぜか敬語で帰ってきた肯定。普段なら笑ってしまうだろうけれど、今はそんな余裕もなかった。

 図書館で話すのもどうかと思い、一度図書館を出て近くの公園まで移動した。
 大きくもないその公園は、土曜日でも人がいなかった。
 ブランコに並んで座り、途中で買ったホットドリンクを両手で握りしめる。
「あの、この前の返事。ちゃんと考えたよ」
「……うん」
「私、宇上くんに甘えてたの。今まで少しでも距離が縮まった人はすぐに私に好意を向けてきてしまうから、友達になれる人もいなかった。でも宇上くんはそんなことなくて。こんなに話してても挙動不審にならなくて、友達になれそうだなって勝手に思ってた」
 宇上くんがどう思ってくれていたのかは知らないけれど。
 あくまで私の一方的な気持ちだから。
「でも、好きになってたのは、私も同じなの」
「えっ……え!」
 最初は反射的に口から零れたみたいな声だった。2回目は明らかに理解してから目を丸くして言った。2段階で驚く彼に思わず笑ってしまう。
「だから聞きたくなかったの。私が芽生えさせた偽物の好きなんて、聞きたくなかったから」
「それはっ」
「うん、今はちゃんと分かってる。これはあの時そう思ってたって話だから。……私ね、考えたの。もし私の力が消えたり弱まったりして宇上くんの『好き』が消えたとしたら……。宇上君の好きが偽物だって分かってしまったら、その時どうするだろうって」
 終わりが近づいてきた時、私ならどうするだろう。私はどうしたいだろう。
 結論は決まっていた。
「私、宇上くんのこと口説きに行くと思う」
「……へ?」
「ふふ。自分が好意を向けられることばかり考えてたけど、私だって誰かを好きになってもいいと思う。だから、私は宇上くんを好きだってアプローチしに行く」
 力がない人がそうするように、好きになってもらいに行く。
 宇上くんが諦めずに私に話しかけてくれたように、私も宇上くんに話しかけに行く。
「それって、つまり……」
「私、そのくらい宇上くんが好きだよ。だから、宇上くんの『好き』を信じてみようと思う。……信じたい」
 だから宇上くんも信じさせて。その好意が偽物じゃないって。宇上くんが自ら花開かせた恋心だって証明して。
「信じて! 俺、すごく好きだから!」
 宇上くんは勢いよくブランコから立ち上がって言った。ガシャガシャと鎖が音を立てて暴れる。
「ふふ、声が大きいよ」
「ごめん、だって嬉しくて」
 宇上くんは照れたように片手で口元を隠した。
 スラっと長いけれど男の人だと分かる指の隙間から見えた口元は、へにゃへやに緩んでいた。