宇上くんとの問題が解決しない間に、新しい問題が圧し掛かってきた。
 進路だ。
 2年の3学期は3年0学期と言われるらしい。
 バカバカしい。高2の3学期は高2の3学期。それ以上でもそれ以下でもないだろう。
 受験の準備は早い方がいいと言いたいのかもしれないけれど、この時期を3年0学期とあらわすのは意味が分からないなと思った。
 とはいえ、早いうちに進路を決めるに越したことはないだろう。夏には受験が始まる大学もあり、そこでさっさと進学先を決める人も出てくるらしい。
 私はどこの大学に行きたいどころか、将来何をしたいかすら決まっていない。
 大学がどんなところなのかの想像もつかない。
 ドラマや小説なんかで知っているような大学が全てではないだろうし、そもそも現実と物語では違いすぎる。
 広いキャンパスを大人っぽい人たちが行き交う中に、私は入っていけるのだろうか。
 大きな講義室で黒板を見下ろしながら本当に授業を受けたりするのだろうか。
 ダメだ、自分が大学で生活をする姿が想像できない。
 だったら働く? バイトの経験がなくても大丈夫だろうか。
 それとも他に稼ぐ方法があるだろうか。家でできるとしたら……配信者になるとか。きっとそれは簡単なことではないだろうし、私は注目を集める力があるのではなく「人を魅了する力」だから、むしろ恋愛感情を芽生えさせてしまう。きっと炎上するんだろうな……。
 進学か就職かを考えれば、まだ進学するほうがいい気がする。今のように人を寄せ付けないオーラを纏っていれば大きな問題を起こすようなこともないだろうし。
 だけど学費は問題だ。あぁ、それに……私は高校を出たらアパートを出ようと思っているから、そのお金も必要になる。
 となるとやっぱり就職するほうがいいのかもしれない。
「大学受験を考えている人は、今から受験勉強を始めても本当は遅いくらいです。みなさんが望む進学先に合格できるように、しっかり考えてください。それがのちのち自分のためになります!」
 外部から来た男性が、教壇で熱く語っている。
 けれどこれっぽっちも自分が受験生になるんだと言う実感がわかない。
 高校受験をするときもそうだった。なんだかもっとこの学校に通えるような気になって、卒業が迫っていると思えなかった。小学校が6年間ある分、中学の3年間はあっという間に感じたものだ。
 教壇に立っていた男性の話が終わり、担任が拍手をした。それに倣ってクラス中で拍手が巻き起こるが、私は拍手をするほど今の話に感動しなかった。まぁ、話をしてくれてありがとう、というお礼を込めての拍手なのだろうけれど。
 大学受験をするか、それとも就職をするか。まずはここから決めないと。

ーー
「そっか、もう進路の話が出る時期なのね」
 宇上くんに捕まらないように早々に家に帰ってきた私は、今日言われたことを仕事が休みだった母に話して聞かせた。
「涼心はどうしたいとか決まってるの?」
 私は晩ご飯の支度を手伝いながら、母の質問に首を横に振った。
「まだ」
「就職か進学かくらいは決めてるんでしょう?」
「それもまだ。でも……お金は稼がないといけないなって思ってる」
 家を出るならお金が必要にある。3年生になってからバイトを考えると言うのも遅すぎると思うけれど。
「家でできるような仕事がいいな。人に会わなくていい仕事」
「そうねぇ。お母さんと同じ会社はどう? 事務仕事だから積極的に人と関わることもないし、パソコンさえ使えれば問題ないわよ?」
 確かに、人と関わることのない事務仕事ならまだいいかもしれない。母がいるのはそこまで大きな会社ということもないから、大企業ほどオフィスに人がいるわけでもないし。
 私に事務仕事が向いているかは分からないけれど、ずっと座りっぱなしでもあまり苦にはならないし。
「正社員はわからないけど、バイトの募集はあったはずよ」
 母が自分の勤める会社を勧めてくれる。母が続けられている会社なのだから、母にとっても仕事がしやすい環境なのだろう。この「力」をむやみに人に向けることがない環境なら大歓迎だ。
 そこにいるだけで多少は力を振りまいてしまうことはどうにもできないけれど。それでも人との会話が多くあるよりはマシだろう。
「大学で将来の目標を探しながらバイトするって言うのもありだと思うわよ。学費は少しくらい貯金もあるし。奨学金制度だってあるんだし」
 母が私のためにいろいろと考えてくれていることはよく分かった。
「ありがとう、お母さん」
「私は何も。でもお母さんは大学生になった涼心を見てみたいなぁ」
 大学生になった私になんて、ただ私服で学校に通うだけの私だろうに、どうしてそんなものが見たいんだか。
 私は母の意図が読めず苦笑した。
「大学だとしたら、どこか行きたいことろはあるの?」
「まだ何も見てないからわかんない。あ、でも、高校卒業したら家は出るよ」
 ガシャンッ!
「え、ちょっとお母さん!?」
 私の言葉を聞いた母は、持っていたボウルをシンクに落とした。
 陶器じゃないから割れてはいない。洗っているところだったから中身をぶちまけたと言うこともない。強いて言えば水しぶきが飛び散ったくらいだ。
「お母さん、ちょっと大丈夫? どうしたの」
「家を出るって本気なの?」
 眉間にしわを寄せた母は、信じられないものを見る目で私を見ていた。
「……うん、まぁ」
 なんとなく気まずくなって視線を逸らす。
「どうして?」
 私は出しっぱなしになっている水を止める。
 どうしてと言われても、その理由を話す方が母に怒られるような気がして言えない。
 私は父のことを今でも自分のせいだと思っている。母が父と別れなくてはいけなくなったのは、私のせいだと。
 母が結婚しないのも、彼氏を家に連れてきたことがないのも、私のせいだ。
 私が母の彼氏に会えば、その人は、子どもができてしまって「魅了する力」が弱まってしまった母よりも私に魅かれてしまうことは明白。それだけで済めばまだマシだが、家の中で私が襲われないとも限らない。
 だから母は家に恋人を連れてはこない。それは私を守るためでもあり、私のせいで家に招くことができないとも言える。
 結婚をしないのも同じこと。いつも交際の途中で男運がないことが露呈するけれど、それを抜いても母は再婚の2文字は考えていないだろう。それも彼氏を家に連れてこないのと同じ理由だ。
 私がいればまた結婚生活は破綻する。
 私がいなければ、母は今よりも幸せな日常を送れるかもしれない。そう考えると、やっぱり私の存在は邪魔に思えた。
 母が私より恋を優先することはなかったけれど、本当はもっと恋を楽しみたいんじゃないかと思ってしまう。
 私だって誰よりも母の幸せを願っているのだ。私に縛られない方が母は幸せなんじゃないかと……。私は母の幸せには邪魔な存在なんじゃないかと……。
 もちろん母に嫌われているとは思っていない。大事にされていると思っているし、愛されているとも感じている。
 分かっているからこそ、この理由を母に伝えれば怒られるだろうなと察してはいる。
 それでも考えずにはいられない。私が母の足枷になっているんじゃなかと不安にならずにはいられない。
 それをすべて飲み込んで私は笑う。
「ほら、いつまでも今のままってわけにもいかないでしょ? いつかはお母さんだっていなくなるんだろうし、早いうちに自立できてた方がいいと思うから」
 これも嘘ではない。そういう考えがあることも本当だ。
「そんな淋しいこと言わないでよぉ。お母さんはまだまだ涼心と一緒にいたいのに!」
「あはは、ありがとう」
 私だって今のままの方がいい。今までと変わらないままでいたい。
 だけど私の力は社会で理解されるものではない。立証できるものがあるわけでもないし、病院に行っても心配されるのは頭だろう。
 コントロールできる力でもないから、せいぜいに愛想を振り向かないで少しでも力が人に及ばないようにすることくらいしかできない。
 それでもお金は必要で、生きていくためにはこの力を隠したまま社会に出るしかない。
 ずっと変わらないなんて無理だ。
 心臓が締め付けられるほど不安で怖くて、将来に希望が見出せないとしても。変わらないままで居たら、それこそ置いてけぼりを食らってしまう。
「涼心、大好きよ。あなたはお母さんの自慢よ」
 手を拭いた母は私を抱きしめた。
 暖かかくて、いい匂いがして、トクトクと伝わる鼓動に安心できた。
 私はこんなにも親不孝なことを考えてしまう娘だけれど、母の自慢の娘で居たいと欲張ってしまう。
 私が母の自慢でいるために、私はどうすればいいだろうか。
 どう変われば、今のままで居続けられるだろうか。