年始に母方の祖父母の家に挨拶に行き、お年玉をもらってホクホクしていたのも束の間、あっという間に冬休みが終わってしまった。
 年が明けてから図書館が開いても、私は図書館に足を運ぶ気になれなかった。
 もしも宇上くんが待ち伏せをしていたら、と思うと足が重たくなった。
 宇上くんが私のあの言葉をどれだけ気にしているのかは分からないけれど、あの時彼は確実に怒っていた。しかも私は逃げ帰ったのだからさらに宇上くんを怒らせていてもおかしくない。
 正直宇上くんと連絡先を交換していなかったことに心底安堵した。
 母は一向に図書館に行かない私に何を言うでもなかった。
 たぶん図書館で何かがあったことを察してると思う。その相手が一緒に勉強をしていたクラスメイトだと言うことも。
 母から何かを言われていたわけじゃないけれど、母親とは鋭いものだと言うから。
 気を遣わせていることは心苦しいけれど、そっとしておいてくれるのはありがたくもあった。
 ただ、冬休みは永遠に続くものでもないし、学校に行けば隣の席には宇上くんが座っているのだ。
 当然今日だって学校に行けば宇上くんと会うことになるだろう。
 始業式だと言うのに、私はいつまで経ってもベッドから起き上がれないでいた。
「……行きたくない」
 アラームより目を覚ましてしまったのも不機嫌の一因だった。ギリギリまで寝ていたかったのに。
 コンコンと部屋のドアがノックされたかと思えば、廊下から母の声が聞こえてきた。
「すーずーこーちゃーん。もう7時になっちゃうけど、起きなくていいの? 今日の朝ご飯はホットケーキなのに」
「……起きるか」
 ホットケーキにつられてベッドから出た私は、寒さに身震いした。布団中は天国かと思うほどに居心地がよかったのに。あぁ、学校なんてそれでなくても居心地の悪い場所なのに今日はさらに憂鬱度が増している。
 関係ないことを考えていても、どうしても学校や宇上くんに辿り着いてしまう。
 部屋を出て顔を洗って髪を梳かした私は、ようやくホットケーキにありついた。
「いただきます」
「どうぞ」
 私は抱えている憂鬱をホットケーキで喉の奥に押し込むように大口を開けて頬張った。
「あ、涼心。お母さん今日デートだから、晩ご飯は自分でなんとかしてくれる?」
「分かった」
「一応お金は渡しておくからね。お昼の分と合わせて」
「うん、ありがとう」
 母は鞄の中から探し出した財布から諭吉を取り出した。新札かとちょっと期待したけれど、見慣れた旧札で何となくほっとした気持ちもあった。
 ホットケーキを頬張りながらお金を受け取る。
「なんて食べ方してるの、ふふ」
 おかしそうに笑った母のメイクは、普段よりちょっとだけ張り切っているように見えた。

「うぅ」
「涼心が学校を渋るなんて珍しい」
「ちょっと、いろいろ、あるんだよ」
「そうよね。いろいろある日もあるわ」
 玄関で立ち尽くす私は、母に背中を押されて外に出た。
「行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
 行きたくもないのに言われるお決まりの台詞に、私は渋々お決まりの返事をして玄関のドアを閉めた。
 1月の外はとても寒かった。ブレザーの上からコートと着てマフラーを巻いて手袋をして厳重装備をしても、スカートから冷気が潜り込んでくる。
「……さむ」
 首を竦めながら自転車まで歩き、ペダルを踏んだ時に襲ってくる冷気を想像して恐怖しながら自転車の鍵を開けた。

 いつものように自分の席で本を読んで時間を潰していた。
 いつもと少し違うのは、その本が図書館で借りたものではなく既に読んだことがある自分の私物であることと、読書に身が入っていないことだろう。
 宇上くんが来る時間を気にしてチラチラと時計に目をやってしまう。
 宇上くんが登校してきそうな時間が近づき、私はさりげなく本をスクールバッグにしまって席を立つ。
 足早にトイレに逃げ込んだ私は、本鈴が近づく時間まで個室にこもった。
 教室に戻ったときには宇上くんが席にいたけれど、彼が話しかけてくることはなかった。視線はずっと感じていたけれど、担任が教室に入ってきたらその視線も消えた。
「はいみんなあけおめ。どう、どう? お年玉もらえたか? もらえるのも今のうちだからな、大人には媚びとけ。金を貰える機会を逃すな」
「かがやんあけおめ髪切った? 似合ってんね」
「俺に媚びるな! お前らにやれるほど金は残ってない!」
「髪型ちょっと変だよ」
「手のひら返しも大概にしろよ?」
 一連の流れにクラスがわいた。
 私も笑い出しそうになったけれど、すんでのところで堪えた。
 その様子に気付いたのか、右隣から視線を感じたが私は気づかないふりをした。
「ってか始業式始まるから廊下並んで? あ、出席、出席! 近くにいない人いない? いたら報告」
 みんな一斉に辺りを見回し、近くに空席がないかを確認する。
「よし、大丈夫そうだな。じゃあ廊下に整列」
 式というのはいつだって校長が絶好調に長話をする場だ。
 聞く耳がない生徒も多く、ちらほらと頭が前後左右に揺れている人もいた。
 かくいう私も好調の話は聞き流していることの方が多い。今だって考えているのはこれからどうやって宇上くんから逃げおおせようかということだった。
 少なくとも2年を乗り切れば3年ではクラスが離れる可能性もある。
 宇上くんとは学校で話さないという約束をしたけれど、それはあくまで外で話す機会があるからだ。私が図書館に行かなくなったのだから、約束を反故にされたと取られていても文句は言えない。
 だからと言ってじゃあ図書館に行って彼と話をするのかというと、できることならそれも避けたい。
 今彼と面と向かって話す勇気がない。
 ここはやっぱり冷たい態度を貫き通すのが一番いいかもしれない。朝と同じように休み時間はトイレに逃げ込み、放課後はさっさと家に帰って引きこもるしかない。
 しばらく図書館には行けないだろうけれど、背に腹は代えられない。

「夕……」
 宇上くんが私の名前を呼ぼうとしたけれど、私はそれを聞こえないふりをして教室を出た。話しかけるなオーラを振りまいて、何を考えているのか分からないと思ってもらえるような無表情で彼の隣を堂々と通り過ぎる。
 これを休み時間になるたびに繰り返した。
 トイレにこもっている間に、私は自分が文芸部員だったことを思い出した。
 最近はずっと顔を出していないから幽霊部員みたいなものだけど、知らない間に部室の本が増えていたら、まだ読んだことがない小説にであるかもしれない。この際恋愛小説にはこだわらないから、いくらかかりてこよう。
 その日の放課後にさっそく文芸部室に行ってみた。
 部室には副部長と3人の部員が原稿用紙やらノートパソコンを開いていた。
「失礼します」
 短く声をかけて部室に入ると、副部長がすぐに顔をあげた。
 ショートカットの左側を耳にかけ、真剣な顔をしていると私よりも威圧的に感じる3年の女子生徒だ。
「あ、夕山さん! 久しぶりね」
 だけど副部長は人懐っこい人で、無表情を貫く私にも柔らかい笑顔を見せてくれる。
 私は副部長に小さく頭を下げて部室に入った。他の部員たちはチラチラと私見るけれど、話しかけてくるつもりはなさそうだ。
 私はそれに気を悪くするようなこともなく、一直線に本棚に近づいた。
「今日は本を借りに来たの?」
「はい。何冊か持って帰っていいですか?」
「いいよ。あ、新しい恋愛小説入ってるよ」
 副部長が指さした棚を見れば、確かに新刊が入っていた。
 それに今年の春にやっていたアニメ映画のノベライズ本もある。最後に宇上くんに会ったときに勧めた本だ。
 その本を引き抜いた私は、宇上くんの『好きだなと思って』と呟く声が聞こえてきた。
 この本に対して言った言葉だとしたら、読んでみたくなった。
 他にも去年の本屋大賞に選ばれていた小説や、まだ読んだことない恋愛小説を数冊スクールバッグに詰めた。
「返すのはいつでもいいからね」と言ってくれる副部長の声を背中に受けながら部室を後にした。
 副部長以外の部員は最後まで私に声をかけることはなかった。
 これでしばらく読む本に困らない。だけど最近の休み時間はトイレに逃げ込んでいるから学校で本を読む時間が格段に減っていた。これは私にとって由々しき事態だ。
 この問題を解決するには私がさっさと宇上くんに謝ることしかない。あの日のことは気にしないで。そう伝えるほかない。
 頭では分かっているけれど、心が拒絶してしまう。体は心の味方のようで、今日のように逃げてしまうのだ。

 宇上くんが私に話しかけようとするたびに、私は聞こえないふりをして教室を出た。
 クラスメイトが「またやってるの? 諦めなって」と宇上くんに話す声が聞こえてきた。
 休み時間はトイレに逃げ込み、昼休みは毎日のようにご飯を食べる場所を変えた。放課後は号令と共に教室を出て駐輪場まで早歩きで向かい、できる限りペダルを回して学校から離れる。
 宇上くんが声を掛けようとしていてもしていなくても、私は彼を避けた。
 もはや意地の張り合い。2人だけの鬼ごっこだった。