4.
──せっかくの花の女子高生の春休みなのにさ、練習もできなければ、出かけにも行けないなんて……。
 美月はその日、病院のベッドでぐずぐずと文句を垂れていた。
 もう三月にとっくになっていて、朝はまだ寒かったけど昼になれば過ごしやすく、春の花が開くより先に鳥たちの声が聞こえ始めてきていた。
──まあそう言うなって、別にずっとってわけじゃないんだし、検査の結果が出たら退院だって言われてるんだろ? そうしたら、思う存分コンクールにむけて練習したらいいし、遊びにも行ったらいいじゃん。
 二月ごろから訴えていた美月が時折感じていた頭痛はそのあともあまりよくなっていかなかった。
 ちょうど先週の一年生の修了式のあとに、美月が父親にそれとなく漏らしたら、あれよあれよというまにあっというまに検査入院ということになってしまったらしい。
──あーあ、パパなんかにうっかり言うんじゃなかった。
 美月は不貞腐れたときにいつもみせる細めた目で不平を口にした。
 どうやら身体の不調のことは黙っていたらしく、父親にバレて若干小言を言われたらしい。
──父親が医者だと、やっぱりいろいろ敏感になるもんだなあ。でも結局、美月も全然休まなかったんだから、自業自得といば自業自得だね。
──あーん、そんな冷たいこといわないで、あーあ、パパの権力でちゃっちゃっと退院させてくれないかな。やっぱり弾いてないとそのぶん演奏が戻っちゃうんだよねえ。
──どっちかというとパパの権力でこのタイミングに入院を捩じ込まれたんだろ。それこそパパの口利きがなかったら、入院、もうちょいずれ込んでコンクールと被ったかもしれないから、よかったじゃん。
──まあ、それはそうかもしんないんだけどさあ。
 美月の父親は医者だった。
 パパの権力なんていってるが、ふだんの美月にいわせれば、そこらのサラリーマンとほとんどかわらない国立大学病院勤めの医者で娘にピアノのレッスンに通わせるくらいの収入はあるみたいだが、それこそ漫画やドラマでみるような高い謎の酒を片手に謎のゴルフクラブを謎の布で謎にふきふきするような謎の生活とは縁遠いとのことだった。
──それにしても検査入院って一週間もかかるもんなの?
 不満タラタラの美月は僕が見舞いの献上品のつもりで買ってきたコンビニの杏仁豆腐を二つも食べながら言った。
──さあ、こっちは医者じゃないからなんともわからんね。
 確かに検査入院で一週間もかかるのはかなり長い気がした。そういう目にあったことはないのでわからないが、こういうのはだいたい一日か二日くらいのものではないだろうか。
──検査って何やってるの?
──うーん、最初はいろいろ。なんか学校の定期検診みたいなやつ。
 おそらく美月の言う、それは体重を測ったり、血液検査や心電図をとるような一般的なものを言っているのだろう。
──あと、やっぱり頭に異常がないかとかやっぱり重点的にみられているみたい。
──というと?
──まっすぐ歩けるか毎日測られたり、右半身と左半身の動きがおかしくないかとか、あと変な紙を咥えさせられて味覚検査とか、注射を打たれて匂いをいつまで感じるかとか。
──注射で? 直接嗅ぐんじゃなくて?
──うん。
──へえ、いろんな検査があるんだな。でも、そんなんだったら日帰りで良さそうなもんに思えるけどな。
──うーん、やっぱり脳波をすごい頻繁に測らされているから、それかなあ、朝と昼でも、何かあるごとに丸いパッドみたいなやつを頭に貼り付けられるんだ。夜寝る前も絶対につけさせられるし、一日ごとの変化もそうだけど、なんか一週間の生活リズムでどう変化するか調べたいんだって。
──いやあ、まるで実験動物ダネ。まあ美月サンのおつむは大変貴重なサンプルなんでしょうナ。
──奏サン、それはどういう意味ですかネ。
──深い意味はないですヨ。
──キー、バカにしてくれちゃってェ!
──おやおや、実験動物が感情的反応を示している。落ち着かせるために水を与えなくてはいけないナァ。
 僕はそんなふうに美月との他愛ないじゃれあいを切り上げて飲み物を買いにいくために病室を出た。
 それからナースステーションの隣のプレイルームの自販機で二人分の飲み物を買おうとしていると後ろから声をかけられた。
 聞き覚えのある声だった。
 振り返ると、少しくたびれた白衣を着た背の高い男が立っていた。
 丸い眼鏡をかけているがその奥の瞳は美月によく似ていて、威圧感というより柔和な印象を与える。 
──奏くん、久しぶりだね、最後に会ったのは入学式のとき以来だっけ。
──去年の夏休みのまえにも一度お会いしていますよ。
──そうだったっけ。あ、そっか思い出した。美月と一泊どこかに遊びにいくからってわざわざ事前に挨拶に来てくれたんだ。あのときは二人はどこに行ったんだっけ?
──群馬ですね、草津温泉です。
──そうだったね、高校生なのに温泉ってずいぶん渋いなあって話をしたよね。
 男は美月の父親だった。
 首からぶら下げているネームプレートに顔写真と脳神経外科藤咲俊明と印字されていた。
 俊明さんと最初に会ったのは中学の時だった。
 中学の高校受験の頃までは美月が遅くまでレッスンがある日は家まで送り届けていた。それは美月と中学のときに出会ってから程なく始まった習慣だったが、ある日も坂を上がった美月の家まで歩くと、美月に玄関扉の前で待つように言われたのだった。
 少しソワソワして待っているとやがて玄関扉が開き、美月の隣に立っていたのが俊明さんと美月の妹の陽菜だった。
 そのあと立ち話もなんだからと家の中にまで招かれて、ジュースとお菓子を食べさせられた。母親はいなかった。俊明さんは美月によく似て穏やかな雰囲気だったが、そのときはどうにもかしこまった様子で、母親がいないぶん、娘二人に負担や寂しい思いをさせないようにしているつもりだが、どうしても医者という仕事柄そうはいかないときも多いと言っていた。
 俊明さんはあのとき居間のソファに座りながら初めて会ったしかもまだ中学生だった自分に深々と頭を下げた。
 美月をどうかよろしく、と。
 それから俊明さんは自分のことを家族同然に家に遊びに行くたびに邪険にせずに迎えてくれた。美月の穏やかさや人に対する接し方は俊明さんから受け継いだものだというのは父親をみていたら自然とわかることだった。
──奢るよ、なにか甘い炭酸系のものがいいかな。
 俊明さんは自販機に向き直って、人差し指でボタンを押そうとした。
──ありがとうございます。すみません、それじゃあ、アイスコーヒーにしてもらえますか。
 俊明さんはその言葉を聞いて、少し意外そうな顔をしたが、その後すぐ、了解とうなづいた。それから、美月は何がいいかなと考え込んだ。僕は美月もアイスコーヒーでいいと思いますと伝えた。
──そっか。美月ももう子供じゃないもんな。
 俊明さんはそう笑って、アイスコーヒーのボタンを押した。
 ガコンっ。
 三つのアイスコーヒー缶が落ちる音がした。
──奏くん、今から時間あるかな。
 俊明さんは缶を一つ自分に手渡すと言った。
──大丈夫ですけど?
──このあとね、医者として美月に話さないといけないことがあるんだ。できたら、君も一緒にその場にいてやってほしい。でも、美月に話す前に先に聞いておいてほしいんだ。ごめんね、これは僕の美月の父親としてのお願いなんだ。
──わかりました。
 そういうしかなかった。
 それ以外に自分にどんな答えがあのときあったのだろう。
 僕は今でもそんなことを考える。
 でも生々しく思い出すのはそのとき俊明さんの手から受け取ったアイスコーヒーの缶が少し震えていたことだけだった。
 僕はそのとき渡された缶の冷たさを今でもずっと忘れられていない。