3.
美月が初めて病院に行ったのはちょうど僕たちが高校に入って一年が経った春休みに入る前の時季だった。
美月は相変わらず頼まれた部活の助っ人やクラス活動なんかをしつつも、相変わらずピアノに没頭し続けていた。
春休みの終わりには結構大きめのコンクールがあったし、二年に進級したら本格的に音大進学に向けてのレッスンが始まるようだった。
一緒に初詣に行ったときも隣りでずいぶん真剣に神頼みをしていたけれど、多分美月はこのときの正月くらいに自分の人生を本気で音楽にしようと決めたのだと思う。
もちろん小さいときから音楽をしていた美月にとってそれはずっと最初からぼんやりとでも思い描いていたことだろうし、自然なことだったと思う。
それでも高校生活も一年くらい経って新しい生活にも慣れ、だんだんと将来についてより具体的に思い至ることも増えていたのだろう。
正月が過ぎて三学期が始まるとより一心不乱に美月はピアノの時間を増やした。
そしてそれに伴い一月が終わり二月が始まった頃に美月は肩の痛みを訴えるようになっていた。
ピアニストにとって肩こりはある意味宿命のようなものだ。
美月とて例外ではなく、女子高生ながら湿布やら肩こりに効くサポーターをつけているようだった。
それでも美月に言わせれば、いつもの肩こりと微妙に違うらしかった。
これまでも背中や首まで痛くなることはよくあることだったが、今回は頭痛まで感じられてなかなか辛いのだという。
僕はあまりその手の愚痴をこぼさない美月にしては珍しいなとどちらかというとのんびりと思っていたのだが、どうにも演奏にも支障が出てきているとのことだった。
──音が頭に響いちゃってるのかな、集中して弾き過ぎているとときどき急に頭が痛くなっちゃうんだよね。うーん、でもこんなこと今までなかったのに。
僕は放課後に美月と駅まで歩きながら、話を聞いた。
──演奏しているときだけ? たんに頭が痛いとかなら寒いし風邪とかなのかなって思うけど。
──いや、演奏しているときだけなんだよね。うーん、というか、もしかしたら肩こりとかじゃなくて普通に頭がダイレクトに痛いのかも。なんか、演奏している感じもいつもと違うんだよね。
──というと?
──いつもは曲の感情とか、なんか自分のなかで曲と共鳴している感じが頭に来るんだけど、なんか頭が痛くなってくるとそれがいつもと違う感じ。
──曲想が掴めなくなっちゃうってこと?
──うーん、掴めなくなるっていうか、出力が不安定になる感じ? 奏のいうみたいにいきなり頭のなかでブツって音源が切れるときもあれば、逆にボリュームが上がりっぱなしになって止まらなくなることもあるというか、曲の感じの蛇口がバカになってドバドバ出続けて演奏どころじゃなくなるというか。
演奏家にとって一番怖いのは曲想が途切れることだ。
もちろん美月ほどの経験者になれば曲想が途切れても、ある程度手癖や冷静な頭で曲を型通りに続けることはできるだろう。
でもはっきりいってそれは演奏家としては満足に演奏しているということにならない。
自分とは関係ない他人の指先が機械的にただ鍵盤を押しているだけ。
それはピアノを弾いているとは言えない。
僕だって悪い意味で演奏中に頭が真っ白になってしまって、そんな感覚になるというのはわからないでもなかった。
でも美月は他方で、曲想がむしろ過剰に溢れて、止まらなくなってむしろ演奏に支障をきたすのだともいう。
もちろん、それとて演奏家としてのある種のランナーズハイみたいな状態としてわからないこともない。
でも演奏に支障がきたすほどなんて……。
プロに至るまでのピアニストとして、それは誰しもが通る通過点なのだろうか。美月はもしかしたら、プロのピアニストとして重要な感覚を掴みつつあるのかもしれない。僕はそのとき間抜けにもそんなふうに考えていた。
──うーん、まあ普通に練習のしすぎなんじゃない。正月休んだからって、一月はそれ以降全然休まなかったろ。先生もいつも身体や指先を壊したら元も子もないって言ってるだろ、そのとおりだ。休め!
──まいったなあ。春のコンクールまでもうそんなにないのに。
──それこそ、身体を壊して出れなくなったら元も子もないだろ。それに美月サン、あなた冬休み前の期末の成績ずいぶん悪うござったのじゃなかったのでしたっけ?
──ドキーん。オホホ、音楽は数学などではけして割り切れない、神秘的な世界ですことよ。
──まあ、数学は見てやるから、そのあいだ一週間だけでも休んだら?
──ありがとう。うーん、まあ数学は奏サマのありがたい名講義を受けさせてもらうとして、練習はちょっと先生に相談してみるよ。春のコンクールはなんだかんだ音大受験の試金石になると思うし、ベストなコンディションで出れるように調整しなきゃね。
そのときは雪が降っていた。僕たちは毛糸のニット帽を被っていたが、僕は自分の帽子を脱いで、美月の被っているニット帽の上にさらに被せた。
──ほんとにちゃんと休めよ。
──ありがとう、じゃあさ、再来週の私のレッスンが終わったら日曜日どっかに行こうよ。
──え、なんで?
──……奏サン、あなたの頭もポンコツですネ。
──へ?
──バレンタインでしょ!
──あ……。
──バカバカバカバカバカ。
美月は僕が被せたニット帽を両手でグッと引っ張って恥ずかしそうに顔を隠していった。
──君は……、わたしのマネージャーじゃなくて、その……、
美月はそこで言葉を切って、恥ずかしそうに続けた。 ──もっと大事な人でしょ。
僕と美月があるく歩道の隣で静かなアスファルトの雪道を一台のトラックが横切った。
トラックの後ろには、僕らの歩いてきた足跡と並んで雪の轍ができていた。
僕は景色のなかに溶かし込まれていく白い響きにこっそり紛れさすように呟いた。
──受け取るよりは与えるほうが幸いである。
──へー? 奏サンはそのお言葉はどういう意味かお知りで?。
──さあね、神様の言葉だから、きっと間違いないんだろ。
──ふーん敬虔深いことですネ、ところでホワイトデーのお返しなんだけど。
──え! まだボク、貰うべきものを貰ってすらいないんですが、もうホワイトデーの話デスカ。
──受け取るよりは与えるほうが幸いである。
──美月は真面目くさった顔で僕の言葉を繰り返した。
──お、おう……。
これが去年の二月くらいの話だ。
結局、美月はレッスンをやっぱりほとんど休まなかった。
そして美月はその年の春のコンクールに出ることは結果的に叶わなかった。
美月が初めて病院に行ったのはちょうど僕たちが高校に入って一年が経った春休みに入る前の時季だった。
美月は相変わらず頼まれた部活の助っ人やクラス活動なんかをしつつも、相変わらずピアノに没頭し続けていた。
春休みの終わりには結構大きめのコンクールがあったし、二年に進級したら本格的に音大進学に向けてのレッスンが始まるようだった。
一緒に初詣に行ったときも隣りでずいぶん真剣に神頼みをしていたけれど、多分美月はこのときの正月くらいに自分の人生を本気で音楽にしようと決めたのだと思う。
もちろん小さいときから音楽をしていた美月にとってそれはずっと最初からぼんやりとでも思い描いていたことだろうし、自然なことだったと思う。
それでも高校生活も一年くらい経って新しい生活にも慣れ、だんだんと将来についてより具体的に思い至ることも増えていたのだろう。
正月が過ぎて三学期が始まるとより一心不乱に美月はピアノの時間を増やした。
そしてそれに伴い一月が終わり二月が始まった頃に美月は肩の痛みを訴えるようになっていた。
ピアニストにとって肩こりはある意味宿命のようなものだ。
美月とて例外ではなく、女子高生ながら湿布やら肩こりに効くサポーターをつけているようだった。
それでも美月に言わせれば、いつもの肩こりと微妙に違うらしかった。
これまでも背中や首まで痛くなることはよくあることだったが、今回は頭痛まで感じられてなかなか辛いのだという。
僕はあまりその手の愚痴をこぼさない美月にしては珍しいなとどちらかというとのんびりと思っていたのだが、どうにも演奏にも支障が出てきているとのことだった。
──音が頭に響いちゃってるのかな、集中して弾き過ぎているとときどき急に頭が痛くなっちゃうんだよね。うーん、でもこんなこと今までなかったのに。
僕は放課後に美月と駅まで歩きながら、話を聞いた。
──演奏しているときだけ? たんに頭が痛いとかなら寒いし風邪とかなのかなって思うけど。
──いや、演奏しているときだけなんだよね。うーん、というか、もしかしたら肩こりとかじゃなくて普通に頭がダイレクトに痛いのかも。なんか、演奏している感じもいつもと違うんだよね。
──というと?
──いつもは曲の感情とか、なんか自分のなかで曲と共鳴している感じが頭に来るんだけど、なんか頭が痛くなってくるとそれがいつもと違う感じ。
──曲想が掴めなくなっちゃうってこと?
──うーん、掴めなくなるっていうか、出力が不安定になる感じ? 奏のいうみたいにいきなり頭のなかでブツって音源が切れるときもあれば、逆にボリュームが上がりっぱなしになって止まらなくなることもあるというか、曲の感じの蛇口がバカになってドバドバ出続けて演奏どころじゃなくなるというか。
演奏家にとって一番怖いのは曲想が途切れることだ。
もちろん美月ほどの経験者になれば曲想が途切れても、ある程度手癖や冷静な頭で曲を型通りに続けることはできるだろう。
でもはっきりいってそれは演奏家としては満足に演奏しているということにならない。
自分とは関係ない他人の指先が機械的にただ鍵盤を押しているだけ。
それはピアノを弾いているとは言えない。
僕だって悪い意味で演奏中に頭が真っ白になってしまって、そんな感覚になるというのはわからないでもなかった。
でも美月は他方で、曲想がむしろ過剰に溢れて、止まらなくなってむしろ演奏に支障をきたすのだともいう。
もちろん、それとて演奏家としてのある種のランナーズハイみたいな状態としてわからないこともない。
でも演奏に支障がきたすほどなんて……。
プロに至るまでのピアニストとして、それは誰しもが通る通過点なのだろうか。美月はもしかしたら、プロのピアニストとして重要な感覚を掴みつつあるのかもしれない。僕はそのとき間抜けにもそんなふうに考えていた。
──うーん、まあ普通に練習のしすぎなんじゃない。正月休んだからって、一月はそれ以降全然休まなかったろ。先生もいつも身体や指先を壊したら元も子もないって言ってるだろ、そのとおりだ。休め!
──まいったなあ。春のコンクールまでもうそんなにないのに。
──それこそ、身体を壊して出れなくなったら元も子もないだろ。それに美月サン、あなた冬休み前の期末の成績ずいぶん悪うござったのじゃなかったのでしたっけ?
──ドキーん。オホホ、音楽は数学などではけして割り切れない、神秘的な世界ですことよ。
──まあ、数学は見てやるから、そのあいだ一週間だけでも休んだら?
──ありがとう。うーん、まあ数学は奏サマのありがたい名講義を受けさせてもらうとして、練習はちょっと先生に相談してみるよ。春のコンクールはなんだかんだ音大受験の試金石になると思うし、ベストなコンディションで出れるように調整しなきゃね。
そのときは雪が降っていた。僕たちは毛糸のニット帽を被っていたが、僕は自分の帽子を脱いで、美月の被っているニット帽の上にさらに被せた。
──ほんとにちゃんと休めよ。
──ありがとう、じゃあさ、再来週の私のレッスンが終わったら日曜日どっかに行こうよ。
──え、なんで?
──……奏サン、あなたの頭もポンコツですネ。
──へ?
──バレンタインでしょ!
──あ……。
──バカバカバカバカバカ。
美月は僕が被せたニット帽を両手でグッと引っ張って恥ずかしそうに顔を隠していった。
──君は……、わたしのマネージャーじゃなくて、その……、
美月はそこで言葉を切って、恥ずかしそうに続けた。 ──もっと大事な人でしょ。
僕と美月があるく歩道の隣で静かなアスファルトの雪道を一台のトラックが横切った。
トラックの後ろには、僕らの歩いてきた足跡と並んで雪の轍ができていた。
僕は景色のなかに溶かし込まれていく白い響きにこっそり紛れさすように呟いた。
──受け取るよりは与えるほうが幸いである。
──へー? 奏サンはそのお言葉はどういう意味かお知りで?。
──さあね、神様の言葉だから、きっと間違いないんだろ。
──ふーん敬虔深いことですネ、ところでホワイトデーのお返しなんだけど。
──え! まだボク、貰うべきものを貰ってすらいないんですが、もうホワイトデーの話デスカ。
──受け取るよりは与えるほうが幸いである。
──美月は真面目くさった顔で僕の言葉を繰り返した。
──お、おう……。
これが去年の二月くらいの話だ。
結局、美月はレッスンをやっぱりほとんど休まなかった。
そして美月はその年の春のコンクールに出ることは結果的に叶わなかった。