僕はいま今日までのことをすべて思い出した。
 僕はいま美月と僕に関係する今日まで全ての記憶を思い出した。
 ここから先思い出すことは何もなかった。
 僕はいま美月の母親のまえの墓石で傘も放り出して、ただ雪に打たれている。
 冷たくて、静かで、触れるたびに僕の内側の熱で溶けて、それは染み込んでいった。
 美月はあのあとフードコートで目を覚まして、俊明さんがいったように全ての記憶を手放した。それまであったことも家族のこともも、そして僕とピアノのことも。
 でも、全て忘れたとしても、未来に記憶は紡いでいける。
 僕とピアノ以外のことは。
 夏休みが明けると、美月と陽菜は転校していた。それは陽菜から聞かされていた。
 俊明さんによれば、僕のことを思い出せるものは忘れて間もないいまはできるだけ完全に消し去ったほうがいいとのことだった。忘却をある程度の期間、定着させないといけないとのことだった。しばらく経てば、それもある程度の許容範囲というものも出てくると思うが、少なくとも記憶を手放した直後はそうしたほうがよく、そして僕の痕跡というか記憶があっちこっちにベタベタとある学校は当然転校したほうがいいとなるのは自明だった。
 陽菜も俊明さんも僕のことを気にかけて、しばらく電話をくれたり、美月のいないところで、せめて三人でも食事でもしようと声かけてくれた。でも、それも数回すると僕のほうから断るようになった。僕自身がそのほうがいいと思ったからだ。そのほうが美月のためなのか、僕のためなのか、それはわからなかったけど。
 そうして夏休みが終わって、秋が通り過ぎ、やがて年も明けた。それからさらに数ヶ月時間が経って、今日は春が訪れる前の最後の冬の日だった。
 思えば、美月のことでなにかがおきるときはいつもこのあたりの季節だった。最初に症状が出て入院が決まったのもこの時期だったし、美月が一度死んでしまったのも去年の今頃だった。
 べつにそれがあったからというわけでもないが、僕は今日、なんとなく彼女の母親の墓に来てしまった。未練がましいというか、みっともないというか、我ながら思うが、それでも夏休み明けから、僕はかなり頑張ったので、これくらいは許してほしい。
 美月がいなくなって、晴れて高校三年生であるという事実がはっきりして、僕は大学生になるべく猛勉強……、とはいかなくて、やっぱりどこか気が抜けたように何事にもやる気は起きなかった。
 それでもまあ浪人生になることだけはなんとか回避できそうで、とりあえずいまの未練がましい美月との思い出ばかりのこの土地は春から出ることはできそうだ。
 たぶん、それが今のぼくにできる最良のことだ、たぶん。
 僕は改めて藤咲望美と書かれた雪に覆われた墓石を眺めた。
 僕たちの選択は、間違っていたのだろうか、正しかったのだろうか。
 もちろん、そこに正しい答えなんてあるわけがない。
 だからそう問うことはただ自分によって、僕は自己憐憫で温まりたいだけだ。
 そんな問いを口にしてしまうことが人の愚かさなのだとしたら、だったらせめて僕は物言わぬ墓石に、僕たちの選択は僕たちにとってどういう意味だったのだろうか、そんなふうに問いかけたい気がした。
 もちろん、その答えも返ってくるわけがない。
 墓石はただ黙って古い記憶が新しい記憶に重ねっていくみたいに雪が降り積もるだけだった。
 一度会ってみたかったな、僕はなんとなくそう思う。
 きっとあの家族によく似て、きっとあの家族のなかで、輪をかけてお人好しで、よく笑うんだろうな。きっと美月に似ているところもたくさんあるんだろうな。
 藤咲望美。母親か。
 僕はあたまのなかでその名前を反芻した。
「久しぶり」
 後ろで美月の声がした。
 僕は振り返った、馬鹿げていると思いながらも、それでも振り返った。
「……陽菜」
「お姉ちゃんかと思った? 残念、妹ちゃんでした」
「なんでここに?」
 我ながら、間の抜けた質問だと思った。むしろここにいておかしいのは、ここにいるべきではないのは自分の方なのだ。
 でも、陽菜は笑わずにいった。
「今日、お母さんの命日だから」
「そうか、そういえば確かにこの時季だったか」
 細かい日付までは知らなかった。でも確かに記憶をさらえば、冬のどこかだったと美月と陽菜の会話のなかにわかるものがあったはずだ。
 僕は自分がミスを犯したと苦く思った。
 いや、もしかしたら無意識に会えるかもしれないと思って来てしまったのかもしれない。もし、そうなら……、
「最悪だ」
 思わず、声に出てしまっていた。
 でも、陽菜は僕の言葉を聞いて、わりと真剣めに怒ってくれた。
「コラ、何を一人で自己回転してんのかわかんないけど、自虐すんな! あんたも胸張って生きないとこっちまで幸せになれなさそうな感じがするじゃん」
 僕はひさびさに懐かしい論理を聞いた気がした。
「その論理ってお前んちの家族よく使うよな」
「どういうこと?」
 僕はずいぶん久しぶりに笑った気がした。
「いや、わからないならいい」
「なんだよ、それー、半年ぶりに会ったら、奏、性格悪くなってね?」
「お前こそ、半年ぶりにあったら、でかくなってるじゃん」
「こら、妹キャラに押し込めんな!」
 それから、陽菜は僕に向かって少し姉を思わせるような顔で笑った。
「あたしはあんたの妹キャラじゃなくて、親友キャラだからな」
 陽菜が恥ずかしそうに俯いた。
 僕は僕の大切な人にとっても最愛の友人に、雪のなかの地面を掘り返すように素直な気持ちを表現した。
「……ありがとよ」
 僕はこの雪が降り頻る墓地のなかで少しだけコートの下が暖まったような気がした。しかし、陽菜は照れ隠しに叫ぶのだった。

「寒っ……いかん、あたしまでグレートボケナス野郎になるところだった」
「なんだよ、グレートボケナス野郎って……」
「言っておくけど、あたしは妹の隣りでお姉ちゃんにキスした男のことは一生忘れてやらんからな!」
「あ、あれかー……」
 さて、困ったな、あんな小っ恥ずかしい思い出どうしたものか。でも、僕は結局笑って強がった。
「へへん、一生覚えてトラウマにしやがれ」
「キー、この恨み一生晴らさでや」
 それから陽菜は申し訳なさそうに、会話を打ち切るように言った。
「奏、悪い、お姉ちゃん、待たせてるから」
 僕は陽菜がいうことを皆までいわず理解した。
「ああ、俺はもういくよ」
 陽菜は立ち去ろうとする、自分に最後に言った。
「おい、奏!」
 僕は立ち止まって、陽菜の方を振り返った。
 陽菜は墓石の前を少しだけ横切ると、僕が放り投げた傘を拾ってきた。
「風邪ひくから、傘はちゃんと差していけ」
 僕は笑って、この親友から傘を受け取った。
 それから雪が降りしきって視界がわるいなか、行きとは違う道で離れた。
 やがて墓石も陽菜も見えなくなると雪のなかで声がした。
「陽菜ちゃん、さっきまで誰と話してたの?」
「ちょっと、昔の知り合いとね……。ていうか、お姉ちゃん、だからちゃん付けはやめて……」

                      ***

 それから僕はもう足跡も轍もない先の見えない雪のなかをずっと歩いた。歩けば歩くほど、雪はひどくなって、吹雪となっていった。
 僕はいつのまにか知っている場所に勝手に足が向かったのか、いつか三人で訪れた教会に辿りついてた。
 僕は教会のなかにたどり着くと、中に入った。
 教会の中はいつかのように空調が効いていて、暖かかった。前回美月と陽菜が懇意にしていた神父はいまはいないようだった。
 僕は前回訪れたときと同じでどこか惹きつけられるように祭壇まで足が進んだ。
 僕は祭壇まで来ると十字架を見た。
 それからコートの内側にしまい込んでいたノートを一冊取り出した。
 ノートの一ページ目には開くと細やかな字で『与えられた幸いの日々』と書かれていた。
 僕はその楽譜を見ているとだんだんと教会の雰囲気にあてられたのだろうか、柄にもなく祈りを捧げていた。
 どうか、どうか幸いを。
 彼女の日々に。
 せめて、自分のいない彼女の日々が少しでも楽しく、そして暖かでありますように。
 そんなふうに祈って、僕は苦笑いをした。
 やっぱり未練がましいな、自分が祈らなくとも、きっと彼女はこれから普通に幸せになっていくだろう。自分がいなくても彼女が幸せでありますように、だなんて。
 それこそ、バチが当たりそうなほど傲慢か。
 そんなふうに思って、教会を出て下山しようとすると、扉が開いた。
 それはよく知った顔だった。半年ぶりでもちっとも変わらない顔だった。

 少女は、先客がいたことに少し気まずく一瞬思ったようだったが、それでもすぐに笑って言った。
「すみません、妹と墓参りに来てたら、雪がひどくて、ご一緒させてもらってもいいですか?」
 答えあぐねていると、後ろから陽菜の声がした。
「お姉ちゃん、一人でそんなに進んだら、遭難しちゃうでしょ、道、わかんないでしょ……」
 陽菜は最後まで言い終わらず、自分に気がついたようで、わざとらしくあちゃーという顔をした。
「いやあ、すみません、どこの誰か知らないけど、お姉ちゃんに教会のこと話したら、せっかくだから雪宿りしようってきかなくって、はは」
「陽菜ちゃん、すごいね、わたし、教会なんて初めて、ん? 初めてじゃないのか?」
「うん、初めてじゃないよ」
 陽菜に訂正されて、少女はうーむと眉間に皺を寄せた。
「ごめんなさい、わたし、ちょっとよんどころない事情で、記憶喪失ってやつなんですよ」
 よんどころない事情で記憶喪失か、僕は記憶を失ってもいかにも彼女らしい言い方に思わず笑った。

「もしかして、あなたは陽菜のお友達? もしかしてわたしとも実は知り合いだったりしますか?」
 少女は期待を込めて目で僕に言った。
 僕は目の前の少女に穏やかに微笑むように答えた。
「いいえ、あなたと会うのは初めてですよ」
 そうですか、残念、と少女はガッカリしたように言った。
「さあ、お姉ちゃん、そろそろいこ、お父さんからタクシー捕まえたってスマホで連絡来てるよ」
「えー、もうちょっとだけ……」
 少女は名残惜しそうにこの場に留まる理由を見つけたそうにした。それから、僕の手元のノートを見て、声を上げた。
「あ、それ、ピアノの楽譜ですよね? もしかして、あなたもピアニストですか?」
「あなたも?」
 僕は少女の言い方に少し引っ掛かりを覚えて尋ね返してしまった。少女は答えた。
「ええ。わたしは弾けないんですけど、妹がピアニストなんです。あ、そうだ、せっかくなら妹のために一曲弾いてあげてくれませんか? 妹は音大の受験勉強をまだ中学生なのにもうやってて……」
 きっとこの時間は陽菜が特別に作ってくれた時間だろう。本来であれば、そもそも自分とあまり長い時間接触すべきではないはずだ。僕は返答に困って、陽菜の方を見た。
 でも、陽菜は最初は困った顔をしたが、何を思ったか、その表情を思い直したものに変えて笑っていった。
「まあ、一曲くらいなら勉強に聴かせてもらおうかな」
 僕は陽菜の言葉に驚いて言った。
「いいんですか? 本当に? お父さんがタクシーで待ってるんじゃないですか?」
「まあ、ここまで来れば毒をくらわばなんとやらですよ。一曲くらいなら、大丈夫です、ここまで来たらもうどうとでもなれですよ。きっと神様のお目溢しのワンちゃんってやつです」
 陽菜はそう言って、少女の後ろで気づかれないように僕にだけウィンクをした。
 まいった、どうもこの場を誤魔化す方法はないらしい。
「じゃあ、一曲だけですよ」

 あげく僕は言ってしまった。
 少女は嬉しそうに笑って、教会の椅子に妹と一緒に腰かけた。
僕は祭壇の隣のピアノ椅子に腰掛けた。それから鍵盤蓋を持ち上げて、鍵盤を見つめた。何年ぶりの感触だろうか。そもそも演奏なんていまの僕にできるのだろうか。
 僕は演奏前に少しだけ鍵盤に触れてみた。たちまち僕のなかで、僕の指先がなにか目覚めるような気がした。
 忘れてしまおうとしたって本当はなにも忘れることはできない、か。
 僕はそんなことを思った。
 少女はニコニコとこちらを見つめて演奏を待っている。
 隣の妹はちょっとだけひやひやしている。
 僕はそれをみて少しだけ緊張がほぐれた。
 冷たい雪の祈りの場所でその楽器は響いた。
 僕はただこの場で無心に、願うように、祈るように、その鍵盤を鳴らした。
 僕が白鍵を、黒鍵を鳴らすたびにハンマーが持ち上がり、記憶を叩き起こすようにその弦は震えた。少しだけ悲しむように、少しだけ寒さに震えるように、少しだけ喜びに震えるように。
 ステンドグラスからは演奏の一瞬だけ見せた晴れ間で虹のスペクトラムで祭壇を充した。
 短く、そしてどこまでも長い演奏が教会で鳴り続けていた。

 混じり気のない雲の欠片が剥がれて地上のあらゆるもののために舞い散り続けていた。
 やがて、演奏が終わった。
 僕にとってのたった一人の観客が拍手した。
「初めて聴く曲でした」
 観客は言った。
「でも、わたし、あなたの演奏がすごく好きです」
 僕も観客の賞賛に笑って答えた。
「ぼくもあなたが好きな僕の演奏が好きです」
 それから少女は妹とともに雪のなかの教会をあとにした。
 触れる雪はどこまでも冷たく、そして何かを思い出させるように暖かかった。

                                       了