7.
それから次の日。その日は一学期最後の日だった。
僕たちは学校を休んで俊明さんのところへ行った。それから僕と美月は二人で、僕らの選択を俊明さんに伝えた。
俊明さんは僕らの言葉を聞くと、ただ黙ってしばらく物思いに耽った。
それから、机のうえに一錠の薬をおいた。
「美月、君の、いや君たちの選択はわかった。理解するよ。では、この薬を……、これが君たちの選択の答えだよ」
その小さな錠剤は決断というにはあまりにも頼りなくて、まるで子どものお菓子のようにぼんやりとちっぽけで些細なものだった。でも、美月はそれを摘み上げると、指先で少しだけ光にすかして、それから大事にピルケースにしまった。
俊明さんはその所作を見届けると言った。
「その薬を飲むのはどんなタイミングでも良いよ。今じゃなくても、このあとでも、もう少し先でも、そのタイミングは君たちに委ねるよ」
僕は俊明さんに尋ねた。
「いいんですか? 病院にいるときに飲まなくても大丈夫なんですか?」
なんだかこの後に及んでそんなことを気にしている自分がすこし間抜けな気がして僕は自分で自分を笑ってしまいそうになった。けれど、俊明さんは真面目な医師の顔で言った。
「まあ正直にいうと、そうだ。はっきりいってそれは風邪薬とか咳止めとかそんな半端な薬じゃないから、きちんと医師と看護師がいて、万全の体制で見守りながらのんでほしい。というか、もちろんそれでもいい」
そして次に俊明さんは父の顔で言った。
「でも、そうじゃなくてもいい。その薬を飲むタイミングは君たちに任せる。美月、君のこれからの新しい人生を始める最良のタイミングと場所は君自身が決めたら良い」
「大丈夫なの、お父さん、それあとでお父さんが怒られたりしないの?」
俊明さんは相変わらず父の表情のままだった。
「怒られるどころか、たぶん、バレたらもっとめんどうなことになる。でもいいよ、君たちが好きなタイミングでその薬を飲んでも、絶対にわたしがなんとか対応してやるよ。なにがあっても、わたしが後始末をつける。だからめんどくさいあほくさいことは考えるな、君たちは君たちのことを考えろ、それが大人になる君たちへできるわたしの最後の仕事だ」
僕はなかばやけっぱりにすらなっているような俊明さんを見て笑った。この人が美月の医者で、そしてこの人が美月の父親で本当によかったと僕はこのときこころから思った。
なあ、奏くん。俊明さんは美月でも陽菜ではなく、僕にそう話しかけた。
「忘れられるのと忘れてしまうの、どちらが辛いんだろうな」
俊明さんは僕が答えるよりも先に続ける。
「あるいは、忘れてしまうこととずっと忘れられないこと、そのどちらが辛いだろう」
僕は少しだけ考えたが、すぐに答えた。
「それはどちらもです」
俊明さんは僕をみて笑った。それはどこか僕を対等と認めたような、同じ大人の仲間の一員として認めてくれた、そんなふうに思える笑顔だった。
「わたしの妻は──望美は、忘れないことを選んだ、命に代えてもずっとずっと覚えていることをね。もちろん、美月の場合と違ってまだ前例はなくって、そして異常脳波の出どころも君の今の状態ほどはっきりしていなかった。ほとんどわたしの研究に基づく推論で、だから薬を飲んでも生命が永らえる可能性は今の美月よりは少なかった。それでも可能性はあった。でも、彼女は生命の代わりに最後まで記憶を、忘れないことを選んだ」
俊明さんは記憶を呼び起こすように目を閉じながら眼鏡を外した。
「わたしはあのとき妻にどちらの選択をしてほしかったか、いまでもわからないんだ。ただ結果として望美は忘れないことを選んだ、そして生きることができる命を選ばなかった。そしてわたしは残された、わたしは最後まで望美の記憶に留まった、けれど彼女はもうわたしの側にはいない。それでよかったのか、悪かったのか、そんなこといまだにわからないよ」
僕はただ俊明さんの物語になにも言わず、彼の言葉を待った。
「わたしはなんども望美を説得した。たとえ君のもっとも大事な記憶失って、生きるとしても、それでも生き続けてほしいと。でも望美は、美月、君と違って、そちらの選択は選ばなかった。ママは言ったよ『記憶は生きていることそのものだから』と、そう言ったよ。そういって死んでいったよ」
俊明さんは望美さんを恨んでいるのだろうか、僕は俊明さんの目を見て考えた。けれど、俊明さんの寝不足で疲れた目からその答えはわからなかった。
「人の記憶とは不思議なものだね」
俊明さんはいつかもそう言っていたことを僕はふと思い出した。
「望美にとって記憶とはなんだったんだろうな」
俊明さんは考えに疲れ切った目を再び開いて、こちらを見た。それから俊明さんの愛する人が残した娘二人を見て、ふと何かに気がついたように、最後に言った。
「いや、そんな抽象的な話じゃないな。ママはただ君たちと一緒に生きている時間が捨て去ることがどうしてもできないくらいかけがえのなかったんだ。ただそれだけなのかな」
俊明さんは最後には誰にいうでもなくてつぶやいた。
「『与えられた幸いの日々』か」
それから次の日。その日は一学期最後の日だった。
僕たちは学校を休んで俊明さんのところへ行った。それから僕と美月は二人で、僕らの選択を俊明さんに伝えた。
俊明さんは僕らの言葉を聞くと、ただ黙ってしばらく物思いに耽った。
それから、机のうえに一錠の薬をおいた。
「美月、君の、いや君たちの選択はわかった。理解するよ。では、この薬を……、これが君たちの選択の答えだよ」
その小さな錠剤は決断というにはあまりにも頼りなくて、まるで子どものお菓子のようにぼんやりとちっぽけで些細なものだった。でも、美月はそれを摘み上げると、指先で少しだけ光にすかして、それから大事にピルケースにしまった。
俊明さんはその所作を見届けると言った。
「その薬を飲むのはどんなタイミングでも良いよ。今じゃなくても、このあとでも、もう少し先でも、そのタイミングは君たちに委ねるよ」
僕は俊明さんに尋ねた。
「いいんですか? 病院にいるときに飲まなくても大丈夫なんですか?」
なんだかこの後に及んでそんなことを気にしている自分がすこし間抜けな気がして僕は自分で自分を笑ってしまいそうになった。けれど、俊明さんは真面目な医師の顔で言った。
「まあ正直にいうと、そうだ。はっきりいってそれは風邪薬とか咳止めとかそんな半端な薬じゃないから、きちんと医師と看護師がいて、万全の体制で見守りながらのんでほしい。というか、もちろんそれでもいい」
そして次に俊明さんは父の顔で言った。
「でも、そうじゃなくてもいい。その薬を飲むタイミングは君たちに任せる。美月、君のこれからの新しい人生を始める最良のタイミングと場所は君自身が決めたら良い」
「大丈夫なの、お父さん、それあとでお父さんが怒られたりしないの?」
俊明さんは相変わらず父の表情のままだった。
「怒られるどころか、たぶん、バレたらもっとめんどうなことになる。でもいいよ、君たちが好きなタイミングでその薬を飲んでも、絶対にわたしがなんとか対応してやるよ。なにがあっても、わたしが後始末をつける。だからめんどくさいあほくさいことは考えるな、君たちは君たちのことを考えろ、それが大人になる君たちへできるわたしの最後の仕事だ」
僕はなかばやけっぱりにすらなっているような俊明さんを見て笑った。この人が美月の医者で、そしてこの人が美月の父親で本当によかったと僕はこのときこころから思った。
なあ、奏くん。俊明さんは美月でも陽菜ではなく、僕にそう話しかけた。
「忘れられるのと忘れてしまうの、どちらが辛いんだろうな」
俊明さんは僕が答えるよりも先に続ける。
「あるいは、忘れてしまうこととずっと忘れられないこと、そのどちらが辛いだろう」
僕は少しだけ考えたが、すぐに答えた。
「それはどちらもです」
俊明さんは僕をみて笑った。それはどこか僕を対等と認めたような、同じ大人の仲間の一員として認めてくれた、そんなふうに思える笑顔だった。
「わたしの妻は──望美は、忘れないことを選んだ、命に代えてもずっとずっと覚えていることをね。もちろん、美月の場合と違ってまだ前例はなくって、そして異常脳波の出どころも君の今の状態ほどはっきりしていなかった。ほとんどわたしの研究に基づく推論で、だから薬を飲んでも生命が永らえる可能性は今の美月よりは少なかった。それでも可能性はあった。でも、彼女は生命の代わりに最後まで記憶を、忘れないことを選んだ」
俊明さんは記憶を呼び起こすように目を閉じながら眼鏡を外した。
「わたしはあのとき妻にどちらの選択をしてほしかったか、いまでもわからないんだ。ただ結果として望美は忘れないことを選んだ、そして生きることができる命を選ばなかった。そしてわたしは残された、わたしは最後まで望美の記憶に留まった、けれど彼女はもうわたしの側にはいない。それでよかったのか、悪かったのか、そんなこといまだにわからないよ」
僕はただ俊明さんの物語になにも言わず、彼の言葉を待った。
「わたしはなんども望美を説得した。たとえ君のもっとも大事な記憶失って、生きるとしても、それでも生き続けてほしいと。でも望美は、美月、君と違って、そちらの選択は選ばなかった。ママは言ったよ『記憶は生きていることそのものだから』と、そう言ったよ。そういって死んでいったよ」
俊明さんは望美さんを恨んでいるのだろうか、僕は俊明さんの目を見て考えた。けれど、俊明さんの寝不足で疲れた目からその答えはわからなかった。
「人の記憶とは不思議なものだね」
俊明さんはいつかもそう言っていたことを僕はふと思い出した。
「望美にとって記憶とはなんだったんだろうな」
俊明さんは考えに疲れ切った目を再び開いて、こちらを見た。それから俊明さんの愛する人が残した娘二人を見て、ふと何かに気がついたように、最後に言った。
「いや、そんな抽象的な話じゃないな。ママはただ君たちと一緒に生きている時間が捨て去ることがどうしてもできないくらいかけがえのなかったんだ。ただそれだけなのかな」
俊明さんは最後には誰にいうでもなくてつぶやいた。
「『与えられた幸いの日々』か」