2.
俊明さんは全てを話しきると、いずれの治療をすることを選ぶのなら、おそらく早い方が良いと思うと最後に付け加えた。
もはや症状の進行を完全に予測しきるのは不可能だから、いずれにしても早すぎるということはありえない、だから手術でも投薬療法を行うにしても、そしてあるいはそのいずれを選ばないにしても医師である自分に伝えてほしいと。
俊明さんは、まだ子どもなのにこんな辛い選択を選ばせることになって申し訳ないとも、じっくり考えて決めなさいとも、なんともいわずただ黙って病室を出て行った。
俊明さんが出て行ったあとも、僕も美月も陽菜も三人のうち、長いあいだ誰も口を開く人間はいなかった。
それでも、ただ時間が過ぎて日が傾き始めると美月が僕と陽菜に部屋を出るように言った。
「ごめん、一人にさせてほしい」
美月はただそう感情を伺わせない声で一言だけいうと、僕らのほうに顔を向けるのやめて、窓をみて僕らに意思表示をした。
陽菜が僕の服の袖を引っ張って退室を促してきた。僕はなにもいわず陽菜と二人で病室を出て行った。
それから僕と陽菜はいつか俊明さんと話したナースステーションの隣のプレイルームに腰かけた。プレイルームには以前にはなかった。子ども用入院患者のための積み木のような知育玩具のコーナーが隅に設置されていた。
「ここ最近さ、あたし、ずっと考えてたんだ」
今は子ども患者はいないタイミングなのか、知育玩具のコーナーには誰もおらず積み木はただカーペットに散らかっているだけだった。陽菜はそんな様子を眺めながら行った。
「お姉ちゃんはどうして一回死んで、それでまた蘇ったのかな」
僕は陽菜に言われて、今年の春に美月の心臓が一度停止したあの日のことを思い出した。あのとき陽菜はいなかった。
「お姉ちゃんの症状、お母さんの症例とおんなじだって、やっぱりそれは遺伝とかなのかな、でもどうしてそれはお姉ちゃんなのかな、どうしてわたしじゃなくてお姉ちゃんなんだろう」
僕は隣に座る陽菜の表情をみた。
俊明さんと美月は目がよく似ている。それからよく困ったように笑ったり、どちらかというと他人に対して受け身に立ってコミュニケーションをとる様子とか。
陽菜はどうなんだろう。陽菜は美月とどこが似ているのだろう。僕はそんなことを考えた。
「もしこの世界の隣にたとえば並行世界みたいなものがあれば、その世界ではお姉ちゃんじゃなくて、あたしの方に症状が出ていたのかも。そうだったら、よかったのに」
陽菜は自嘲気味に笑っていった。
僕は陽菜の自嘲を少しでも取り去りたくてそんな言葉を返す。
「それいったら、美月はたぶん本気で怒るぞ。お姉ちゃんを怒らせたら怖いぞ」
「わかってるよ、だから、奏に言ってんじゃん」
陽菜は僕の冗談めかした言い方を拾うように笑った。
「お姉ちゃんの心臓が止まったって外国で聞かされたとき、こっちの心臓まで一緒に止まりそうになった。どうしてあたしはいま海の向こうにいるんだって、どうしてお姉ちゃんの側にいないんだって」
陽菜は最初ヨーロッパ渡航を確かに嫌がっていたし、一時は断念しようとしていた。けれども、それでも行こうとしていたのは、美月が妹に行くように頼んだからだ。
「でも、お姉ちゃんがもし自分だったら、そうだったら確かに自分のために将来のチャンスをふいにして欲しくない。それは確かに嫌だ。じゃあ、あたしはどうすればよかったのかな」
美月はよく穏やかに笑う。
陽菜はどうだろう。陽菜はどちらかというと、穏やかというより騒がしいやつだ。
だから、二人の姉妹はもしかしたらあまり似ていないと人は言うのかもしれない。
「お母さんが死んだとき、誰も泣かなかったの」
けれど、陽菜はそういって笑った。その笑いは僕の知っている人にとてもよく似た表情だった。
「お母さんが死んで、わたしもお姉ちゃんもお父さんもどん底だった。そりゃ、めちゃくちゃ辛かったよ。でも私たち三人ともたぶんおんなじことを思ったの。他の二人も辛いだろうから、自分だけは泣いちゃダメだ。泣かないでおこうって」
陽菜の声が歪んだ。泣かないように、涙を見せないようにしようとすれば、一層溢れてしまうものが僕たちにはある。僕たちの内側にあるそこから溢れてくるものはときに涙として、ときにはある一つの響きとして溢れてくる。
僕の隣で鍵盤の音がした。
「どうして、お母さんもお姉ちゃんもあたしをおいていっちゃうの。どうしてしんどいめにあうのはあたしじゃなくて、あたし以外の人なの、あたし、もうお姉ちゃんが死んじゃうの嫌だ」
二人はやっぱりよく似ている。なんだかんだで他人のことを考えてしまう。自分を押し殺して、他人の考えを優先してしまう気の弱さも、その優しさも二人のそれはとてもよく似ている。そしてそれがゆえの頑固さも。
「もしいま病気なのがあたしで、もしここに座っているのがお姉ちゃんなら、お姉ちゃんのあたしは、きっと記憶を失っても生きていてほしいと思う。それはいまこの場のあたしだって絶対にそう。お姉ちゃんには死んで欲しくない」
もし違う世界だったらという他愛もない想像の唯一変更できない二人の姉妹の一致点。 「奏、お姉ちゃんがやばくなったときに隣りにいてくれたのはあんただった。それは本当に感謝してる。もしかしたら隣りに奏がいたからお姉ちゃんは戻ってきてくれたのかもしれない。あのとき隣りにいたのはあたしじゃないんだ」
僕は何も言わなかった。
「きっとお姉ちゃんが薬を飲んで、これから一緒にいれなくなるのは奏だ。奏もそれはわかってるよね。お姉ちゃんにとって一番大切なもの、それは奏だよ、あたしじゃない。悔しいけど、でもそれはあたしはもう認めている」
陽菜は意志のこもった目でこちらを見つめてきた。結局その瞳もやっぱり美月によく似ている。
「だから、今回の件でお姉ちゃんと話す権利はあんたにあると思う。そりゃ最終的にきめる権利はお姉ちゃんにあるよ。でもあんたは自分の気持ちを、思いを、あんた自身の願いをお姉ちゃんに伝える権利はあると思う」
もし、もし、もし。もし、あのときのあの人が自分だったら、もしあのときの自分があの人だったら。自分がそんな状況だったら、あの人が自分の立場だったら、人はそんなことをときおり考える。考えても、その問いの答えはいつもわからない。
でも考える。そう人が問うことにはどんな意味があるんだろう。それはただの後悔や迷いだけなのだろうか。そこに人がそう問うてしまうことに意味など本当にないのだろうか。
たとえそんな想像が現実に何の意味を持たないとしても、ただ、いま、この場の、この世界にいる僕らにとって現実が圧倒的にただ確実に何か一つを選ばせてこようとするのだとしても。それに絶対に抵抗できないのだとしても。
「陽菜、ありがとう」
僕は、僕と美月にとって数歳歳下の少女にお礼を言った。妹キャラなんかじゃなくて、一人の僕らの人生に登場するかけがないの一人の友人として。この世界のかけがえのない存在として、僕は彼女の瞳を見つめ返した。
少女はやがて涙を拭うと、僕に笑っていった。
「奏、お姉ちゃんの部屋に戻ってあげて、それから二人で話してみて、それがどんな選択でも、間違ってないってこの妹様が世界に向かって保証してあげるから」
俊明さんは全てを話しきると、いずれの治療をすることを選ぶのなら、おそらく早い方が良いと思うと最後に付け加えた。
もはや症状の進行を完全に予測しきるのは不可能だから、いずれにしても早すぎるということはありえない、だから手術でも投薬療法を行うにしても、そしてあるいはそのいずれを選ばないにしても医師である自分に伝えてほしいと。
俊明さんは、まだ子どもなのにこんな辛い選択を選ばせることになって申し訳ないとも、じっくり考えて決めなさいとも、なんともいわずただ黙って病室を出て行った。
俊明さんが出て行ったあとも、僕も美月も陽菜も三人のうち、長いあいだ誰も口を開く人間はいなかった。
それでも、ただ時間が過ぎて日が傾き始めると美月が僕と陽菜に部屋を出るように言った。
「ごめん、一人にさせてほしい」
美月はただそう感情を伺わせない声で一言だけいうと、僕らのほうに顔を向けるのやめて、窓をみて僕らに意思表示をした。
陽菜が僕の服の袖を引っ張って退室を促してきた。僕はなにもいわず陽菜と二人で病室を出て行った。
それから僕と陽菜はいつか俊明さんと話したナースステーションの隣のプレイルームに腰かけた。プレイルームには以前にはなかった。子ども用入院患者のための積み木のような知育玩具のコーナーが隅に設置されていた。
「ここ最近さ、あたし、ずっと考えてたんだ」
今は子ども患者はいないタイミングなのか、知育玩具のコーナーには誰もおらず積み木はただカーペットに散らかっているだけだった。陽菜はそんな様子を眺めながら行った。
「お姉ちゃんはどうして一回死んで、それでまた蘇ったのかな」
僕は陽菜に言われて、今年の春に美月の心臓が一度停止したあの日のことを思い出した。あのとき陽菜はいなかった。
「お姉ちゃんの症状、お母さんの症例とおんなじだって、やっぱりそれは遺伝とかなのかな、でもどうしてそれはお姉ちゃんなのかな、どうしてわたしじゃなくてお姉ちゃんなんだろう」
僕は隣に座る陽菜の表情をみた。
俊明さんと美月は目がよく似ている。それからよく困ったように笑ったり、どちらかというと他人に対して受け身に立ってコミュニケーションをとる様子とか。
陽菜はどうなんだろう。陽菜は美月とどこが似ているのだろう。僕はそんなことを考えた。
「もしこの世界の隣にたとえば並行世界みたいなものがあれば、その世界ではお姉ちゃんじゃなくて、あたしの方に症状が出ていたのかも。そうだったら、よかったのに」
陽菜は自嘲気味に笑っていった。
僕は陽菜の自嘲を少しでも取り去りたくてそんな言葉を返す。
「それいったら、美月はたぶん本気で怒るぞ。お姉ちゃんを怒らせたら怖いぞ」
「わかってるよ、だから、奏に言ってんじゃん」
陽菜は僕の冗談めかした言い方を拾うように笑った。
「お姉ちゃんの心臓が止まったって外国で聞かされたとき、こっちの心臓まで一緒に止まりそうになった。どうしてあたしはいま海の向こうにいるんだって、どうしてお姉ちゃんの側にいないんだって」
陽菜は最初ヨーロッパ渡航を確かに嫌がっていたし、一時は断念しようとしていた。けれども、それでも行こうとしていたのは、美月が妹に行くように頼んだからだ。
「でも、お姉ちゃんがもし自分だったら、そうだったら確かに自分のために将来のチャンスをふいにして欲しくない。それは確かに嫌だ。じゃあ、あたしはどうすればよかったのかな」
美月はよく穏やかに笑う。
陽菜はどうだろう。陽菜はどちらかというと、穏やかというより騒がしいやつだ。
だから、二人の姉妹はもしかしたらあまり似ていないと人は言うのかもしれない。
「お母さんが死んだとき、誰も泣かなかったの」
けれど、陽菜はそういって笑った。その笑いは僕の知っている人にとてもよく似た表情だった。
「お母さんが死んで、わたしもお姉ちゃんもお父さんもどん底だった。そりゃ、めちゃくちゃ辛かったよ。でも私たち三人ともたぶんおんなじことを思ったの。他の二人も辛いだろうから、自分だけは泣いちゃダメだ。泣かないでおこうって」
陽菜の声が歪んだ。泣かないように、涙を見せないようにしようとすれば、一層溢れてしまうものが僕たちにはある。僕たちの内側にあるそこから溢れてくるものはときに涙として、ときにはある一つの響きとして溢れてくる。
僕の隣で鍵盤の音がした。
「どうして、お母さんもお姉ちゃんもあたしをおいていっちゃうの。どうしてしんどいめにあうのはあたしじゃなくて、あたし以外の人なの、あたし、もうお姉ちゃんが死んじゃうの嫌だ」
二人はやっぱりよく似ている。なんだかんだで他人のことを考えてしまう。自分を押し殺して、他人の考えを優先してしまう気の弱さも、その優しさも二人のそれはとてもよく似ている。そしてそれがゆえの頑固さも。
「もしいま病気なのがあたしで、もしここに座っているのがお姉ちゃんなら、お姉ちゃんのあたしは、きっと記憶を失っても生きていてほしいと思う。それはいまこの場のあたしだって絶対にそう。お姉ちゃんには死んで欲しくない」
もし違う世界だったらという他愛もない想像の唯一変更できない二人の姉妹の一致点。 「奏、お姉ちゃんがやばくなったときに隣りにいてくれたのはあんただった。それは本当に感謝してる。もしかしたら隣りに奏がいたからお姉ちゃんは戻ってきてくれたのかもしれない。あのとき隣りにいたのはあたしじゃないんだ」
僕は何も言わなかった。
「きっとお姉ちゃんが薬を飲んで、これから一緒にいれなくなるのは奏だ。奏もそれはわかってるよね。お姉ちゃんにとって一番大切なもの、それは奏だよ、あたしじゃない。悔しいけど、でもそれはあたしはもう認めている」
陽菜は意志のこもった目でこちらを見つめてきた。結局その瞳もやっぱり美月によく似ている。
「だから、今回の件でお姉ちゃんと話す権利はあんたにあると思う。そりゃ最終的にきめる権利はお姉ちゃんにあるよ。でもあんたは自分の気持ちを、思いを、あんた自身の願いをお姉ちゃんに伝える権利はあると思う」
もし、もし、もし。もし、あのときのあの人が自分だったら、もしあのときの自分があの人だったら。自分がそんな状況だったら、あの人が自分の立場だったら、人はそんなことをときおり考える。考えても、その問いの答えはいつもわからない。
でも考える。そう人が問うことにはどんな意味があるんだろう。それはただの後悔や迷いだけなのだろうか。そこに人がそう問うてしまうことに意味など本当にないのだろうか。
たとえそんな想像が現実に何の意味を持たないとしても、ただ、いま、この場の、この世界にいる僕らにとって現実が圧倒的にただ確実に何か一つを選ばせてこようとするのだとしても。それに絶対に抵抗できないのだとしても。
「陽菜、ありがとう」
僕は、僕と美月にとって数歳歳下の少女にお礼を言った。妹キャラなんかじゃなくて、一人の僕らの人生に登場するかけがないの一人の友人として。この世界のかけがえのない存在として、僕は彼女の瞳を見つめ返した。
少女はやがて涙を拭うと、僕に笑っていった。
「奏、お姉ちゃんの部屋に戻ってあげて、それから二人で話してみて、それがどんな選択でも、間違ってないってこの妹様が世界に向かって保証してあげるから」