4.
 雨の少ない六月はそんなふうにして終わっていった。
 それから暑さは本格的にやってきた。僕らはようやくゆっくりとまた日常を取り戻そうとしていたと思っていた。
 まっすぐに前に。
 でも違っていた。僕らが前に進むための準備期間だと思っていた時間はもう一度やってくる嵐のなかの束の間の時間だった。
 僕らが直進運動だったと思っていたものはゆっくりと振れる振り子運動だった。
 そして振り子はまた片側に振れ切って、再び逆方向へと戻ろうとしているのだった。
 ゆっくりと振り子がまた元に戻っていく。



                    ***

 
 七月も二週目が過ぎて後半になった。美月はこれまで一週に一度だった検査を二週に一度の頻度に減らして、その七月の二度目の検査を受けていた。
「七月の最初の検査結果も退院して今日までと変わらないね。脳のMRIなどで変化のある箇所はみられないし、まして脳波図においても異常なパターンはない。あのガンマ波を越える波形である第六の波形も現れていない」
 俊明さんは診察室で丸い回転椅子に座る患者に問診した。
「美月自身の方はどうだい? また肩の痛みや背中側に連なるような頭痛は感じてないかい? それ以外でもなにかいつもと違う感じとかは?」
 美月は目の前の医師の問いかけに考え込んで、心当たりを見つけ出そうとする。
「もちろん、思い当たらないなら、それでいい。というか、それに越したことはない」
 俊明さんは手をぱっと振りながらいった。
「奏くんもどうかな? 美月を見ていていつもと変わったこととかないかな」
「うーん、そうですねえ、ちょっと頭が良くなったような?」
 僕は少し場の空気を和らげようと両手を上げていってみた。
「ちょっとー、どういうことそれー」
「いいことじゃん」
 しかし冗談ではなく、実際美月の成績はかなりよかった。一年中断していたところを取り戻そうと他のクラスメイトよりも補講も含めて多めに取り組んでいるゆえなのか一学期の中間はかなりの結果だったし、今はちょうど期末に向けてのテスト前で、一緒に準備しているが、隣りで見ていても大したものだった。
 もっとも数学だけは相変わらずなので、まあそれも変わらないといえば変わらないのかもしれなかったが。
「なるほど。学業成績が向上したか……」
 俊明さんは僕の冗談を真に受けたのか、それとも戯れにのってくれたのか、ふむふむと言いながらカルテにメモを残しそうとした。
「ちょっと、パパまで……」
「ははは、いや、すまんすまん、娘の学業が順調なら、親としては願ったり叶ったりだよ」
 美月は目の前の優しい父親に膨れっ面を見せた。それは娘が父の気を引くための甘えに隠した不安だったのかも知れない。
 父はそんな娘を安心させるように、頭を優しく撫でた。
「美月、君がこの頭で一年間起きたことは、この広い世界のなかで、これまで三例しか報告がなかったものだ。そして君は一度死んでからまた蘇り、そしてここまで回復した。はっきりいって、ここまでくるともはや、君の症例はその三例の事例すら越えて完全に未知のケースだ」
 僕は美月の隣で穏やかで娘とよく似た少し楕円の父の瞳を覗き込んだ。

「君の前例の三例のケースはいずれも不幸な終わり方をしている。けれど、君のケースは繰り返すが、この三例のケースをもはや越えている。だから、君のこれからはまだ未確定だし、油断しすぎるのも確かによくないが、だからといって心配しすぎる必要もないんだよ」

「わかった」
 美月はそういって、父親から気恥ずかしそうに目を俯かせ視線を外した。
 でも、僕は俊明さんの目の中に一瞬だけ不安をみたような気がした。
 心配しすぎる必要はない。
 それは俊明さん本人が自分にも言い聞かせるために発したように思えてしまったのだ。

                    ***

 それから週明けの月曜日。
 僕たちはまたテスト勉強のために放課後に美月の家にいた。テスト期間なのは中等部の陽菜も同じで僕らはリビングのカーペットにペタリと座り込んで冷房を浴びながら三人でノートやら参考書を広げていた。
「ambigous」「あいまいな」
「androgynos」「両性具有の」
「spontaneous」「自発的」
「undergo」「を経験する」
「swallow」「飲み込む」
 全部正解。陽菜がノートを開きながら、美月に告げた。
「お姉ちゃんって、こんなに英語得意だったっけ? まあ数学よりはマシなのか」
「お姉ちゃんの偉大さを思い知ったか」
「はいはい。じゃあ、次ね。っても、これはわかるか」
「Andante」
 隣で二人のやりとりを聞いていて、僕は思わず参考書を読みながら笑ってしまった。
これは音楽をやっていれば、覚えているとかそういう話ではないレベルだ。
「はい、お姉ちゃん、『Andante』だよ」
 メガネをかけた陽菜が答えを急かすように言った。
 美月は笑いながら、固まっていた。
「えーと、そうだね……。えーと、なんだっけ……。難しいね、初めて聞く単語かも」
「え?」
 陽菜が不思議そうな声を出す。僕は少し胸騒ぎを覚えたような気が直感的にして、参考書から視線を外して、二人を見た。
「なに言ってんの? お姉ちゃん、『Andante』だよ。譜面で百回くらいみた単語でしょ」
 美月は陽菜に言われて、目を丸くした。
「え、そうだっけ? 初めて聞くけどなあ。『Andante』だよね。アルデンテーじゃなくて、ええと、アンデルセンーでもなくて、はは……」
 美月は冗談を言って誤魔化そうとしたが、それでも陽菜が動揺して、少し詰めるように問いかけてしまった。
「どうしたの、お姉ちゃん、『Andante』だよ! 音楽家ならわかるでしょ?」
 美月は妹の若干不安に彩られたわずかな怒気を孕んだ声にますます動揺して、答えが出ないようだった。

「『Andante 歩くように』だ」

 僕は助け舟のつもりで、場を仕切り直すように二人に割って入った。
「二人とも、少しやりすぎなんじゃないか。vivaceでやるのもいいけど、まだテストまでもう少しあるんだから、それこそAndanteでいいだろ。ちょっとPAUSEだ」
 僕は冗談に聞こえるようにわざと怪しい音楽教師のような話しかたで言ってみた。陽菜は思わず、語気が強くなったのを誤魔化すように、僕の提案に乗った。
「そうだね、少し休憩にしよ。あーあ、頭がわけわかんない英単語ばっかりだから、やはりね、音楽に愛された天才女子中学生ピアニスト足るものしょーもない世俗の知識なんかじゃなくて、崇高な音楽で頭を充さなきゃ」
 そういって、机のスマホを操作して、お気に入りの演奏曲を再生した。
 それは去年ヨーロッパの映画祭で音楽賞を受賞したとある映画音楽の標題曲だった。僕が配信サイトでその映画を見つけて、劇伴が良かったので二人にも観るように勧めたのだった。美月はまだ観ていないらしいが、陽菜はついこのあいだ観て気に入ったらしかった。
 曲はミステリー映画にふさわしく、序盤から怪しげなタッチで進行していった。
「うん、やっぱり出だしの展開がいいよね。この表題曲ラストにも使われてて、何気に伏線になってるんだよね」
 陽菜がのんびりとそう言った。美月も釣られるように感想を言う。
「ほんとだ、これ、いい曲だね。さりげない対位法で実は女の方が殺人犯ってのを暗示しているんだね。芸が細かいね」
「なんだ、美月ももう配信みたのか」
 僕は映画の最大のオチについて言及した美月に言った。
「え、あ、ごめん、まだだけど?」
「え? だって、いま女の方が犯人だって」
 美月は僕に言われてようやく自分が何を言ったか気づいたらしかった。
「え、ああ、無意識。なんか曲を聴いてたら、赤いコートの女が短剣を持っているのが見えた気がして。はは、なんかやけに具体的だね」
「具体的も何も、それ、映画のラストシーンなんだけど……、ふつうそんなことまでわかる?」
 陽菜が不気味そうに美月の言葉にいった。
「なんか昔からそういうところあったんだけど、最近はほんとに曲聴くと浮かぶイメージがすごくはっきりしてきて……」
「お姉ちゃん、それは天才がいうやつじゃん」
「えっへん」
 僕は二人のやりとりみて、場の空気がいつものものに戻っていったのを感じて安堵した。
 けれど、やはり胸騒ぎは消えなかった。
 もちろん、演奏を聴いてある景色やイメージが浮かぶというのは音楽家として多かれ少なかれないことではない。だが、まさか観たことのない映画のストーリーまで解ってしまうというのは、それはもう感性とかのレベルを越えて、ほとんど超能力みたいな力だ。
 僕は部屋の冷房が一気に下がった気がした。そういえば美月が最初に症状が出たときも、急激に演奏に対する感性が上がったのだった。
「さて、じゃあ、お茶でも飲んだらまた始めますか」
 美月はそういって、シンクにいってアイスティーを入れようとした。僕は心配を紛らわすために立ち上がって手伝おうとした。
 すると、すぐにグラスが割れる音がした。みるとキッチンの床には割れたガラスと注がれるはずだった氷がフローリングにだらしなく広がっていた。
「お姉ちゃん、大丈夫? 指怪我してない?」
 陽菜が慌てて、美月に声をかけた。しかし美月には聞こえていないようだった。
 美月はグラスを落とした手を目を丸くさせて、まるで他人の指先のようにずっと見続けていた。


                      ***

 
 それから僕らは協力して、グラスを片付けるともう勉強という雰囲気じゃなくて解散することになった。
 僕は帰る前に美月に言った。
「今日、久々に泊まろうか?」
「ううん、大丈夫、今日は奏、帰りなよ、テスト勉強まだ残ってるんだしさ」
「そんなこといいだろ、自分のことをまず考えてくれ」
 美月は首をまた振ってさっきからずっと苦笑いを崩さなかった。
「ごめんね、今日は帰ってほしいの。ちょっと一人で部屋で落ち着きたいの」

 僕と美月のあいだに気まずい沈黙が流れた。
 自分と美月がなにかをいうより先に陽菜が割って言った。
「奏は今日は帰んなよ。大丈夫、わたしもいるし、なんかあったら電話するからさ」
 僕は言いかけた言葉を飲み込んで、陽菜に言った。
「すまん」
「奏が謝ることじゃないよ」
 そう言ったのは美月の方だった。