3.
放課後。
美月から話があるといわれて、人がいなくなったあとの教室で待ちながら、僕は昼に校舎裏で陽菜と話したことをぼんやりと反芻していた。グラウンドからは運動部が一心不乱に迷うことなくボールを追いかけている声が響いていた。
将来か。
僕はそんな言葉を考える。
美月の将来、そして自分の将来、考えてみればそんなことをもう考える時期になっていて、そして今日まで考えていなかったのは遅かったのかもしれない。でもそれは美月も自分もある意味では仕方のないことだと思う。
美月にしてみれば、この一年は何年先の将来よりも、数ヶ月先、一月先、一週間先、明日のことを考える日々だった。それは必ずしも将来を悲観してとかそういう抽象的ではなく、具体的な生活のことだった。
では自分はどうだろう。
自分にしたって、それは同じだった。いつのことからか自分にとって未来のことを考えるというのは美月について考えることとほとんどイコールだった。それは美月の死がとても近づいていた時間ですらそうだった。美月がいなくなったあとのことなど考える発想すらなかった。
もし、いま。自分はふとそう思う。
もし、あのとき美月が蘇らなかったら、あのまま自分のもとを去っていたら、自分はそのあとどんなふうにして生きるつもりだったのだろう。
それは考えても仕方のないことだ。
美月は結果的に死ななかった。
彼女は蘇った。でも、もし……。
一生美月の側にいる。どういうわけだか今日はそういう言葉を口にすることが多かった。美月がこれからどんな状況になろうと、どんなことを選ぼうと自分はその選択を尊重して、その運命を見守る。助けてやるとか、導いてやるなんてそんなおこがましいことはとうてい自分には考えられない。
ただ自分ができることは側にいるだけ。
自分ができることはそれだけで、そして自分がしたいことはそれだけだ。それだけではダメなのだろうか。
それだけで良いのだろうか。
わからない。それで良いとか、それで悪いとかってなんなのだろう。
いや、やっぱりそれは良いとか悪いとかではないのだろう。
ただそう望むか望まないかだけだ。
退屈しのぎの思考はぐるぐると同じところを回っているだけだった。
美月も自分と同じだろうか。美月は自分の将来に何を望むだろう。
──お姉ちゃん、ピアノ辞めないよね。
陽菜の言葉が頭に響く。
美月はピアノを求めるだろうか。
あるいは自分が美月の側にいることを望むのと同じように、彼女もまたこれからずっと自分といることを望むだろうか。
わからない。そんなことわかるはずもない。
仮に、そう、仮に彼女が自分と共に生きることを選ばないのであれば、自分と生きることを望まないときが来るのであれば、そのとき自分はどうすればいいのだろう。
何を選択すれば良いのだろう。
美月の選択を尊重する、彼女の運命を見守る。そんなことが本当に自分にできるのだろうか。側にいて彼女を見守っていたい。
でも、それすら許されなければ?
わからない。どうすれば良いのだろう。そもそも美月は本当に自分のことが好きなのだろうか? というか、なぜ自分はそこを疑っていなかったのだろう。なぜ自分は今日までそのことを疑問に思っていなかったのだろう。
もう初夏だというのに、唐突に自分の指先が冷たくなるのを感じた。
自分は美月に好きと口にされたことがあったろうか。
「いやあ、本当は嫌いなんだよねえ」
「ひょわあん!」
教室の扉が唐突に開いた。美月だった。
「なに奏ってそんな声出るんだ? なんでそんなにびっくりしてんの? 放課後待っててっていったじゃん……」
「いや、ちょっと考えごとして気が抜けてたから……」
「そうだったんだ。あ、もしかしてこんな夕方に幽霊だと思ったとか? はっはっは、残念でした、美月ちゃんでした! 黄泉の国から月に代わってお仕置きよ!」
思わぬ声を出してしまったことを誤魔化すように僕は美月に突っ込んだ。これで誤魔化せるといいのだけど。
「いや、だからそれ、滑ってるって」
「滑ってないよ! 滑ってるといったら、さっきの奏の変声のほうがバナナの皮で滑ったみたいな……」
「えーと、美月、『本当は嫌い』ってなんのこと?」
驚き声のことにまた話題が及びそうになったので、僕は話を強引に逸らした。
「ん? あー、数学だよぉ。今日の補講! 『美月さんはいつも一生懸命で先生嬉しくなっちゃう、きっと数学もピアノと同じで美しく完全なものだから、美月さんも好きになれるのね、オホホホ』だって。そんなわけねえじゃん、ぜんぜん、わかんねえし、好きじゃねえよお、数学が美しい? 美しくねえよお、数学が完全でも、こっちの頭は完全じゃねえんだよお。ねえ、奏さあん、お願いいたしますから、これからもこの哀れなオンナに数字の交響曲を教えてくだせえ」
「あ、そういうことね。なるほど、オッケーオッケー、いつでも任せなさい」
「アレ? なんか今日は奏、妙に素直だな」
そうカナー、僕はいつでも純粋まっすぐ、素直な好青年ダヨー。
僕はなんとかそんなふざけた調子で誤魔化した。
「それで話ってなに?」
「あ、そうだった、ねえ、奏さあん、あなたはなにか大事なことを忘れていないでしょうか? とーっても、とーっても、大事なことですヨ」
美月はチッチッと顔の前で人差し指を振った。
なんだろう、僕は一生懸命、記憶のなかを探ってみたが、思い当たるものがまるでなかった。
「うーん、なんだろうな、大事なこと……大事なこと……。あ、美月、明日、また検査だから忘れないようにしろよ、明日の検査で問題なかったら、定期検査の回数減らせるんだろ?」
「あ、うーん、そんな水臭い話じゃなくてですね」
「水臭いって、大事なことだろ?」
「あ、はい、そうですね……、ってそうじゃなくて! もー、しょうがないなあ、はい、これ!」
美月はポケットから取り出した、ホウレンソウのゆるキャラがあしらわれた包装紙にラッピングされた手のひらに載るくらい箱を目の前に掲げた。
なんだっけ? このホウレンソウのキャラ?
あ、そうだ、最新の新型女子中学生のあいだでバズってるボケナス野菜のホウレンソウ君だ。
「ホウレンソウ君だね」
「いや、そこじゃなくて……このボケナス! プレゼントだよ! プレゼント!」
「なんで?」
「なんでって、奏、今日誕生日じゃん」
「あ! まあ誕生日なんて自分以外平日だから、忘れちゃうよなあ」
「奏……お前……、お前悲しいやつよノオ……」
美月はどうも僕の言葉を聞いて、わりと本気で悲しんでいるらしい。そしてちょっと怒った。
「コラ、自分を大事にできない人は他人も大事にできないんだぞ! ちゃんと他人を大事にせえ!」
僕は美月の言葉に、美月らしさを感じて笑った。
自分を大事にできない人は他人も大事にできないか。その月並みな言葉を自分ではなく他人に言う奴はいいやつだ。
「うん、まあとにかくありがとう」
僕はボケナス野菜のホウレンソウくんの箱を受け取った
「うむ。本当は奏のために一曲弾いてあげようかと思ったんだけど、やっぱりまだちょっと怖くて……」
ピアノのことだ。陽菜は美月が退院後にまだ一度もピアノを弾いていないと言っていた。陽菜はもしかしたら、美月がピアノに対する関心をなくしたんじゃないかと言っていたが、これを聞く限りどうにもそれは違っているようだった。
「まあ無理する必要もないだろ、そんな無理してやる演奏なんてなんの意味もないだろうし」
「うん、まあ、そうなんだけどね」
美月の症状がそもそも最初に発症したきっかけはピアノを弾いているときに感じた頭痛だった。それから演奏中の頭痛が酷くなって、そして入院という流れだった。美月がピアノを弾くのに抵抗感を感じるのは無理もない話だと思った。
「でも、やっぱりまた近いうちに再開するよ。怖いけど、弾きたくないわけじゃないし、ていうか弾きたいし、やっぱりわたし、ピアノ好きだもん」
「それは義務感とか惰性じゃなくて?」
わかりきったこと。僕はきっと美月がまっすぐ僕の大好きな彼女の瞳になって答えてくれることを期待して聞いた。
「うん。義務なんかじゃないよ。わたしが好きだから弾くの」
そうだ、この瞳だ。
この瞳が、この表情が、この声が、そしてその指先が自分は大好きなのだと僕は思った。
僕はそれを伝える。
「好きだよ、美月の演奏」
美月は僕の言葉に嬉しそうに、そして照れ臭さを隠すように大袈裟に笑った。
「へへん、知ってるよーだ」
それから、美月は僕に言った。
「奏もわたしのピアノ、これからもずっと一生隣りで聴いててね」
「約束する」
冗談、めかして答えようと思ったけど思いつかなくて、真っ直ぐな言葉になってしまった。でもたまにはそういうのもいいかなと思った。
「あらためて18歳のお誕生日おめでとう、奏。これからもよろしくね」
放課後。
美月から話があるといわれて、人がいなくなったあとの教室で待ちながら、僕は昼に校舎裏で陽菜と話したことをぼんやりと反芻していた。グラウンドからは運動部が一心不乱に迷うことなくボールを追いかけている声が響いていた。
将来か。
僕はそんな言葉を考える。
美月の将来、そして自分の将来、考えてみればそんなことをもう考える時期になっていて、そして今日まで考えていなかったのは遅かったのかもしれない。でもそれは美月も自分もある意味では仕方のないことだと思う。
美月にしてみれば、この一年は何年先の将来よりも、数ヶ月先、一月先、一週間先、明日のことを考える日々だった。それは必ずしも将来を悲観してとかそういう抽象的ではなく、具体的な生活のことだった。
では自分はどうだろう。
自分にしたって、それは同じだった。いつのことからか自分にとって未来のことを考えるというのは美月について考えることとほとんどイコールだった。それは美月の死がとても近づいていた時間ですらそうだった。美月がいなくなったあとのことなど考える発想すらなかった。
もし、いま。自分はふとそう思う。
もし、あのとき美月が蘇らなかったら、あのまま自分のもとを去っていたら、自分はそのあとどんなふうにして生きるつもりだったのだろう。
それは考えても仕方のないことだ。
美月は結果的に死ななかった。
彼女は蘇った。でも、もし……。
一生美月の側にいる。どういうわけだか今日はそういう言葉を口にすることが多かった。美月がこれからどんな状況になろうと、どんなことを選ぼうと自分はその選択を尊重して、その運命を見守る。助けてやるとか、導いてやるなんてそんなおこがましいことはとうてい自分には考えられない。
ただ自分ができることは側にいるだけ。
自分ができることはそれだけで、そして自分がしたいことはそれだけだ。それだけではダメなのだろうか。
それだけで良いのだろうか。
わからない。それで良いとか、それで悪いとかってなんなのだろう。
いや、やっぱりそれは良いとか悪いとかではないのだろう。
ただそう望むか望まないかだけだ。
退屈しのぎの思考はぐるぐると同じところを回っているだけだった。
美月も自分と同じだろうか。美月は自分の将来に何を望むだろう。
──お姉ちゃん、ピアノ辞めないよね。
陽菜の言葉が頭に響く。
美月はピアノを求めるだろうか。
あるいは自分が美月の側にいることを望むのと同じように、彼女もまたこれからずっと自分といることを望むだろうか。
わからない。そんなことわかるはずもない。
仮に、そう、仮に彼女が自分と共に生きることを選ばないのであれば、自分と生きることを望まないときが来るのであれば、そのとき自分はどうすればいいのだろう。
何を選択すれば良いのだろう。
美月の選択を尊重する、彼女の運命を見守る。そんなことが本当に自分にできるのだろうか。側にいて彼女を見守っていたい。
でも、それすら許されなければ?
わからない。どうすれば良いのだろう。そもそも美月は本当に自分のことが好きなのだろうか? というか、なぜ自分はそこを疑っていなかったのだろう。なぜ自分は今日までそのことを疑問に思っていなかったのだろう。
もう初夏だというのに、唐突に自分の指先が冷たくなるのを感じた。
自分は美月に好きと口にされたことがあったろうか。
「いやあ、本当は嫌いなんだよねえ」
「ひょわあん!」
教室の扉が唐突に開いた。美月だった。
「なに奏ってそんな声出るんだ? なんでそんなにびっくりしてんの? 放課後待っててっていったじゃん……」
「いや、ちょっと考えごとして気が抜けてたから……」
「そうだったんだ。あ、もしかしてこんな夕方に幽霊だと思ったとか? はっはっは、残念でした、美月ちゃんでした! 黄泉の国から月に代わってお仕置きよ!」
思わぬ声を出してしまったことを誤魔化すように僕は美月に突っ込んだ。これで誤魔化せるといいのだけど。
「いや、だからそれ、滑ってるって」
「滑ってないよ! 滑ってるといったら、さっきの奏の変声のほうがバナナの皮で滑ったみたいな……」
「えーと、美月、『本当は嫌い』ってなんのこと?」
驚き声のことにまた話題が及びそうになったので、僕は話を強引に逸らした。
「ん? あー、数学だよぉ。今日の補講! 『美月さんはいつも一生懸命で先生嬉しくなっちゃう、きっと数学もピアノと同じで美しく完全なものだから、美月さんも好きになれるのね、オホホホ』だって。そんなわけねえじゃん、ぜんぜん、わかんねえし、好きじゃねえよお、数学が美しい? 美しくねえよお、数学が完全でも、こっちの頭は完全じゃねえんだよお。ねえ、奏さあん、お願いいたしますから、これからもこの哀れなオンナに数字の交響曲を教えてくだせえ」
「あ、そういうことね。なるほど、オッケーオッケー、いつでも任せなさい」
「アレ? なんか今日は奏、妙に素直だな」
そうカナー、僕はいつでも純粋まっすぐ、素直な好青年ダヨー。
僕はなんとかそんなふざけた調子で誤魔化した。
「それで話ってなに?」
「あ、そうだった、ねえ、奏さあん、あなたはなにか大事なことを忘れていないでしょうか? とーっても、とーっても、大事なことですヨ」
美月はチッチッと顔の前で人差し指を振った。
なんだろう、僕は一生懸命、記憶のなかを探ってみたが、思い当たるものがまるでなかった。
「うーん、なんだろうな、大事なこと……大事なこと……。あ、美月、明日、また検査だから忘れないようにしろよ、明日の検査で問題なかったら、定期検査の回数減らせるんだろ?」
「あ、うーん、そんな水臭い話じゃなくてですね」
「水臭いって、大事なことだろ?」
「あ、はい、そうですね……、ってそうじゃなくて! もー、しょうがないなあ、はい、これ!」
美月はポケットから取り出した、ホウレンソウのゆるキャラがあしらわれた包装紙にラッピングされた手のひらに載るくらい箱を目の前に掲げた。
なんだっけ? このホウレンソウのキャラ?
あ、そうだ、最新の新型女子中学生のあいだでバズってるボケナス野菜のホウレンソウ君だ。
「ホウレンソウ君だね」
「いや、そこじゃなくて……このボケナス! プレゼントだよ! プレゼント!」
「なんで?」
「なんでって、奏、今日誕生日じゃん」
「あ! まあ誕生日なんて自分以外平日だから、忘れちゃうよなあ」
「奏……お前……、お前悲しいやつよノオ……」
美月はどうも僕の言葉を聞いて、わりと本気で悲しんでいるらしい。そしてちょっと怒った。
「コラ、自分を大事にできない人は他人も大事にできないんだぞ! ちゃんと他人を大事にせえ!」
僕は美月の言葉に、美月らしさを感じて笑った。
自分を大事にできない人は他人も大事にできないか。その月並みな言葉を自分ではなく他人に言う奴はいいやつだ。
「うん、まあとにかくありがとう」
僕はボケナス野菜のホウレンソウくんの箱を受け取った
「うむ。本当は奏のために一曲弾いてあげようかと思ったんだけど、やっぱりまだちょっと怖くて……」
ピアノのことだ。陽菜は美月が退院後にまだ一度もピアノを弾いていないと言っていた。陽菜はもしかしたら、美月がピアノに対する関心をなくしたんじゃないかと言っていたが、これを聞く限りどうにもそれは違っているようだった。
「まあ無理する必要もないだろ、そんな無理してやる演奏なんてなんの意味もないだろうし」
「うん、まあ、そうなんだけどね」
美月の症状がそもそも最初に発症したきっかけはピアノを弾いているときに感じた頭痛だった。それから演奏中の頭痛が酷くなって、そして入院という流れだった。美月がピアノを弾くのに抵抗感を感じるのは無理もない話だと思った。
「でも、やっぱりまた近いうちに再開するよ。怖いけど、弾きたくないわけじゃないし、ていうか弾きたいし、やっぱりわたし、ピアノ好きだもん」
「それは義務感とか惰性じゃなくて?」
わかりきったこと。僕はきっと美月がまっすぐ僕の大好きな彼女の瞳になって答えてくれることを期待して聞いた。
「うん。義務なんかじゃないよ。わたしが好きだから弾くの」
そうだ、この瞳だ。
この瞳が、この表情が、この声が、そしてその指先が自分は大好きなのだと僕は思った。
僕はそれを伝える。
「好きだよ、美月の演奏」
美月は僕の言葉に嬉しそうに、そして照れ臭さを隠すように大袈裟に笑った。
「へへん、知ってるよーだ」
それから、美月は僕に言った。
「奏もわたしのピアノ、これからもずっと一生隣りで聴いててね」
「約束する」
冗談、めかして答えようと思ったけど思いつかなくて、真っ直ぐな言葉になってしまった。でもたまにはそういうのもいいかなと思った。
「あらためて18歳のお誕生日おめでとう、奏。これからもよろしくね」