2.
 死んだ美月が蘇ってから、三日が経っていた。
 美月の心臓が一度心停止をして、再び鼓動を始めたのは実に一時間以上を過ぎてからのことだった。俊明さんはこれを計器類の間違いなどではなく心停止死亡後からの蘇生だとはっきりと断言した。
 僕はあのとき茫然自失としてほとんどなにも覚えていなかったが、俊明さんは、実際にあのとき呼吸の停止や瞳の対光反射がないことを確認して、娘の死亡宣告を自分の手でしたのだと言った。
──もちろん、心停止後に再び蘇生するということはあり得る。でも、それはごくごく限られた短い時間の話だよ。
 俊明さんは美月が検査のために病室にいないタイミングで僕に説明した。
──例えば心停止後3〜4分を過ぎると血流の停止で脳は重篤なダメージが生じ始める。5分を過ぎれば、回復不可能な状態が始まり脳は他の臓器への司令塔という神経系の役割を失う。それが始まれば死はもはやすぐそこだ。やがてさらに3分後には生存確率は限りなくゼロに近づく。ましてや一時間以上経って再び蘇生だなんて……。
 俊明さんは大袈裟に手を振った。
──ありえない。雪山での遭難で身体が極端に冷温などの仮死状態になっていれば、まだ科学的にはわかる。でもそういう状況じゃなかったろう。
 僕は美月が蘇生してからまだまとまな会話をしていなかった。美月は蘇生の直後は心ここにあらずといった感じで呆けていたが、だがそれも一日経って二日が過ぎ、目に正気が戻り、口は聞かずとも意思表示も行うようになっていた。
 俊明さんは言った。
──さっき心停止後の血流停止で脳は回復不能な状態になるといったね、しかしここ数日改めて美月の脳のMRIをとってみたが、やはりそれは心停止前の傷ひとつない綺麗なものだったよ。それどころか……。
 俊明さんは状況の急激な変化で喜びよりも驚きの方が勝っているようだった。
──脳波図やPET検査で見る限り、美月の脳波もドーパミンやセロトニンなどの脳内物質も症例発症前の正常な値に完全に戻っている。あの第六の波形が消えたんだ。
──それは、美月の病が治ったということなんですか?
 俊明さんは僕の問いに考えあぐねているようだったが、それでも医師として回答した。
──そうだね、少なくとも現時点ではそうだと言うべきだろう。
──俊明さん……、
 ぼくは話の最後にひとつ質問をしてみた。
──俊明さんは、今の美月の状態は医学的にあってはならないことだと考えていますか?
 俊明さんは僕の質問に少し虚をつかれたような表情をした。
 それからいつものように穏やかな微笑みを見せて答えた。
──娘が蘇って、それをあってはならないことだなんて父親として口が裂けても言う気にはなれないよ。
 それから翌日、美月は僕たちについにはっきりと言葉を返すようになった。
 美月は病室に入ってきた僕をみて、なぜだかきまづそうにしていた。
「えーと、奏サン?」
 僕も僕でどういうふうに美月に声をかければいいのかわからないような気がした。どうやら美月が言葉を取り戻したのと逆に僕は声を失ってしまったらしい。
 なにやらくすぐったいような沈黙が流れるような病室。
 美月は思い切って、僕に叫んだ。

「我は黄泉の国より生き返りし伝説のピアニスト、さあて月に代わってお仕置きよ!」
「うん、やっぱり幽霊じゃなくて本当に美月みたいだね」
「冷静にいうのはヤメテ! 滑ったみたいだから!」
 もう一度沈黙。
 しかし春は訪れようとしていた。やがてどちらともなくクツクツと声を噛み殺すような笑い声。最初はピアニッシモ、クレッシェンドで、やがてフォルテへ。僕たちはやがて二人で声を上げて、笑った。そして気がつけば、笑いはやがて涙に変わっていた。

「なんだよ……。蘇った第一声が盛大に滑ってるってなんだよ……」
 僕たちは病室のベッドのうえで泣き続けていた。

「うるさいなあ、うるさいなあ、だってなんていえばいいかわからなかったんだもん」

「それでも月に代わってお仕置きはないだろ」
 泣いたり、笑ったり、美月が入院するようになって、僕たちの日常にあった涙も笑いもそれはずいぶんとぎこちないものに変わってしまっていた。
 こんなふうに泣いたり、笑ったりしたのは本当に久しぶりな気がした。
 僕たちは今日までずっと悲しみを隠すように笑っていた。
 でもいまは嬉しくて、心から嬉しくて泣いている。
 そのことが嬉しかった。嬉しいことが嬉しかった。

「奏」

 彼女は僕の名前をそっと呼んだ。うん? 僕は応える。

「ただいま」

 おかえり、僕はそういう代わりにベッドに座る彼女の身体を強く抱きしめていた。