川のせせらぎに引き寄せられるように瞼を薄く開くと、その先にみえたのは夜空に無数に瞬く星たちだった。呼吸をするようにみえる星のひかりのゆらぎがあまりに綺麗で、それに触れたくなった。右手を持ち上げる。すると、着ていたブレザーが引き裂かれたように破れており、中から私の白い素肌がみえた。布地は真っ赤に染まっていた。あれ? と思う。私、赤い服なんか、とそこまで思いかけて、そもそもここは一体どこなんだろう? という疑問が芽生えた。

 寸前まで星をみていた窓は変な形をしている。それに、やけに狭くて身動きが取れない。身体には何かが覆いかぶさっている。この柔らかくて重たい布団を被っているせいだ、と引き剥がそうとしたが無理だった。私は一体なにをしていたのだろう。頭がぼんやりとしていた。夢から目覚めたばかりのような気だるさがある。目の奥がずしりと重い。記憶の糸は細かったけれど、私はそれが途切れないようにと、そっと手繰り寄せていった。やがて思い出す。加速していく車。皆の叫び声。私も、叫んでる。そして味わったことのない浮遊感。絶望。死ぬ、と思った。死を、人生で初めて近くに感じた。まるで壊れた街灯のように、私があの瞬間にみたものが、あの瞬間に感じたことが、何度も頭の中で残像のように浮かび上がっては消えていった。皆、と私は胸の中で叫び声をあげた。

 その瞬間、ずっと引き剥がそうとしていた布団のようなものに違和感を覚えた。私は咄嗟に動かせる範囲で身体の向きを変え、目を向けた。それは由奈だった。顔や身体、全てが赤く染まった由奈だった。

「いやっぁぁぁぁ、そんな、いや、由奈っ、由奈」

 身体を揺する。けれど、反応がない。私の胸の辺りに顔を埋めたままぴくりとも動かない。由奈の身体を揺する度に鉄を煮詰めたような香りが私の鼻腔をくすぐった。それが、車内にたちこめている。嘘だ。嫌。嫌。由奈、死んでる? その考えが芽を出してから、私は陸地に打ち上げられた魚のように身体を大きくバタつかせ、叫び声をあげた。

 なんで。なんでこんな事に。叫びながら、翔太が座っていた助手席の方にも目を向けていた。座席に翔太はいなかった。そこに座っていたはずの翔太の足だけがみえた。きっと、陸斗のいた運転席の方へと投げ出されたのだろう。車は恐らく片側だけが地面に接した状態で横転してしまっている。だから由奈や翔太が地面側にいる私や陸斗の方へと倒れてきているのも理解出来た。だけど、きっと、もう死んでいる。背中越しにずっと感じていたものが何かは少し前から気付いていた。ぬるりとした感触。身体を動かす度に纏わりついてくるようなこの感触は、きっと血だ。全員から流れ出た血液が、重力に従って地面側に溜まっている。私は、まさに血の海にこの身を預けているのだ。

 声が枯れるまで叫び続けた。その頃にはもう、なにも感じなくなっていた。心が壊れかけているのかもしれなかった。もう、いい。私もこのまま、と瞼を閉じようとした時だった。ひゅっ、という空気が抜けるような音が鼓膜に触れ、それから由奈の背中がまるで糸かなにかで天井から手繰り寄せられているかのように盛り上がった。この世に生まれて初めて肺に酸素を取り入れたかのような荒々しい息遣いをし、やがて咳き込み始めた。

「由奈っ」

 肩を揺すり、必死に声をかける。

「あれ……ここ、どこ?」

 私の胸のうえで、ゆっくりと顔をあげた由奈の姿をみて、私は決壊した。ほんとに良かったと何度も声をかける。由奈に車がガードレールから落ちたことを説明してあげよう、と思った時、再びひゅっという息が漏れるような声が鼓膜に触れた。今度は二つだった。

「陸斗っ! 翔太っ! 聴こえる? 大丈夫?」

 私は運転席の方へと顔を向けながら言った。由奈が身体に覆いかぶさっている為、身動きはまだ取れない。

「……なんだこれ。俺は大丈夫だ。翔太も、とりあえずは、生きて、る」

 何度も咳き込みながらも、陸斗が声をあげる。安堵した。本当に、心から、安堵というその言葉が、濁流のように胸の中を押し寄せていった。それまで満たしていた恐怖や絶望といったものが、一瞬にして押し流されていく。

「私達、ガードレールから落ちたみたいなの。たぶんそれで車が横転してるんだと思う」

 皆より先に意識が戻っていた私が状況を教えてあげると、全員が言葉を(つぐ)んだ。きっと、記憶を手繰り寄せているのだろう。私もそうだった。

「そうだ……由奈、ガードレールから落ちたんだ」

 私の胸の上で由奈がぽつりぽつりと呟いている。大丈夫、もう大丈夫だから、と私は由奈の頭を撫でてあげた。髪は血を吸っているのかぎしっとした感触で束になっていた。

「ねぇ、これ窓から出るのは無理だと思うから向こう側に体重かけて地面に倒せないかな?」

 運転席にいる陸斗と翔太にそう声をかけた。

「いくぞ」

 陸斗の声を合図に、全員で反対側の地面に向けて体重をかけた。車はぎしぎしっと音を立てながら傾いていき、ようやく両輪が地面についた。

「大丈夫か?」

 ようやく外に出れた解放感から草が生い茂る地面に背を預けていた私と由奈の元へと陸斗が駆けよってくる。その顔がぐにゃりと歪んでいた。何度も何度も頭を下げてくる。

「ほんとにごめん……俺がちゃんと前を見てなかったら」
「大丈夫。とりあえずは全員無事に生きてるんだから」

 私がそう声をかけると、大きな石に腰掛けていた翔太が「そうだよ。あの時、全員が星雲に目を奪われてた。誰か一人でもちゃんと前を向いていたらこんな事にはなってなかったんだし、陸斗だけのせいじゃない」と言った。

 そうだ。私達はあの時、夜空にみえた星雲があまりにも美しくて、見とれてしまっていた。確かに運転していたのは陸斗だけれど、全ての責任を陸斗に押し付けるのは違う気がした。目が覚めてからずっと聴こえている川のせせらぎが綺麗だった。近くで川が流れているのかもしれない。

「……でも、でも、お前らにそんな怪我を負わせてしまったことが本当に申し訳なくて。俺、もう、どうしたらいいのか」

 顔を俯けた陸斗をみながら、確かにそうだと思った。死んでしまったと思っていた由奈や陸斗、翔太が生きていたと分かり、完全に意識の外側へと追いやってしまっていたが、車内はまさに血の海だった。あれだけの血が出て、とても無事でいられるとは思えない。

「由奈っ! 怪我は?」

 少なくとも私の身体に痛みは無かった。だとしたら、私の身体中についていた血液は他の三人のものだ。

「由奈は別にどこも痛くないからたぶん大丈夫だと思う」

 私はその言葉を受け、目の前にいた陸斗の元へと駆けよった。肩から腕にかけて制服が裂けてはいるが怪我は無い。それは、私や由奈も同じで、由奈にいたっては脇腹からおへその辺りにかけての制服が破れて下着すらみえてしまっていたが、どこにも怪我は無さそうだった。

「俺もどこにも怪我はないよ」

 私が翔太に目を向けるより早く、翔太はそう言った。顔をあげ、ぼんやりと星空を眺めている。

「嘘だ……ろ? じゃあ車や俺の服についてる血は誰の血なんだよ? なあ、もし俺に責任を感じさせないように傷を隠してるならやめてくれよ? 何かあってからじゃ遅いし、俺はちゃんと罪を償うから今すぐに救急車を呼ぼう」

 陸斗が立ち上がり、私達全員に目を配る。だが、誰も傷があるとは声を上げなかった。

「おい! 頼むから」

 陸斗が悲痛に歪んだ表情を浮かべた時、翔太が「たぶん」と声を上げた。

「誰も傷があることを隠してない。あれだけの血だよ? 人間の身体には4リットルくらいしか血液がない。その半分でも失えば、傷を隠すうんぬんの話じゃないよ。その前に死に至ってるから。車内にあった血はその致死量をゆうに超えてると思う」

 全員が言葉を失った。川のせせらぎだけがやけに大きくなって私達の鼓膜を震わせていた中、翔太が「それに」と続ける。

「おかしなことがもう一つある。最初は俺だけなのかと思ってた。でも、皆が当たり前のように話している姿をみて気付いた。周りを見渡してみてよ」

 言わるがまま、周りを見渡す。天高くそびえる木々がぽつぽつと生えてはいるが、この辺りは開けていた。足元には膝下程の草が生えており、大小様々な石が落ちている。私達の背にはそれまで乗っていた原型を留めていない車と傾斜の高い山があり、そして頭上には無数の星が瞬く夜空がある。

「今は夜だよ。周りには何もひかりがない。なのに、どうして俺たちは見えるんだ?」

 翔太の放ったその言葉が、何度も頭の中で反芻(はんすう)された。