夜が明けた頃には、私達は波しぶきをあけながら進む船の上にいた。駅や空港を使うと、不特定多数の目に触れる為に避けましょう、という先生の提案だった。私自身、そうする他ないと思っていた。この世界で死んだことになっているのは私だけではない。先生もそうだった。たとえば高校時代の友人に、たとえば家族や親戚に、万が一出くわしてしまうようなことがあれば混乱は避けられない。その確率を少しでも下げる為にはこうするしかなかった。

 船は地鳴りのような轟音をあげながら水平線の向こうへと突き進んでいく。頭上では触れただげで割れてしまいそうな程に透き通る空を、海鳥たちが飄々(ひょうひょう)と飛んでいる。

「先生、鳥になりたいって思ったことありませんか?」

 船のデッキの上で、手すりに腕を預けていた私はそれをみながら言った。隣に立つ先生は「鳥、ですか」と眼鏡を指先で持ち上げた。

「ええ、鳥です。好きな時に好きな場所にいけて、逃げたい時はああやって大空に羽ばたけばいい。この世界で生きる全ての生物の中で本当の自由を知ってるのって私は鳥だと思うんです」
「天使ではなく、鳥なんですね」
「はい、天使ではありません」

 言い切ると、潮風に溶けるような微かな声だったが、先生が笑ったような気がした。ちらりと目をやると穏やかな笑みを浮かべていた。先生の着ている青いシャツと私のベージュのワンピースが風を受けて膨らんでいる。

「そろそろ部屋に戻りましょうか。ここは冷えます」

 先生が手すりから手を離し踵を返したのをみて、私も歩みを進めた。デッキから客室へと繋がる扉に先生が手をかけた時だった。

「美月さん」

 ドアノブに手をかけたまま、ぴたりと動きを止めた先生の背に「はい」と声をかけた。

「僕もそうかもしれません。僕の肉体にあれが宿ったのは、君たち四人に宿った時よりも随分前でしたが、もしあれが天使ではなく鳥だったら。そう考えたら、尚更天使を呪いたくなりました。僕たちは不完全な生き物です。普通の人からしてみれば、もしかしたら羨望(せんぼう)の眼差しを受けるような肉体を持っているのかもしれない。きっとこの苦しみは、翼を持たずして再びこの世に産み落とされた僕たちにしか分からないのだと思います。だからこそ、今回のような不測の事態が起きた時は僕たちで助け合いましょう。生きる為に。幸せである為に」

 ドアを引き、廊下を歩み進めた先生の背に再び「はい」と声をかけた。今度は感謝の意を込めて。

 私達の乗る船は、宮崎県から兵庫県の神戸市へと向かっていた。二日前、緊急時の電話を私から受けた先生は、日本各地に散らばっていた当時の私の高校の友人たちに私の身に起きた事情を連絡していたのだという。由奈は岐阜県に、翔太は岡山県に、それから陸斗は秋田県に、それぞれがこの十五年もの間、日本各地に散り散りになり身を潜めていた。住んでいる場所は異なるけれど、先生と私を含めた全員がこの世界では死んでることになっている。

 連絡が取れたのは由奈と翔太だけで、陸斗とは連絡がつかなかった。そのうえ、先生が仕入れた情報によると潜伏場所を秋田県から私達が生まれ育った東京都へと移しているらしく、陸斗以外の四人で一度中間地点として兵庫県の神戸市に集まり、それから夜行バスに乗って東京へと向かおうという計画だった。

 船に乗る前、このような計画でいこうと思っています、と先生から告げられて、私は久しぶりに皆と会えることがあまりにも嬉しくて泣き崩れてしまった。一年に一度の定期連絡の時に皆が元気で生きているという話だけは先生から聞いていたが、具体的には知らない。最後に会ったのは、高校三年の冬の終わりだった。

 十五年。あまりにも長すぎた。皆、どんな人生を送っていたのだろう。当時の友人たちの顔を思い浮かべていると、赤い絨毯が敷かれた船の廊下を歩く先生の後ろ姿が途端に懐かしいものに思えて、それが私の頭の中にある記憶の海に波紋を落とした。