指先に触れる風がひやりとつめたい。鼻腔へと運ばれてる風は、直線的な甘い匂いがした。通りの向こうにあるガラス張りのおしゃれな雑貨屋さんの傍らで、金色のちいさな花弁がひっそりと咲いている。金木犀だった。秋を告げる花。あと数ヶ月で私の好きな冬が訪れる。

「ねぇ陸斗、さっきから私の隣にいるおじさんが近いんだけど」

 私の隣を歩く由奈がぽつりと呟く。陸斗が「由奈のことが好きなんじゃねぇの」と笑うと、「ぶっ飛ばすよ」と睨みつけている。いつものじゃれ合いをみていた先生が「二人とも、もう少し緊張感を持ったらどうですか」と呆れたように笑みを浮かべると、翔太もつられるように笑った。

「命令は、俺たちを囲みながら笑顔で話し続けて、としか言ってないんだけどな」

 先程みたおしゃれな雑貨屋の前を通り過ぎ、交差点に差し掛かったところで陸斗が言った。目の前の信号は赤い光を放っており足を止めると、私たちを取り囲むようにして十五人程の男女が見ず知らずの相手と笑顔で話してる。陸斗の能力によるものだった。監視カメラから逃れる為のカモフラージュだ。

 あれから一年が経っていた。私達は獏さんのおかげで窮地を脱し、それから沖縄県にある小浜島という名の離島へと渡った。コバルトブルーの海に囲まれた人工数百人程のちいさな島で、私達は南国の空気に溶け込むように一年程身を隠していた。だが、それは昨日までのことだ。信号が青に変わる。周りにいる十五の男女と一緒に一斉に歩きだす。車道の標識には六本木という文字が刻まれている。私達は再び東京に戻ってきたのだ。それは獏さんを救うだった。あの日以来獏さんとの連絡が途絶えた。私は天使を探知出来るようになった為、まだ生きている事は分かっていた。獏さんには助けて貰った恩がある。今度は、私達がそれを返す番だ。

「みえてきたよ」

 翔太が指をさす先には、天まで届きそうな程に高いガラス張りの高層ビルが立ち並んでいる。

「テレビ局を襲うって俺たち立派な犯罪者だな」

 その言葉とは裏腹に陸斗は楽しげに笑った。

「仕方ありません。今回の計画は全て獏さんの為です。ひいては僕たちの為でもありますから」

 獏さんは恐らく奴らに捕まっている。だが、この一年探り続けてはいたが、その居所を掴むことが出来なかった。奴らは元々幽霊のようなものだ。それは当然なのかもしれない。だからこそ、私達は事前にある動画を作成し、テレビでも放映させることにより私達が天使であるということを自ら名乗り出ることに決めた。姿がみえないのなら、姿を現すようにこっちから餌を差し出してやろうという計画だった。奴らの動きが大胆になれば、それが獏さんを見つけ出す糸口になるかもしれない。

「陸斗くん」

 先生が呼びかけると、陸斗の目が青く染まる。目的のビルは目の前に差し掛かっていた。周りにいた十五人の男女が一斉に私達を追い抜き、ビルの中へと足を踏み入れていく。私達もそれから少し遅れて中へと入った。周りをガラス窓に囲まれた天井の高い空間が目の前に広がる。正面には受付のカウンターがあり、その奥には通行ゲートがみえる。傍には警備員が二人立っていた。その二人に向かって十五人が一斉に駆け出した。警備員はすぐに身構えたが敵意はないと感じたのか、すぐに身体を緩める。だが、一斉に話しかけられ慌てふためいていた。

 フロアには多くの人がいた。スーツ姿のサラリーマンや女性、ソファに腰掛けている綺麗な女性の周りを取り囲む男性たち。皆の視線が一斉にゲートに向けられた。その隙に私達は非常階段の方へと向かった。扉は施錠されていたが、先生がその鍵穴に穴を空けた。翔太の透過の力があればこんな手間をかける必要はなかったが、あの日以来天使の魂が抜け落ちた翔太はそれを失ってしまった。それが、再びこの世に息を吹き返す為の代償だったのかもしれない。階段を駆け上がり、十階で由奈と陸斗とは別れた。

「合図を待って下さい」

 先生がそう声を掛けると、由奈は「おっけ」と微笑んだ。通路を通り抜けエレベーターの前に辿り着くと、その向かいの壁は番組のポスターで埋め尽くされていた。一人、また一人と、エレベーターが待つ人が増えていく。私と翔太と先生を入れて、八人になった。先生が「怪我をしないといいですが」とため息をつく。

「沙結さん」

 その瞬間、私の目は青く染まる。周りにいた五人はばたばたとまるで魂を引き抜かれたかのように倒れていった。全員が寝息を立てている。1/fゆらぎという人をリラックスさせる周波数がある。小鳥のさえずりや、川のせせらぎ、焚き火の音。それらの音は脳に直接作用し、人の心を落ち着かせる。その周波数と映像とを組み合わせ、極限まで幻覚の濃度をあげると、人を一瞬にして眠りにつかせることが出来るという事はこの一年で分かった。私達はこの一年の間ただ身を隠していた訳では無かった。いつ奴らに襲われても問題がないようにと先生の元でひたすらに訓練をし、それぞれの天使の能力は飛躍的に上がったのだ。

 エレベーターに乗り二十三階で降りる。通路を抜けた先にある、白い扉の前には何人か立っていた。全員を眠らせる。扉を開くと、すぐ先にもう一つ扉がありその真上には赤い文字で〈ON AIR〉と表記されている。ドアノブをゆっくりと回すと、薄暗い部屋の中には数十人の大人たちがいた。そのうちの半分を眠らせる。

「なんだ、誰だお前」

 首から何やらカードのようなものを下げている男性が眉間に皺を寄せながら、私たちを睨みつけた。

「落ち着いて下さい」
「あんたら、一般人じゃないのか。どうやってここに入ってきた。おい、通報しろ」

 部屋の中には黒い機械がぎっしりと並んでおり男性たちがその手前に腰掛けている。そのうちの一人が咄嗟に身体を動かそうとした瞬間、私は右手を持ち上げた。

「か、身体が、動か、ない」

 目を剥きながら男性がそう言った。青いポロシャツに口の周りには髭をたくわえている年配の男性。他の人達は髪型といい服装といい今風の感じがしたのに、その男性だけがテレビや小説でよくみるような、いかにもテレビ局のスタッフだというような風貌だった。

大谷省吾(おおたにしょうご)さん」

 先生がその男性に呼び掛ける。

「どうして、俺の名を」
「調べはついてます。あなたは今そこでやっているNEWS6のディレクターをされていますよね」

 問い掛けられ、男性は曖昧に頷いた。黒い機械の向こうはガラス張りになっており、真下が覗ける。茶色の長いカウンターに座る男性と女性が、カメラに向かって笑みを向けている。

「何なんだお前たち」

 私達には一年という期間があった。獏さんの居所を掴むことが出来ないならば、とすぐに今回の計画へと移行することに決めた。そして、私達は獏さんの娘さんたちの力を頼り、このテレビ局に関するありとあらゆる情報を調べて貰った。ビルの設計図から、非常時におけるマニュアル、番組関係者の名簿、それから家族構成に至るまで全てを把握していた。

「僕たちは、天使です」

 男性が目を見開いたが、先生は構わず続ける。

「今この瞬間も僕たちはある組織に命を狙われています。ただ、普通に生きていたいだけなのに、それすらも奪われようとしています。この事実を世界中の人たちに知って欲しいのです。お願いします、報道して頂けないでしょうか。僕たちはあなた方の報道に対する姿勢に感銘を受けました」

 聞きながら、私の頭の中では波の音がゆっくりと広がっていった。今から半年程前、私達は海沿いにあるちいさなコテージにいた。目の前にはコバルトブルーの海が広がり、木製のテーブルを囲むようにして私達は腰掛けていた。テーブルの上には幾つもの紙が広げられている。どの番組に私達の作成した動画を放送してもらうか。それの候補は六つあったが、先生は迷うことなく一枚の紙をひらりと持ち上げる。

──この番組しかないですね。忖度も、権力に屈することもない。きっと彼が、僕たちの救世主になります。

 先生が指をさす先には一枚の写真があった。今、私達が話しかけている大谷省吾という名の男性だった。一年程前、ある国会議員が児童買春をしているという疑惑が持ち上がった。被害者は数十人にも及ぶと記事は書き立てたが、検察はその国会議員を不起訴処分とし、どのニュース番組もその疑惑すら追及することは無かった。もしかしたら各テレビ局自体に圧力や忖度があったのかもしれなかった。けれど、彼がディレクターを務めるそのニュース番組だけは真相を追いかけ続けた。

「すぐに受け入れられるような話ではない事は分かっています。頭がおかしい人間だと思われても仕方がないことも分かっています。なので、僕の目をみて下さい。これが、嘘をついている人間の目にみえますか? 頭のおかしい人間にみえますか? 沙結さん、彼の幻覚をといて下さい」

 言われるがままに幻覚をといた。男性は身体の自由を確認するかのようにゆっくりと腕を持ち上げた。

「今あなたに体験して頂いたように僕たちは普通の人間ではありません。あなたの肉体を操り、僕たちの意のままに動かすことなど造作もありません。でも、出来ればそれはしたくない。僕は、報道の力を信じています」

 先生は胸ポケットからテープを二つ取り出した。

「この内の一つには僕たちがこれまで経験してきた全てと証拠をまとめています。僕たちの名前を少し調べれば十六年前に既に死亡しているという事はすぐに分かると思います。まずは、そこから調べて下さい。神戸のホテルでの銃撃事件や横浜でのそれも事実とは違いますが報道はされていたので、それらと僕たちを紐づけることは容易に出来るはずです。それからもう一つのテープには僕たちがある組織に対する宣戦布告と自由を求める動画のデータが入っています。これを、あなた方の番組で放送して欲しいのです。どうかお願いします」

 先生が深々と頭を下げたのをみて、私も翔太も頭を下げた。男性は躊躇いながらも、それを受け取ってくれた。その瞳に恐れはなかったように思う。むしろ、ちいさな、ほんのちいさな変化かもしれないが、男性の心が微かに波打ったように感じた。先生も同じことを感じたようだった。胸ポケットから携帯を取り出す。指を滑らせ、耳に押し当てた。

「由奈さん、今です」

 数秒後には火災報知器が鳴り響き、無数の人間の階段を駆け下りていく音が続いた。

「どうか宜しくお願いします」

 先生と共に頭を下げ、部屋をあとにした。

「うまくいきますかね?」

 廊下を走る無数の人の流れに乗りながら、翔太が問い掛ける。先生は足を動かしながら「今は、彼を信じるしかありません」と眼鏡を持ち上げた。

「うまくいきますよ」

 二人のやり取りに割って入ると、先生と翔太は目を丸くした。

「きっとうまくいきます」

 根拠も理由もなかった。それは私自身のただの願望なのかもしれなかった。でも、私には何か予感めいたものがあったのだ。これをきっかけに何かが変わる。きっと。