薄く瞼を開くと、由奈の顔がみえた。膝の上に私の頭を乗せてくれているようだった。頬に手が添えられている。咄嗟に身体を起こすと、廃工場は四隅の支柱と壁だけを残し、入り口からその奥に至るまでの空間は何も無くなっており、トンネルのようになっていた。

「先生と陸斗は?」

 私が視線を彷徨わせていると、由奈が指を指す。二人は壁にもたれかかり微かに動いているのが遠くからでもみえた。良かった、と胸を撫で下ろしたのも束の間、私はすぐに翔太の元へと駆け寄った。翔太の顔の左側がうっすらと白く染められていた。夜が明けたようだった。

「全部思い出したようだね」

 その声に振り返ると、錆び付いたコンテナの隙間からぬるっと獏さんが姿を現した。黒のタンクトップに黒のジーンズ、肩で切り添えられた綺麗な白髪が陽の光を弾いていた。

「獏さん、私」
「そうだ。あんたは、東堂沙結でありながらアメリアでもある」

 アメリアさんは触れたもの全てを灰に変える能力があったと以前獏さんが言っていた。私はその能力を父に使っていた。ついさっきもそうだ。

「どういう、ことですか」
「まず、あんたには三つの人格があることを話さないとね」

 獏さんは薄く微笑みながらゆっくりと話してくれた。星雲をみたあの日、私の肉体に入り込んだ魂はアメリアさんが千年もの間肉体に宿していた最初の天使であるということ。そして、私は生きていることを隠す為に宮崎に移り住んだが、当時の私の心はあまりにも弱すぎたということ。

「あんたは家族と友達と突然別れ、そこで眠っている青木翔太にも約束を破られたことが辛くて仕方が無かったんだろう?」

 問い掛けられ、ちいさく頷いた。あの当時の私は孤独に苛まれ、未来を思い描くことすら出来ないことにより、暗い暗い夜の海を手探りで泳いでいるかのような心地で生きていた。

「孤独があんたの心を殺したんだ」
「……孤独」
「そう。人間の感情で唯一、心の息の根を止めることが出来るもの。怒りや苦しみ、それから悲しみと孤独。それらを一括りにして人は負の感情と呼ぶけけれど、そのどれよりも重く心にのしかかるのが孤独だ。あんたはそれに耐えきれなかった。おまけに満から言われて天使の能力を鍛錬する為に自分に幻覚をかけていただろう? その過程であんたは自分とは別の、もう一つの人格を作り出した。それに、それよりも不運な事はあんたの肉体に入り込んだのが、最初の天使であるということ。そいつはね、どの天使よりも魂も能力も強く、弱りきったあんたの肉体なんて一瞬にして奪えただろうよ」
「じゃあ、どうして」

 思わず、問い掛けた。獏さんは「理由は二つある」と指を二本突き出した。

「天使は気まぐれで残酷だ。一瞬にしてあんたの肉体を奪うのは面白くないとでも感じたんじゃないのかい?」

 そこで獏さんは声を上げて笑った。

「そしてもう一つは、アメリアのおかげだ。不幸中の幸いというのかな。あんたの肉体に宿った最初の天使の魂の中にはアメリアの意識も溶け込んでいた。千年も人生を共にしたんだ、何も不思議なことじゃない。アメリアは当時のあんたと死ぬ間際の自分とを強く重ね合わせたそうだ」
「話したんですか?」

 問い掛けると、獏さんはなんてことない表情で「ああ」と言った。

「あたしの店に初めてきたのは満と一緒に来た時だと思ってるだろ?」
「はい」
「でも、実際はその二ヶ月前に一人で来てる」

 えっ、と声をあげながらも先生と一緒に獏さんの店に訪れた時、違和感を感じたことを思い出した。獏さんは名前を聞く前なら私の名を呼び、それに、と当時のことを思い浮かべる。

──生搾りのオレンジジュース、好きでしょ?

 私の好きな飲みものをぴたりと当てた。

──階段の幅が狭すぎて転んでしまいそうだったから手すりに手を沿わせた

 私の手のひらが汚れていた時にも、次に繋げようと思った言葉を獏さんは私より先に繋げ、「学習しないのね」と薄く笑みを浮かべていた。まるで以前にも同じことがあったかのように。

「アメリアはね、何よりも天使を探知する力に長けていた。満や他の天使たち、このあたしもそう。この世に再び生まれ落ちたあたしたちを見つけてくれたのは、いつだってアメリアだった。あんたの中には自分とは別のもう一つの人格があった。それが不幸中の幸いだったんだろうよ。アメリアは意識としてその人格に入り込み自由自在に操った。あんたの肉体で初めてアメリアが店にきた時、そりゃ驚いたよ。それと同時に胸が引き裂かれそうになった。千年という長い時を生き、ようやくあたしと満を庇い死に場所をみつけたのに、その百年後にまた地上に戻ってくるなんて」

 獏さんはひどく悲しそうに目を細めた。だが、それにふっとひかりが帯びる。

「でも、あいつはこう言ったんだ。まだ数十年しか生きてないこの子が、あの時の私と同じ気持ちでいるなんて耐えられない。この子を救ってあげたいって」

 聞きながら、私は思わず胸に手を添えた。

「アメリアはあんたの肉体が天使に呑まれかけている事も気づいていた。だからそれを教師である満に気づかせる為に計画を立てた。生きていることを隠しているあんたの元へと、その秘密を知っていると手紙を書けばきっと助けを求めるって」
「……手紙」
「そうだ。あの手紙はアメリアが書いた。あんたの両親に会いに行ったのもそう。十五年も行方をくらませてる娘の顔を両親にみせてあげようと思ったそうだ。でも、父親は病気だった」
「その記憶もみました」
「手紙は一通で終わるはずだった。だが、そこにいる青木翔太の裏切りに気づいてしまった。だから、二通目にはわざと身内しか知らない内容を書き、あぶり出すように仕向けたんだ」

 私の中でようやく全てが繋がった気がした。でも、一つだけ腑に落ちない事があった。

「アメリアさんはどうして先生に直接言わなかったんですか?」

 問い掛けると、両手をひらりと広げた。

「一つはアメリアの意識が強すぎるから。千年も最初の天使と生き続けてきたんだ。あいつは美しくもあり、強大な力を持ってた。あんたの肉体の主導権を奪い続けるという事は、あんたの意識そのものを殺しかねない。だから、アメリアがあんたの肉体に入り込んだのはほんの数回のはずだよ。あんたの記憶が飛んでる大抵の理由は、天使の人格自体に乗っ取られてるからだ。あと、アメリアは満に合わせる顔がないからだとさ」
「先生に」
「ああ、二人で交わした約束を破り自分だけが先に死んでしまったことに罪悪感を感じてるんだと」

 私の中には天使を含め三つの人格があり、だから私の記憶は時折飛ぶ。私の中でまだアメリアさんは一つの人格として生きていて、天使に呑まれないようにと守ってくれていた。ぼんやりと考えると地面が擦れる足音が二つ鼓膜に触れた。先生と陸斗だった。

「ば、くさん、さっきアメリアが」

 先生は獏さんをみるなり、胸元に手をかけた。獏さんはちいさく頷き、顎をしゃくった。その先には私がいる。

「え、どういう」

 戸惑いを隠せずにいた先生に獏さんが説明する。全てを聞き終えたあと、先生は目頭を抑えた。

「ごめんなさい」

 みながら頭を下げると、先生がふっと顔をあげる。

「どうして君が謝るんです」
「だって、先生はアメリアさんがまだ生きてると信じてたんじゃないですか?」

 これはずっと思っていたことだった。先生はきっと、今でも。先生は一瞬目を見開いたがそれから緩やかかに微笑んだ。

「ええ。信じてました。でも、いいんです。今この瞬間も君の中で生きていてくれるなら、それでいい」

 先生は、私の胸の、更にその奥をみているかのようだった。そうか、とふいに声を上げた。

「君たちが事故に遭い、天使になった日のことを覚えていますか?」
「はい」

 忘れる訳が無かった。恐怖と絶望。初めて死というものを近くで感じた日。

「僕には天使を探知する力がありません。でも、あの日は違った。仕事から帰宅し家に帰ると、頭の中で声がしたんです。私をみつけて、と。僕はその声に導かれるように山道に車を走らせた。その先に君たちが」

 懐かしむように空を見上げ、「あの時に僕を呼んだのは君だったんですね」とぽつりと呟いたその瞬間、銃声が鼓膜に触れた。咄嗟に目を向けると、廃工場の屋上に六から七人の男たちがいた。

「どうやら応援を呼ばれていたみたいだね」

 獏さんの送る視線の先は、屋上では無かった。私が空けた大きな一階の穴から少なくとも銃を手にした男や黒いコートを羽織った男たちがなだれ込んできていた。全部で二十人はいる。

「もう時間がないね。さっさと済ませてしまおう」

 獏さんは銃を恐れる様子は一切無く、ゆっくりと歩みを進めた。すぐにけたたましい銃声が鼓膜に触れる。奴らは確かに銃を撃っていた。だが、その銃弾は獏さんの身体に触れる少し手前で、まるでそれに自我があるかのように空の方へと向きを変えた。運を吸い取り、与えることも出来る。それが獏さんの能力。これは自分にその運を使っているという事だろうか。足を止めた先には翔太がいた。沙結ちゃん、と久しぶりに名を呼ばれる。

「血は飲ませたんだろ?」
「えっ、はい」
「どうやら適合しなかったみたいね。あたしの能力を使うから、この子にもう一度血を飲ませてやってくれるかい?」

 促され、近くに落ちていたガラス片を手に取ると、「一滴でいいよ」と笑みを向けられる。腕を切り、そこから滴った血液を翔太の口元へと運んだ。獏さんはそれを見届けてから、私と翔太の肩に手を置いた。ふわりと温かくなる。

「今、沙結ちゃんとこの子の肉体にありったけの運を流し込んだ」

 そう呟いた瞬間、翔太が大きく咳き込みながら息を吹き返した。私は一瞬にして決壊した。目の淵から零れ落ちた涙が頬を伝い、翔太の服を濡らした。

「ここから逃げな」

 えっ、と戸惑う私に「大量の運があんたの身体には今流れてるからすぐに逃げられるよ」と笑う。それから続けた。

「あたしはね、ずっと後悔してたんだ。どうしてあの時、自分だけ逃げ出すような選択を選んだんだって。それに、アメリアにも頼まれたんだ。もしもの時はこの子をお願いって」

 あっ、と思う。獏さんの店で私が目が覚めた時のことだった。

──ああ、アメリア。あんたの頼みなら。

 獏さんは私の目をみながらそう言っていた。けれど、当時の私は意識が戻ったばかりで混濁していたこともあり、聞き間違えかと思ってた。

「あたしは借りを作られるのが嫌いでね、ようやくそれを返せるよ」
「獏さん、駄目です」

 振り返ると、先生がこちらに向かって歩いてきていた。

「あの人数ですよ? 死ぬつもりですか? 全員でやりましょう」

 真っ直ぐにみつめられ獏さんは鼻で笑った。

「その血塗れのボロボロの分際で何を言ってるだい。工藤は死んだかもしれないが、師団長は少なくともあと五人はいる。もしそいつらが今から出てきてもやれんのかい? あんた達はもう、誰一人として戦う力なんか残っていないだろ? あたしたちの肉体が疲弊することはなくても天使の能力はちゃんと疲弊していくんだ」

 遠くの方から車のエンジン音が聴こえた。次第に近付いてきている気がする。それに、と獏さんは先生の胸を軽く叩いた。

「あんたの為に死ぬつもりなんて毛頭ないよ。あたしが死ぬとしたら、娘たちの為か名誉ある死の為だけだ。娘たちはもうすでに国外に逃がしてある。だから行きな。ほら、お迎えが来たよ」

 コンテナの間をすり抜けるようにして灰色のワゴン車が私達の前に止まった。窓がゆっくりと降り、中から年配の男性が早く乗るようにと、促してくる。「僕はあなた方を車に乗せなさいとお導きにあって」とぶつぶつと呟きながら、ドアを開けた。銃声の勢いが途端に増したが、私達の身体や車には一発も当たっていない。全てが打ち上げられた花火のように空へと舞い上がっていく。

「早くしな! いつまでも守ってやることは出来ない。そこにあんた達にいられるとあたしの運が減る一方だ」

 獏さんの放ったその言葉に陸斗が翔太に肩を貸し車に乗せた。次いで由奈も乗り込んだ。それを見届けてから先生が「獏さん」と呼び掛けた。

「あの日のことを後悔しているのなら、置いていかれた者の気持ちも分かるはずです。死んだら絶対に許しません」
「言うね。若造が偉そうに」

 ぼつりとそう呟いて、獏さんは歩みを進めた。その背に私も声をかけた。

「獏さん! 私からもお願いします。絶対にまた会えるって約束して下さい! アメリアさんだって、きっとそれを願っています」

 獏さんは私の声を背中で受け止め、ひらりと腕を持ち上げた。凄まじい銃弾の雨が降り注いでいた。だが、黒のタンクトップから伸びる太い腕には傷一つついてない。肩までかかる白い髪が、歩く度に揺れている。

「天使一人相手に、一体何人ががりなんだい?」

 獏さんは両腕を広げた。

「数で圧倒しようってかい? 一つ教えといてやるよ。数に頼る、それを弱さって言うんだよ」

 足元に転がっていた金属の棒のようなものを徐ろに拾い上げ、少し先でガラス片を手に取った。それをひらりと宙に浮かせたかと思えば金属の棒きれを思い切り振りかぶり、砕け散ったガラス片が引き寄せられるように屋上から撃ち下ろしていた五人の眉間を撃ち抜いた。その瞬間、獏さんは走り出した。風のように速かった。

「行きましょう」

 先生が踵を返したが、私はまだ躊躇っていた。本当に大丈夫なのだろうか。せめて私一人でも。

「沙結さん」

 振り返った。

「獏さんはとてつもなく強いです。だからこそ五百六十年も生きてこられた。今の僕たちがここに残ることは彼女の足手まといになるだけです」

 先生にそう並び立てられ、私はちいさく頷き先生と一緒に車に乗り込んだ。彼ではなく、彼女。それは先生なりの獏さんに対する敬意の表れなのではないのだろうか。車はゆっくりと動き出し、コンテナを抜けた先にある下道を走り出した。やがて無数の車と一緒に合流し、国道に出た。助手席には先生が、後部座席には私と由奈、それから翔太と陸斗で座っていた。車が動き出してから誰一人として口を開いてはいない。私もそう。窓に寄りかかり、その向こうに広がる景色をぼんやりと眺めた。海が広がっていた。空から降り注ぐひかりを弾いていた。無数に瞬くひかりが車の動きに合わせて海の色を変える。白から青、青から金へと変わるその移ろいを、目を細めてみつめた。車のスピードが緩やかになり、正面のガラスに目を向けた。赤くて大きな橋に差し掛かろうとしているところだった。この橋を超えた先に何があるのかは分からない。けれど、今の私達五人ならどんな場所でも生きていける。不確定な未来を、そんな風に思い描けるくらいには私も強くなれたのかもしれない。窓に身体を預けながら、そんなことを考えた。