大きく咳き込みながら瞼を開けた。私は、翔太の腕の中にいた。
「大丈夫?」
翔太に問い掛けられ、ちいさく頷いた。そんな私をみて陸斗は「無茶しやがって」と白い歯をみせて笑った。「俺たちが勝ったんだ」と言って階段を駆け下りていく。私は翔太の胸に背を預けながらゆっくりと身体を起こした。
「沙結、終わったよ」
由奈が涙ぐんでいた。答えを求めるように先生に顔を向けると、ちいさく頷いた。周りを見渡す。辺り一帯はまるで血の海だった。おびただしい量の血液が鉄製の金属から滴っている。周りを見渡し、思う。
「先生! まだ終わってません」
「どういうことですか」
「工藤がこの場所にいるはずなんです」
「何故……分かるんです」
先生が大きく目を見開いた瞬間、私の身体に悪寒が走った。天井のガラスが割れたところから柔らかな月明かりが差し、陸斗がそのひかりを全身で浴びながら「勝ったぞー!」と雄叫びをあげている。その身体に影が落ちた。
「陸斗! そこから離れて!」
咄嗟に叫んだ。だが、遅かった。天井から降り注ぐ月のひかりを無数の銃弾の雨が切り裂き、陸斗は糸の断ち切られた操り人形のように身体をばたつかせながら血しぶきをあげた。天井からはさっきと比べものにならない数の奴らが降りてきていた。そこには黒いコートを羽織っている男たちも紛れ込んでおり、工藤の姿もみえた。
「由奈さんっ! 海を!」
先生がそう呼び掛けた頃には、翔太は唸り声をあげながら二階から一階へと飛び降りていった。地に降り立った頃には身体は消えており、廃工場の入り口から引き寄せられるように水がなだれ込んでくる。その水が私達の目の前でぴたりと止まり、銃弾を防いでくれている。
「先生! 翔太が」
「分かっています。どうして闇雲に飛び降りたりしたんだ」
顔を歪めた先生に由奈が呼び掛けた。
「水が、重い。先生、これ由奈には無理。長くは続けられそうにない」
右手を持ち上げたまま由奈の身体は微かに震えていた。あと一分も持たないかもしれない。
「……先生」
「ちょっと待って下さい」
「先生!」
眼鏡に手を押してたまま顔を歪ませていた先生をみながら、一階に指を指す。
「さっきから銃声が鳴り止んでない。どうやってんのか分かんないけど、きっと翔太は今も一人で戦ってるよ。対策なんてもうどうでもいいじゃん。だってそうでしょ? 私達が何したの? ただ、生きていたいだけ。ただ、家族と一緒にいたいだけ。それだけだよ? 誰よりも普通で生きることを、自由を求めてた翔太が今一人で立ち向かってる。自由を叫んでる。私達もそれに続こうよ。これで終わりならもうそれでいいじゃん。やれるだけやったって。そう思える人生なら、もういいよ」
言い切って、自然と笑みを浮かべていた。心から思っていたことだったから。先生は私の顔をぼんやりとみつめ、「そうですね」と笑った。
「由奈さん。僕が合図したら水を切り離して下さい。下に飛び降ります」
由奈は額に汗を浮かべながら、ちいさく頷いた。
「それからもう一つ。無理を承知でお願いします。由奈さんが水を切り離した瞬間、重力に導かれて下は一瞬ですが水流に呑まれるでしょう。その際に出来るだけ奴らの足場を崩して下さい。それから沙結さんは出来るだけ大勢の人間に幻覚を。出来ますか?」
先生の放ったその言葉に私は頷き、由奈はふぅっと息を吐き出した。
「出来ますか? じゃなくて、やれでいいよ。だってこれ最後なんでしょ?」
「……そうですね。これは、僕たちの最後の戦いです。自由を求める人間の強さを、奴らに見せつけてやりましょう」
天使ではなく、人間の強さを。先生はそう言った。あれだけ私達に厳しくルールを設け、天使として生きる覚悟を、と口にしていた先生も何かの変化があったのかもしれない。
「今です!」
先生の声を合図にそれまで由奈の力によって持ち上げられていた大量の水が一気に一階へとなだれ込んだ。銃声に混じって叫び声が聴こえる。その瞬間、飛び降りた。翔太。宙で目を彷徨わせ、やがてみつけた。奴らの内の一人を盾のように使い銃弾を防いではいたが、翔太は壁際に追い込まれている。水が奴らを押し流し、体勢を崩している今しかないと私は地面に降り立った瞬間翔太の元へと駆け出した。地響きが鳴り、足の裏から振動が伝わってくる。由奈の能力だ。私は後先を考えていなかった。ただ、翔太を助けたい。その一心だった。私の身体の隣を翔太がいる進行方向へと氷の壁が伸びていく。
腕を振り、足を動かし続けた。息はとうに上がってる。でも、そんなことはもうどうでもいい。翔太の前には四人いた。そいつらには炎で焼かれる幻覚をみせる。叫び声をあげのたうち回る男たちを踏み越えて、翔太が私の元へと駆けてくる。翔太の指先にさえ触れられたら透明になれる。手を伸ばした。翔太も腕を伸ばしてる。
「由奈さんっ! 翔太くんを」
私の背に先生の声が届いた。途端に私の真横を凄まじい風が吹き抜けていく。数人の男たちが紙切れのように吹き飛んだ。翔太と私の指先が触れようとしたその時だった。翔太が目を見開いたまま崩れ落ちた。その奥には黒いコートを羽織り、ロマンスグレーの髪を綺麗に後ろに撫でつけた男が銃を手にしていた。工藤だった。私は叫びながら、右手を持ち上げた。炎で焼かれる幻覚をみせる。だが、工藤はつめたい眼差しを保ったまま瞬時に腰にさしていたナイフで自らの腕を切りつけた。それは、私の幻覚に対する対処法だった。
──由奈さんの能力は非常に強力ですが、一つだけ大きな欠点があります。それは痛覚によって遮断出来るということです。もし、何かしらの方法で幻覚を解かれた場合はすぐに次の幻覚をかけて下さい。
あの深い森の奥にある家で、先生からはそう言われていた。だから、すぐに次の幻覚をみせようとした。
「あっ」
だが、脇腹に激痛が走り、思わず声が漏れた。足先に向かって血が流れて落ちていったその時には工藤は私に銃を向けられていた。撃たれる。そう思い、目を閉じた。金属の破裂する音が鼓膜に触れる。痛みは無かった。その理由は私の身体に覆いかぶさるようにして倒れてきた翔太をみてすぐに分かった。背中が真っ赤に染まっている。工藤に目を向けた。殺してやる。殺してやる。お前だけは、絶対に許さない。深く落ち窪んだ工藤の目と、私の目が一瞬強く結びつけられた。銃を手にしていた工藤の左半身が吹き飛んだのはそのすぐ後だった。
「沙結さん!」
よろめきながら先生が駆けてくる。
「先生……今の」
「あれが僕のもう一つの力です。僕の左手をかざした先は、空間が圧縮され直線上にあるものは全てが排除されます。ただ、あれは能力の疲弊が凄すぎて、一日に二回程しか使え、ないんです」
それに、と先生は目を向け「工藤はあれくらいじゃ死にません」と呟いた。氷で壁を作りながら先生と一緒に廃工場の入り口へと翔太を運んだ。異変にはすぐに気づいた。翔太が目を覚まさないのだ。
「翔太?」
「どうしました?」
先生が右腕を持ち上げたまま顔だけを向けてくる。
「翔太が……目を覚まさないんです」
私達はたとえ死んでも一、二分もあれば再び息を吹き返す。だが、翔太をここに運ぶまでに恐らく五分は経っているのに一向に目を覚ます気配がない。それに、と背中に手を入れる。赤黒いぬるりとした液体が私の手のひらにべっとりとついた。傷口すら塞がっていなかった。
「な、にこれ。何で? 生き返ってよ!」
翔太の顔は、目を閉じたままどんどん青白くなっている。身体を揺する。何度も揺すり、胸を思い切り叩きつけた。
「まさか、そんな」
何度もこちらに視線を向けてきていた先生がぽつりと呟く。悲壮感漂う表情で「早すぎる」と付け足した。
「なん、ですか」
「僕には探知の力はありません。だから、天使の存在を感じ取ることは出来ません。でも、これだけは分かります。翔太くんの、今の肉体には天使がいない」
「……いない?」
先生が言ってる意味が分からなかった。
「なに、それ。どういうことですか」
「天使の魂が抜け落ちたということです」
「だから、なんですか」
「死んでしまったということです! 翔太くんは、もう、この世にいない。肉体に根付いていた意識もやがては」
少しの間があってから、「消え去ります」と苦しげに言った。
「嫌。そんなの、嘘」
これまで翔太と過ごした日々が、その澄んだ瞳や声が、頭の中を駆け巡り、気づいた時には私は泣き叫んでいた。嫌だ。こんな別れ方、絶対に嫌だ。翔太の胸に顔を埋め、「なんか言ってよ!」と叫んだ。
「……血」
赤く染まった私の手のひらをみながら、あの深い森の奥で先生が言った言葉を思い出した。足元にはガラス片が沢山散らばっていた。そのうちの一つを手に取った。
「沙結さん!」
すぐさま先生が呼び掛けてくる。
「何を考えてるんです」
「翔太を生き返らせます。私の身体に流れる血で」
「待って下さい。それを決断する前によく考えなさい」
「そんな時間はないんです!」
ガラス片を腕に押し付ける。すぐさま血が流れ出てきた。
「彼が口にしていたことをよく考えて下さい! 普通の人として死にたがっていた。君がもしその選択を選べば、翔太くんは二度とその願いが叶わないんですよ」
「……分かっています」
「いや、分かってない! 君はそれが僕たち不老不死の者にとってどれだけ幸福な事か」
「アメリアさんのようにですか」
そう言った瞬間、先生が大きくを目を見開いた。
「獏さんから全部聞きました。先生なら分かってくれるはずです。愛していた相手に先立たれるその辛さを。それに」
言いながら、翔太の手を握った。
「天使になる前、私達はまだ十八歳だったんです。まだ人生の途中だった。本当の幸せとか生きる喜びとか、私たちは人が幸福と呼ぶものをまだ全部は手にしてない!」
ガラス片に力を込め、腕を引き裂いた。溢れ出る血液を翔太の口に注いだ。間違っているのかもしれない。これは、私の傲慢なのかもしれない。でも、それでも、と私は翔太の前髪をそっとよってあげた。こうなってやっと分かったことが一つある。私は本当は死にたい訳じゃなかったという事を。生きるということの尊さを、その美しさを、ようやく思い出せた気がする。
「先生、あいつが」
由奈が送る視線の先には、揺らめきながら立ちはだかる水の壁があり、その向こうにはうっすらと工藤が立っているのがみえた。先生に吹き飛ばされた左半身はすっかり塞がっているようだった。それをみてから、翔太の唇に私は自らの唇を重ね、ゆっくりと立ち上がった。
「先生、翔太をお願いします」
歩みを進めようとした時、「駄目です」と肩を掴まれた。
「獏さんから全てを聞いたのなら、あいつが僕にとってどのような存在なのかも聞いたのでしょう」
「はい」
「では、君が翔太くんの傍にいてあげて下さい。あいつは僕が引き受けます」
先生は瞼を閉じたかと思えばゆっくりと開き、徐ろに顔を持ち上げた。空はうっすらと明るくなり始めている。それをみて先生が微かに笑った気がした。
「由奈さん、僕が壁を閉ざしたら沙結さんと翔太くんのことを宜しくお願いします」
氷の壁が崩れていった。すぐさまそこには水の壁が広がり、先生が風のような速さで駆けていくのがみえた。壁の向こうには工藤を含めて十五人はいた。先生は身体を氷で覆い、時折銃弾を受け血しぶきをあげながらも足を止める事は無かった。唸り声をあげながら銃弾の雨が降る中を突き進み左手を持ち上げた。次の瞬間には五、六人の肉体が一瞬にして消し飛んだ。工藤は瞬時に転がるようにして避けており、先生の足先へと銃弾を撃ち込んだ。体勢を崩しながらも先生が左手を工藤に向ける。終わった。そう思った。だが、次の瞬間には先生の左腕は工藤の手の先から出された刃物に貫かれ、廃工場の天井が消し飛んだ。左腕から刃が抜かれた瞬間、無数の雨が先生に降り注ぐ。
「……ねぇ、なんで? いやっ」
隣に立つ由奈が悲痛な声を上げた。振り返る。翔太はまだ息を吹き返していない。陸斗と先生は左側の壁に寄せられていた。息を吹き返す度に工藤に頭を撃ち抜かれている。工藤の目は落ち窪んでおり、何度殺しても表情一つ変えなかった。死ぬまで、殺される。みながら、その言葉が頭に過った。水の壁の向こうにはまだ工藤を含めて十人はいる。無数の銃弾の雨が私と由奈の元に降り注いでいた。
「沙結!」
私が翔太の開けた手のひらをそっと折りたたみ、胸の前で貝殻のように組ませていると由奈が声を張り上げた。
「私達の誓い。覚えてるでしょ?」
「うん。覚えてるよ」
由奈は私に背を向けたままそう言った。その背が微かに震える。
「嘘はつかない。秘密も持たない」
「うん」
「だから、言うね。由奈はさ、この数日間沙結にその誓いを破られたことが許せなかった。ひどいことも言ったし、ひどい態度もとった」
「うん」
「でも、やっぱり、嫌いになんかなれなかった。沙結は由奈の一番の友達だから。もし、今日死ぬことになってもさ、来世でまた友達になってくれる?」
振り返った由奈の顔はぐしゃぐしゃに泣き崩れていた。もう、無理だ。由奈もそう感じたのかもしれない。
「私にとっても由奈は一番の友達だった。この先もずっとそうだよ」
今の自分に出来る精一杯の笑みを浮かべながら続ける。
「それに、そう思ってるのは私だけじゃなかったみたい」
「え?」
「昨日ね、理沙に会ったの」
「……嘘」
「ほんと。私達がまだどこかで生きてるんじゃないかって、この十五年ずっと信じてくれてみたい。私は何年でも待ってるからいつかまた三人で会いたいって言ってくれた」
由奈は、そっか、と鏡を映すように笑みを溢し「ああ、もっと生きてたかったなあ」とぽつりと溢す。ただ、普通に生きていたい。ただ、家族と一緒にいたい。それが、私達の唯一の望みだった。そんな誰もが叶えられるような望みですら私達は叶えられないのか、と空を見上げた。濃度の濃い青い空と取り残された夜が入り混じっているような、夜と朝の境い目みたいな空だった。うっすらと明るく、幾つかの星たちがひかえめにひかりを放っている。みながら、思った。いや、違うと。ただ生きたいと願うことは、誰もが簡単に叶えられるような望みなんかじゃない。
その考えが頭に過った瞬間、私の記憶の海の奥底から砂埃が湧き上がるように、いつかの記憶が広がった。それが、私がずっとみないようにしていた胸の奥底にあるつめたいものである事はすぐに分かった。
その家は、なにかの薬品の香りとアンモニア臭で満ちていた。リビングへと案内してくれた女性は母だった。十五年ぶりの再会だった。母は顔を歪ませて泣き崩れていた。悲しみや恐怖、それから安堵と喜び、いろんな感情が混じり合った結果なのだろうと、歩きながら思った。色のあせたソファと枯れ落ちた観葉植物、ヒビの入ったテレビ。部屋の中は、それら全てが音を吸い取ってるみたいに静かだった。母の嗚咽だけが、その空間を支配していたように思う。だが、部屋の奥へと進むと、微かに音を立てている者がいた。
「お父さんはね………末期の膵臓がんになってしまったの」
母は目元を拭いながら、私にそう言った。簡易ベッドに横たわっている父の胸が微かに上下していることだけが、命の灯火がまだ消え去ってはいないことを教えてくれている気がした。首に手を添える。さっきみた枯れ落ちた観葉植物のように細い首だった。脈も呼吸も弱い。いっそのこと、と手をかざそうとした時、父はうっすらと目を開けた。
「さ、ゆ」
消え入りそうな声でぽつりと呟き、それから緩やかに涙を流した。微かに震えながら枯れ木のように細くなってしまった腕が持ち上がる。私はその手のひらに自分の頬を添えた。父は薄く微笑んだ。生きてるって信じてた。また会えて嬉しいよ。そんなことをぽつりぽつりと呟いては咳き込んだ。お腹が痛むのか、私の頬に添えている手とは反対の手で布団越しに抑えていた。
「お父さん、凄く辛そう」
隣に座る母にそう問い掛けた。母は苦しげに「うん、そうなのよ。でも、お父さんここまでずっと頑張ってきたのよ。沙結に会うまでは死ねないって、ずっと頑張ってきたの」とポケットから取り出したハンカチで涙を拭っていた。それから二時間程かけて父と母に話した。これまでのこと、その間私がどれだけ二人のことを思っていたのかということ。すぐには受け入れられる話では無かったはずなのに、二人は和紙に水を浸すみたいにすっと受け入れてくれた。それよりも沙結がまた帰ってきてくれて嬉しいよ。と二人とも笑みを溢したのだった。全てを話し終えてから、私は二人の瞳に視線を配りながら言った。
「私なら、今すぐ楽にしてあげることが出来るよ」
母は答えを求めるように父を見て、父は「じゃあ、頼んでもいいかな。本当はもっと長く生きたかったけど、今はこの痛みから早く解放されたい。沙結の顔もみれたしもう十分だ」と笑ったのだ。母は「お父さんのこんな安らかな顔をみたのは久しぶり」だと涙を流しながら笑みを溢した。
私は布団をそっと引き剥がし、父の胸に手を置いた。
「ほんとにいいんだね?」
「ああ、頼む。最後にこんな嫌な思いをさせて申し訳ないな」
私の頬に添えられていた手が頭へと伸びてくる。枯れ木のような手ではあったけれど、その手からは確かに温もりを感じた。
「こっちこそごめんね。私、悪魔みたいだよね」
ぽつりと呟くと、沙結、と呼びかけられ目があった。
「違う。お前は、天使だ」
そう呟いた瞬間、父の目から一筋の涙が零れ落ち私の目は青く染まった。父の身体は一瞬にして灰となり、砂のように崩れ落ちた。布団の上に残されたちいさな灰の山をみて、私は「ありがとう」と泣きながら呟いたのだ。
「大丈夫?」
翔太に問い掛けられ、ちいさく頷いた。そんな私をみて陸斗は「無茶しやがって」と白い歯をみせて笑った。「俺たちが勝ったんだ」と言って階段を駆け下りていく。私は翔太の胸に背を預けながらゆっくりと身体を起こした。
「沙結、終わったよ」
由奈が涙ぐんでいた。答えを求めるように先生に顔を向けると、ちいさく頷いた。周りを見渡す。辺り一帯はまるで血の海だった。おびただしい量の血液が鉄製の金属から滴っている。周りを見渡し、思う。
「先生! まだ終わってません」
「どういうことですか」
「工藤がこの場所にいるはずなんです」
「何故……分かるんです」
先生が大きく目を見開いた瞬間、私の身体に悪寒が走った。天井のガラスが割れたところから柔らかな月明かりが差し、陸斗がそのひかりを全身で浴びながら「勝ったぞー!」と雄叫びをあげている。その身体に影が落ちた。
「陸斗! そこから離れて!」
咄嗟に叫んだ。だが、遅かった。天井から降り注ぐ月のひかりを無数の銃弾の雨が切り裂き、陸斗は糸の断ち切られた操り人形のように身体をばたつかせながら血しぶきをあげた。天井からはさっきと比べものにならない数の奴らが降りてきていた。そこには黒いコートを羽織っている男たちも紛れ込んでおり、工藤の姿もみえた。
「由奈さんっ! 海を!」
先生がそう呼び掛けた頃には、翔太は唸り声をあげながら二階から一階へと飛び降りていった。地に降り立った頃には身体は消えており、廃工場の入り口から引き寄せられるように水がなだれ込んでくる。その水が私達の目の前でぴたりと止まり、銃弾を防いでくれている。
「先生! 翔太が」
「分かっています。どうして闇雲に飛び降りたりしたんだ」
顔を歪めた先生に由奈が呼び掛けた。
「水が、重い。先生、これ由奈には無理。長くは続けられそうにない」
右手を持ち上げたまま由奈の身体は微かに震えていた。あと一分も持たないかもしれない。
「……先生」
「ちょっと待って下さい」
「先生!」
眼鏡に手を押してたまま顔を歪ませていた先生をみながら、一階に指を指す。
「さっきから銃声が鳴り止んでない。どうやってんのか分かんないけど、きっと翔太は今も一人で戦ってるよ。対策なんてもうどうでもいいじゃん。だってそうでしょ? 私達が何したの? ただ、生きていたいだけ。ただ、家族と一緒にいたいだけ。それだけだよ? 誰よりも普通で生きることを、自由を求めてた翔太が今一人で立ち向かってる。自由を叫んでる。私達もそれに続こうよ。これで終わりならもうそれでいいじゃん。やれるだけやったって。そう思える人生なら、もういいよ」
言い切って、自然と笑みを浮かべていた。心から思っていたことだったから。先生は私の顔をぼんやりとみつめ、「そうですね」と笑った。
「由奈さん。僕が合図したら水を切り離して下さい。下に飛び降ります」
由奈は額に汗を浮かべながら、ちいさく頷いた。
「それからもう一つ。無理を承知でお願いします。由奈さんが水を切り離した瞬間、重力に導かれて下は一瞬ですが水流に呑まれるでしょう。その際に出来るだけ奴らの足場を崩して下さい。それから沙結さんは出来るだけ大勢の人間に幻覚を。出来ますか?」
先生の放ったその言葉に私は頷き、由奈はふぅっと息を吐き出した。
「出来ますか? じゃなくて、やれでいいよ。だってこれ最後なんでしょ?」
「……そうですね。これは、僕たちの最後の戦いです。自由を求める人間の強さを、奴らに見せつけてやりましょう」
天使ではなく、人間の強さを。先生はそう言った。あれだけ私達に厳しくルールを設け、天使として生きる覚悟を、と口にしていた先生も何かの変化があったのかもしれない。
「今です!」
先生の声を合図にそれまで由奈の力によって持ち上げられていた大量の水が一気に一階へとなだれ込んだ。銃声に混じって叫び声が聴こえる。その瞬間、飛び降りた。翔太。宙で目を彷徨わせ、やがてみつけた。奴らの内の一人を盾のように使い銃弾を防いではいたが、翔太は壁際に追い込まれている。水が奴らを押し流し、体勢を崩している今しかないと私は地面に降り立った瞬間翔太の元へと駆け出した。地響きが鳴り、足の裏から振動が伝わってくる。由奈の能力だ。私は後先を考えていなかった。ただ、翔太を助けたい。その一心だった。私の身体の隣を翔太がいる進行方向へと氷の壁が伸びていく。
腕を振り、足を動かし続けた。息はとうに上がってる。でも、そんなことはもうどうでもいい。翔太の前には四人いた。そいつらには炎で焼かれる幻覚をみせる。叫び声をあげのたうち回る男たちを踏み越えて、翔太が私の元へと駆けてくる。翔太の指先にさえ触れられたら透明になれる。手を伸ばした。翔太も腕を伸ばしてる。
「由奈さんっ! 翔太くんを」
私の背に先生の声が届いた。途端に私の真横を凄まじい風が吹き抜けていく。数人の男たちが紙切れのように吹き飛んだ。翔太と私の指先が触れようとしたその時だった。翔太が目を見開いたまま崩れ落ちた。その奥には黒いコートを羽織り、ロマンスグレーの髪を綺麗に後ろに撫でつけた男が銃を手にしていた。工藤だった。私は叫びながら、右手を持ち上げた。炎で焼かれる幻覚をみせる。だが、工藤はつめたい眼差しを保ったまま瞬時に腰にさしていたナイフで自らの腕を切りつけた。それは、私の幻覚に対する対処法だった。
──由奈さんの能力は非常に強力ですが、一つだけ大きな欠点があります。それは痛覚によって遮断出来るということです。もし、何かしらの方法で幻覚を解かれた場合はすぐに次の幻覚をかけて下さい。
あの深い森の奥にある家で、先生からはそう言われていた。だから、すぐに次の幻覚をみせようとした。
「あっ」
だが、脇腹に激痛が走り、思わず声が漏れた。足先に向かって血が流れて落ちていったその時には工藤は私に銃を向けられていた。撃たれる。そう思い、目を閉じた。金属の破裂する音が鼓膜に触れる。痛みは無かった。その理由は私の身体に覆いかぶさるようにして倒れてきた翔太をみてすぐに分かった。背中が真っ赤に染まっている。工藤に目を向けた。殺してやる。殺してやる。お前だけは、絶対に許さない。深く落ち窪んだ工藤の目と、私の目が一瞬強く結びつけられた。銃を手にしていた工藤の左半身が吹き飛んだのはそのすぐ後だった。
「沙結さん!」
よろめきながら先生が駆けてくる。
「先生……今の」
「あれが僕のもう一つの力です。僕の左手をかざした先は、空間が圧縮され直線上にあるものは全てが排除されます。ただ、あれは能力の疲弊が凄すぎて、一日に二回程しか使え、ないんです」
それに、と先生は目を向け「工藤はあれくらいじゃ死にません」と呟いた。氷で壁を作りながら先生と一緒に廃工場の入り口へと翔太を運んだ。異変にはすぐに気づいた。翔太が目を覚まさないのだ。
「翔太?」
「どうしました?」
先生が右腕を持ち上げたまま顔だけを向けてくる。
「翔太が……目を覚まさないんです」
私達はたとえ死んでも一、二分もあれば再び息を吹き返す。だが、翔太をここに運ぶまでに恐らく五分は経っているのに一向に目を覚ます気配がない。それに、と背中に手を入れる。赤黒いぬるりとした液体が私の手のひらにべっとりとついた。傷口すら塞がっていなかった。
「な、にこれ。何で? 生き返ってよ!」
翔太の顔は、目を閉じたままどんどん青白くなっている。身体を揺する。何度も揺すり、胸を思い切り叩きつけた。
「まさか、そんな」
何度もこちらに視線を向けてきていた先生がぽつりと呟く。悲壮感漂う表情で「早すぎる」と付け足した。
「なん、ですか」
「僕には探知の力はありません。だから、天使の存在を感じ取ることは出来ません。でも、これだけは分かります。翔太くんの、今の肉体には天使がいない」
「……いない?」
先生が言ってる意味が分からなかった。
「なに、それ。どういうことですか」
「天使の魂が抜け落ちたということです」
「だから、なんですか」
「死んでしまったということです! 翔太くんは、もう、この世にいない。肉体に根付いていた意識もやがては」
少しの間があってから、「消え去ります」と苦しげに言った。
「嫌。そんなの、嘘」
これまで翔太と過ごした日々が、その澄んだ瞳や声が、頭の中を駆け巡り、気づいた時には私は泣き叫んでいた。嫌だ。こんな別れ方、絶対に嫌だ。翔太の胸に顔を埋め、「なんか言ってよ!」と叫んだ。
「……血」
赤く染まった私の手のひらをみながら、あの深い森の奥で先生が言った言葉を思い出した。足元にはガラス片が沢山散らばっていた。そのうちの一つを手に取った。
「沙結さん!」
すぐさま先生が呼び掛けてくる。
「何を考えてるんです」
「翔太を生き返らせます。私の身体に流れる血で」
「待って下さい。それを決断する前によく考えなさい」
「そんな時間はないんです!」
ガラス片を腕に押し付ける。すぐさま血が流れ出てきた。
「彼が口にしていたことをよく考えて下さい! 普通の人として死にたがっていた。君がもしその選択を選べば、翔太くんは二度とその願いが叶わないんですよ」
「……分かっています」
「いや、分かってない! 君はそれが僕たち不老不死の者にとってどれだけ幸福な事か」
「アメリアさんのようにですか」
そう言った瞬間、先生が大きくを目を見開いた。
「獏さんから全部聞きました。先生なら分かってくれるはずです。愛していた相手に先立たれるその辛さを。それに」
言いながら、翔太の手を握った。
「天使になる前、私達はまだ十八歳だったんです。まだ人生の途中だった。本当の幸せとか生きる喜びとか、私たちは人が幸福と呼ぶものをまだ全部は手にしてない!」
ガラス片に力を込め、腕を引き裂いた。溢れ出る血液を翔太の口に注いだ。間違っているのかもしれない。これは、私の傲慢なのかもしれない。でも、それでも、と私は翔太の前髪をそっとよってあげた。こうなってやっと分かったことが一つある。私は本当は死にたい訳じゃなかったという事を。生きるということの尊さを、その美しさを、ようやく思い出せた気がする。
「先生、あいつが」
由奈が送る視線の先には、揺らめきながら立ちはだかる水の壁があり、その向こうにはうっすらと工藤が立っているのがみえた。先生に吹き飛ばされた左半身はすっかり塞がっているようだった。それをみてから、翔太の唇に私は自らの唇を重ね、ゆっくりと立ち上がった。
「先生、翔太をお願いします」
歩みを進めようとした時、「駄目です」と肩を掴まれた。
「獏さんから全てを聞いたのなら、あいつが僕にとってどのような存在なのかも聞いたのでしょう」
「はい」
「では、君が翔太くんの傍にいてあげて下さい。あいつは僕が引き受けます」
先生は瞼を閉じたかと思えばゆっくりと開き、徐ろに顔を持ち上げた。空はうっすらと明るくなり始めている。それをみて先生が微かに笑った気がした。
「由奈さん、僕が壁を閉ざしたら沙結さんと翔太くんのことを宜しくお願いします」
氷の壁が崩れていった。すぐさまそこには水の壁が広がり、先生が風のような速さで駆けていくのがみえた。壁の向こうには工藤を含めて十五人はいた。先生は身体を氷で覆い、時折銃弾を受け血しぶきをあげながらも足を止める事は無かった。唸り声をあげながら銃弾の雨が降る中を突き進み左手を持ち上げた。次の瞬間には五、六人の肉体が一瞬にして消し飛んだ。工藤は瞬時に転がるようにして避けており、先生の足先へと銃弾を撃ち込んだ。体勢を崩しながらも先生が左手を工藤に向ける。終わった。そう思った。だが、次の瞬間には先生の左腕は工藤の手の先から出された刃物に貫かれ、廃工場の天井が消し飛んだ。左腕から刃が抜かれた瞬間、無数の雨が先生に降り注ぐ。
「……ねぇ、なんで? いやっ」
隣に立つ由奈が悲痛な声を上げた。振り返る。翔太はまだ息を吹き返していない。陸斗と先生は左側の壁に寄せられていた。息を吹き返す度に工藤に頭を撃ち抜かれている。工藤の目は落ち窪んでおり、何度殺しても表情一つ変えなかった。死ぬまで、殺される。みながら、その言葉が頭に過った。水の壁の向こうにはまだ工藤を含めて十人はいる。無数の銃弾の雨が私と由奈の元に降り注いでいた。
「沙結!」
私が翔太の開けた手のひらをそっと折りたたみ、胸の前で貝殻のように組ませていると由奈が声を張り上げた。
「私達の誓い。覚えてるでしょ?」
「うん。覚えてるよ」
由奈は私に背を向けたままそう言った。その背が微かに震える。
「嘘はつかない。秘密も持たない」
「うん」
「だから、言うね。由奈はさ、この数日間沙結にその誓いを破られたことが許せなかった。ひどいことも言ったし、ひどい態度もとった」
「うん」
「でも、やっぱり、嫌いになんかなれなかった。沙結は由奈の一番の友達だから。もし、今日死ぬことになってもさ、来世でまた友達になってくれる?」
振り返った由奈の顔はぐしゃぐしゃに泣き崩れていた。もう、無理だ。由奈もそう感じたのかもしれない。
「私にとっても由奈は一番の友達だった。この先もずっとそうだよ」
今の自分に出来る精一杯の笑みを浮かべながら続ける。
「それに、そう思ってるのは私だけじゃなかったみたい」
「え?」
「昨日ね、理沙に会ったの」
「……嘘」
「ほんと。私達がまだどこかで生きてるんじゃないかって、この十五年ずっと信じてくれてみたい。私は何年でも待ってるからいつかまた三人で会いたいって言ってくれた」
由奈は、そっか、と鏡を映すように笑みを溢し「ああ、もっと生きてたかったなあ」とぽつりと溢す。ただ、普通に生きていたい。ただ、家族と一緒にいたい。それが、私達の唯一の望みだった。そんな誰もが叶えられるような望みですら私達は叶えられないのか、と空を見上げた。濃度の濃い青い空と取り残された夜が入り混じっているような、夜と朝の境い目みたいな空だった。うっすらと明るく、幾つかの星たちがひかえめにひかりを放っている。みながら、思った。いや、違うと。ただ生きたいと願うことは、誰もが簡単に叶えられるような望みなんかじゃない。
その考えが頭に過った瞬間、私の記憶の海の奥底から砂埃が湧き上がるように、いつかの記憶が広がった。それが、私がずっとみないようにしていた胸の奥底にあるつめたいものである事はすぐに分かった。
その家は、なにかの薬品の香りとアンモニア臭で満ちていた。リビングへと案内してくれた女性は母だった。十五年ぶりの再会だった。母は顔を歪ませて泣き崩れていた。悲しみや恐怖、それから安堵と喜び、いろんな感情が混じり合った結果なのだろうと、歩きながら思った。色のあせたソファと枯れ落ちた観葉植物、ヒビの入ったテレビ。部屋の中は、それら全てが音を吸い取ってるみたいに静かだった。母の嗚咽だけが、その空間を支配していたように思う。だが、部屋の奥へと進むと、微かに音を立てている者がいた。
「お父さんはね………末期の膵臓がんになってしまったの」
母は目元を拭いながら、私にそう言った。簡易ベッドに横たわっている父の胸が微かに上下していることだけが、命の灯火がまだ消え去ってはいないことを教えてくれている気がした。首に手を添える。さっきみた枯れ落ちた観葉植物のように細い首だった。脈も呼吸も弱い。いっそのこと、と手をかざそうとした時、父はうっすらと目を開けた。
「さ、ゆ」
消え入りそうな声でぽつりと呟き、それから緩やかに涙を流した。微かに震えながら枯れ木のように細くなってしまった腕が持ち上がる。私はその手のひらに自分の頬を添えた。父は薄く微笑んだ。生きてるって信じてた。また会えて嬉しいよ。そんなことをぽつりぽつりと呟いては咳き込んだ。お腹が痛むのか、私の頬に添えている手とは反対の手で布団越しに抑えていた。
「お父さん、凄く辛そう」
隣に座る母にそう問い掛けた。母は苦しげに「うん、そうなのよ。でも、お父さんここまでずっと頑張ってきたのよ。沙結に会うまでは死ねないって、ずっと頑張ってきたの」とポケットから取り出したハンカチで涙を拭っていた。それから二時間程かけて父と母に話した。これまでのこと、その間私がどれだけ二人のことを思っていたのかということ。すぐには受け入れられる話では無かったはずなのに、二人は和紙に水を浸すみたいにすっと受け入れてくれた。それよりも沙結がまた帰ってきてくれて嬉しいよ。と二人とも笑みを溢したのだった。全てを話し終えてから、私は二人の瞳に視線を配りながら言った。
「私なら、今すぐ楽にしてあげることが出来るよ」
母は答えを求めるように父を見て、父は「じゃあ、頼んでもいいかな。本当はもっと長く生きたかったけど、今はこの痛みから早く解放されたい。沙結の顔もみれたしもう十分だ」と笑ったのだ。母は「お父さんのこんな安らかな顔をみたのは久しぶり」だと涙を流しながら笑みを溢した。
私は布団をそっと引き剥がし、父の胸に手を置いた。
「ほんとにいいんだね?」
「ああ、頼む。最後にこんな嫌な思いをさせて申し訳ないな」
私の頬に添えられていた手が頭へと伸びてくる。枯れ木のような手ではあったけれど、その手からは確かに温もりを感じた。
「こっちこそごめんね。私、悪魔みたいだよね」
ぽつりと呟くと、沙結、と呼びかけられ目があった。
「違う。お前は、天使だ」
そう呟いた瞬間、父の目から一筋の涙が零れ落ち私の目は青く染まった。父の身体は一瞬にして灰となり、砂のように崩れ落ちた。布団の上に残されたちいさな灰の山をみて、私は「ありがとう」と泣きながら呟いたのだ。