「早かったですね」

 床に座り込んだまま壁に背を預けている先生の身体の輪郭が、窓から差し込む月の淡いひかりで微かに浮き上がっている。数時間ぶりに部屋に戻ると、十五年間住んでいた私の部屋はまさにもぬけの殻のようになっていた。これまで使っていたラグも、鏡台も、ソファもベッドも、全てが無くなっていた。剥き出しになった床や壁からは漂白剤の匂いがたちこめていて、それが部屋の中を満たしていた。

「お別れをしてきました」

 先生の座っている少し手前で、私も腰を下ろした。床は驚く程につめたくて、密着しているお尻と足からそのつめたさが這い上がってくる。

「そうですか」
「……ほんとに辛かったです」
「でしょうね。能力(ちから)を、使ったのですか?」
「えっ?」
「あなたの能力があれば、二人を納得させることなんて造作もないでしょう?」

 先生は私が部屋に戻ってきてから一度も目を合わせてくれなかった。窓の向こうにみえる、限りなく丸みを帯びたひかりの塊をずっとみつめている。私もそれをみながら言った。

「使わなかったです」

 言ってから、すぐに訂正した。

「というより、使いたくなかったのかもしれません。あの二人はとても大切な人だから」
「気持ちは分かります」

 その言葉を最後に室内に静寂が降りた。五分、十分、一時間だったかもしれない。私たちは少しの間、カーテンも照明も無くなったことで部屋に満ちた夜の中に身を預けていた。ぼんやりと夜空を眺めていたら次第に意識が薄まっていき、さあさあ、という音が鼓膜に触れた気がした。細切れになった雨が地を打つ音かもしれなかった。

 窓の向こうに目を向けたあと「月が出てるのに」とそこまで言いかけて、やめた。どうしました? と先生が問い掛けてくる。

「いえ、何でもありません」

 窓の向こうでは雲一つない夜空が広がっていた。雨は降ってない。けれど、私の頭の中では雨が降り続けていた。不規則なリズムを描きながらも地を打つ音が、ずっと耳の奥で鳴り響いていた。一瞬、残像のように刹那の時間だったが、曇天の空の下で咲く真紅の薔薇のように空へと向けられた赤い傘と、その持ち手を掴む白い手が頭の中でふわりと浮かび上がった気がした。目をつむる。綾子さんにも言われたが、私は疲れているのかもしれない。身体だけではなく心も。瞼をおろしたまま、夜に身を預けることにした。

 私はきっと、先生から切り出して貰うことを待っていた。この部屋を出たら、恐らくもう二度とこの町に戻ることは出来ない。それを分かっていたからこそ自分から切り出すことが出来なかった。

「美月さん、そろそろいきましょう」

 夜が満ちた闇の中、数時間ぶりに先生と目が合った。私は、ようやく向かいの山へ飛ぶことが出来た。