民家沿いを泣きながら走り抜けた。どうして私は泣いているのだろう。父が亡くなっていたことを知ったから? いや、違う。私は、私の知らないところで私が誰かと過ごしているという事実が怖くて怖くてたまらなかった。

──あんたも、あたしも、アメリアだって最後はそうだった。皆、天使の魂に侵されていくんだ。

 獏さんの言っていた言葉がふいに頭に浮かぶ。私は一度死に、天使の魂が宿り不老不死になった。でも実際はそうじゃない。いつ天使の魂にこの肉体を奪われ、私の自我が完全に消失してしまうか分からないのだ。こんなの、透明な時限爆弾を背中に背負ったまま生き続けているのとなにも変わらない。そう思った時、足を止めた。息が上がっていたことも理由の一つではあったが、この民家沿いには見覚えがあったのだ。遠い過去の記憶の断片ではない。それよりももっと鮮明で新しい。もしかしたら私は、本当に最近ここを歩いたのかもしれない。空気が澄んでいた。私は四季が好きで、冬が好きで、世界が一番綺麗にみえるこの季節が他のどれよりも好きだった。

 なのに今は、と茜色に染まり始めた空を見上げる。濃度の薄い綺麗な青と茜色の混在した澄んだ空。今の私はこの空を綺麗だとは思えない。民家の壁に背を預け座り込んだ。そんな私の前を、ランドセルを背負った男の子たち二人が笑いながら通り過ぎていく。黄色のランドセルがほのかに茜色に染まっている。

「……黄色」

 思わず、呟いた。私の記憶の海に大きな波紋が起きた。赤い傘を持つ女性がこの通りを歩いていた。黄色のランドセルを背負った三人の男の子たちが正面から歩いてきて、「ねぇ、赤と黄色で紅葉みたいだね」と声を掛ける。それは、夢だと思ってた。私がよくみる孤独が引き連れてくる夢。でも、違った。これは記憶だ。私は最近、少なくともこの数年の間に、確かにこの道を歩いている。瞬間、頭の中に濁流のようにこれまでみえなかった記憶が溢れ返り思わず頭を抑えた。それから、泣き崩れた。

 溢れ出た記憶の中に最近のものが幾つかあった。私は綾子さんの店で仕事を終え、自転車に跨りそこから四十分程先にある、その辺りでは一番栄えている駅前へと向かっていた。マンガ喫茶に入り、パソコンを前にした私は文章を打ち込んでいる。そして、鞄から取り出した手紙にそれを印字した。

〈東堂沙結|《とうどうさゆ》 様

 あなたが今も当たり前のように息を吸い、この世界で生きていることを知っています。〉

 手紙にはそう書かれていた。

──これで満が気付いてくれたらいいけど。

 手紙をみながら私はそう呟き、自宅へと戻った。そして自分の部屋のポストへと投函した。

 ホテルでの出来事もそうだった。私は一瞬にして部屋の中にいる全員に幻覚をかけ、あたかもベッドに座り続けているという風にみせながら、ドアの隙間に手紙を挟んだ。そして、トイレに行くと立った際に「ねぇ、こんなの挟まってた」と皆に手紙をみせた。

 そして、奴らに襲われたあの日、眩いひかりに包まれたあとの記憶も戻った。通路には、先生以外の皆が倒れていた。硝煙と肉が焼け焦げたような匂いと煙が立ち込める中、私は一人でに起き上がり、翔太が飛び降りた方の通路へと駆けていった。沙結さん、と呼ぶ先生の声が確かに聴こえていたが、私は振り返らなかった。その時の私は、何故か笑っていた。階段を下りている途中に奴らに出くわした時も、幻覚をかけ奴ら苦しむ姿をみながら笑い続けていた。

 そう、全部私だった。神戸にいた時も、宮崎にいた時も、私は記憶が飛んでいると思っていただけで私は当たり前のように行動を起こしていたのだ。目的も、その理由も分からない。けれど、一つだけ分かったことがある。揺るぎない事実だ。

──ユダは恐らく、僕以外にもいますよ。

 翔太が放った言葉を思い出す。ユダは、私だ。私が自分自身に手紙を宛て、皆を誘い出したのだ。世界が滲んでいた。顔の左側にひかえめな西日が差してる。手をそれにかざした。指の隙間からベビーカーを押す女性が歩いてくるのがみえ、咄嗟に身体を起こした。この悲しみにくれた顔を誰にも見られたく無かった。ベビーカーには赤ちゃんが乗っていた。顔を俯きながら歩いていたからそれがよくみえた。民家沿いよりさらに向こうの、地平線に落ちていく橙色に染まるそのひかりがあまりに綺麗で足を止めた。

「さ、ゆ?」

 声をかけられ振り返り、すぐに後悔した。さっきは顔を俯いていて気付かなかったが、ベビーカーを押していた女性は理沙だった。中学の時に私と由奈と同じクラスの理沙だった。あの頃よりも背が伸び、より女性らしい身体つきにはなっていたが、顔の面影から確かに理沙だとすぐに分かった。すぐに踵を返した。

「待って!」

 からころ、とベビーカーを押す音が鼓膜に触れる。理沙が夕日を背に私の前に立った。

「え……違うよね。だって」

 理沙は喜びと驚き、それから悲しみなどの無数の感情が混じったようなよく分からない表情を纏っていた。私はその理沙の前を通り過ぎようとしたが、すれ違いざまに肩を掴まれた。

「あの、間違ってたら、ごめんなさい」

 理沙は言葉を紡ぐのもやっとというような様子で「でも、私の中学の時の友達に凄く似てて」と付け足した。私は肩に置かれた手のひらをゆっくりと剥がし「人違いです」と歩みを進めた。

「東堂沙結!」

 背中に、理沙の声が突き刺さった。胸まで抉られるようだった。鼻と喉の奥が痺れてくる。

「高橋由奈! 二人は、二人はね私の中学の時の一番の友達だったの」

 足を止めた。つい先日由奈がマックで言っていた言葉が頭に過る。

──中二の時に一緒だった理沙(りさ)とか覚えてる? 細くて色が白くてさ、よく一緒に遊んでたじゃん。細いくせに朝マックのセットおかわりするとか言って、ほんとにしてた子

「でも……高校から離れ離れになって、その後事故と自殺で二人は亡くなったってテレビで知って。私、毎日泣きつづ、けた。でもね、沙結の遺体は見つからなかったって事もニュースでやってたから私、こう思ったの」

 やめて。理沙、もうそれ以上はやめて。振り向いてしまう。私は、東堂沙結だと言って全てを打ち明けてしまう。

「二人は、何かの理由があって身を隠してるだけでどこかで生きてるんじゃないかって、そう思ってこの十五年間生きてきた」

 理沙の洟をすする音が鼓膜に触れた時には、頬を涙が伝っていた。

「だから、あなたがもし沙結なら由奈にも伝えてくれる? いつかまた、三人で会えたら嬉しいって。私は何年でも待ってるからって」

 気付いたら手のひらの肉が食い込む程に手を握りしめていた。

「……伝えます」

 振り返らなかった。

「由奈にも、必ず伝えます」

 私がそう言った瞬間、理沙の嗚咽を漏らす声がわっと大きくなり、より涙が溢れた。私は地平線に溶けていてく夕日の元へと歩みを進めた。閑静な住宅街の静けさは、私の泣く声を優しく包んではくれなかった。