久しぶりにみた私の家は、かつての面影をすっかり失っていた。十五年前、私がまだ高校生の頃に真っ白だった壁は埃や塵でくすんだ色に染まっており、壁に巻きついていたツタを無理やり剥がしたのかその部分だけが白く、所々に取り残されたものがまだ点在している。十五年。その長い月日が、二人の人生から突然消えた私がそうさせたのだと思うと涙が溢れてきた。

 獏さんの店を出てから、私は皆の元へは向かわなかった。新宿から電車を乗り継ぎ、私は真っ直ぐに自分の家へと向かった。何故かそうしなければならないというような義務感が私の中に芽生えていたのだ。もしかしたら獏さんの能力が私に作用としたのかもしれなかった。

 チャイムを押す。

「……はい」

 しわがれていたが、確かに母の声だった。胸の中からせり上がってくる感情が濁流のように溢れかえる。涙がとめどなく溢れ、ひっ、という上擦った声が漏れた為に思わず口元を抑える。それから顔を上げた。涙を手のひらで拭い、息を整える。

「お母さ、ん。私」

 声をかけたその瞬間、インターフォンの向こうから空気が漏れるような音が聴こえてきた。程なくして扉の向こうから足早に駆けてくる音が聴こえてくる。

「さ、ゆ」

 扉が開いた。そこには母がいた。顔をぐしゃぐしゃに歪めた母が私の元へと駆け寄ってくる。身体を抱きしめられる。

「……お母、さん」

 母の肩に頭を預け、耳元で呟いた。

「さゆ……おかえり」
「ごめんね。おかあ、さん」

 ずっと、謝りたかった。私はあなた達二人の人生から突然消えた最低の娘です。本当にごめんなさい。そう、言いたかった。

「いいのよ。お母さん、ずっと待ってたんだから」

肩に手を添えられ向き合ってから初めて気付いた。母の顔には以前には無かった皺やシミが深く深く刻まれていた。十五年という月日が、私がそうさせた。ゆっくりと持ち上げた手を母の頬にそわせ「ごめん」と呟いた。「突然いなくなって本当にごめんなさい」と何度も頭を下げた。

「沙結」

 呼びかけられ顔を上げた、その時だった。母が家の壁に指を指す。

「あれ、沙結に言われたからちゃんと外したのよ」
「えっ?」

 意味がわからなかった。あんな(つた)は私がこの家に住んでいた頃には無かったものだ。

「ほんとはね、こういうのって業者さんに頼んだ方がいいって分かってるんだけど」
「お母さん」
「気分転換にもなるから自分でやっちゃった」
「ねぇ、何を言ってるの?」

 問い掛けには答えず、「せっかく来たんだからお父さんに会っていって」と母は私の手を引いてリビングへと通された。台に乗ったテレビにはヒビが入っており、何も植えられていない鉢が二つ部屋の片隅に置かれていた。この景色を最近どこかでみた覚えに駆られ、ぎゅっと目を瞑る。また、頭の中に残像のような映像が浮かんだ。粘り気のある空気が満ちた部屋の誰かが歩いている。消毒液とアンモニア臭がそこら中にたちこめている。これは、私がよくみる夢の。そこまで思いかけて、手を引いてくれていた母のそれを強く握った。

「ほら、沙結」

 促され目をやった。声にすらならないものが口から零れ落ちる。

「お父さん、沙結が帰ってくれたよ」

 母が声をかけた先には確かに父がいた。けれど、それは写真だった。仏壇の中で、白い歯をみせて笑う父の写真の隣には、父の好きだったみかんが飾られていた。

「なに、これ」

 呟きながら、胸の奥底からつめたいなにかが這い上がってくる気がした。私がずっとみないようにしていたなにか。

「お母、さん」
「ほら、沙結もお線香あげて。どうせ今回もそう長くはいられないんでしょ?」
「ねぇ」
「誰にも見られたくないなら何もこんなに早くから帰ってくることないのに。今度から夜にしたら?」

 母は線香に火を灯しながらぶつぶつと呟いている。私の声は届いていないようだった。

「ねえってば!」

 声を張り上げた。それから父に顔を向けた。

「お父さん、いつ亡くなったの?」

 母は目を丸くする。まるで私の方がおかしな発言をしているかのようだった。

「沙結、疲れてるのね」

 私の手を取りながら「まあ、そうよね。誰にも姿をみられる訳にはいかないなんて神経すり減らして仕方がないでしょう」と仏壇に線香を添えた。姿をみられる訳にはいかない。母は私の事情を全て知っているかのような口ぶりだった。けれど、私は話していない。そもそもこの家に帰ってきたのは、十五年ぶりのことなのだ。

「でも、そんな中でもこうして会いにきてくれてお父さんもとっても喜んでくれると思うわ」

 なにこれ。なんなの? 次々と頭に浮かぶ疑問に、母の言葉に、頭が埋め尽くされおかしくなりそうだった。両手を合わせ、父の写真に向かって手を合わせる母に「ごめん、また来るから」と声をかけ家を飛び出した。