「ああ、アメリア。あんたの頼みなら」
ピアノの綺麗な旋律が鼓膜に触れる。私は自然と耳を傾けており、その音色がゆっくりと心を凪いでくれていることを、舌先で飴玉を転がすように味わっていた。だが、瞼を閉じかけて、首から顔へと巻き付くように彫られている蜘蛛のタトゥーが目に入る。
「ば、くさん」
呼び掛けた。私の目の前には獏さんが立っていた。ぼんやりと私の顔を眺めてから「どうしたの?」と笑みを向けてくる。少しの、間があった。
「あれ、私」
いつからここに? そう言いかけて、そもそも私はどうしてここに一人でいるのだろうという疑問が芽生えた。この店にきた覚えがない。今日一日、一体私はどうやって過ごしていたか、その記憶がない。もしかしたら夢をみているのかもしれない。獏さんは、色とりどりの酒瓶が並ぶ棚を背にし、そこから放たれた飴色の照明に包みこまれるようにしてカウンターの中に立っている。思わず、目の前にある木製のカウンターに指先で触れた。つめたい。確かにそう感じた。
「夢じゃないよ」
「え?」
「これは現実だ。あんたがここに来たのは八時間前だよ」
「……八時間」
「覚えてないのかい? ほら、あんたの服」
指をさされ、目を向ける。Tシャツに黒のレザージャケット、それから紺のスキニージーンズ。一瞬にして私の服じゃないと分かった。獏さんは「そんな服しか用意出来なくて悪いね」と笑う。ポケットから取り出した煙草に火をつけた。
「あんたがここに来た時、全身の服が焼け焦げてたから娘たちに服を買いに行かせたんだ」
獏さんが指先で挟んだ煙草を向けた方へと目を向けると、カウンターの端で三人の男性がトランプをしていた。服装はどこか女性的で、皆等しく顔にメイクを施している。
──焼け焦げてたから
男性たちをみながら、先ほど獏さんの放った言葉を思い浮かべていた。瞬間、全てを思い出した。鉄製の塊が床を転がっていたこと。身体に焼けるような痛みが走ったこと。眩い光にに包まれたこと。そうだ。私は、あの時。
「獏さん!」
カウンターから身体を浮かしていた。
「皆はどこですか?」
声を張り上げた私をみて、端に座っていた男性の内の一人が席を立った。だが、獏さんがあごをしゃくると、再び腰を下ろした。
「満たちは無事だよ。万が一の時の為にと用意しておいた避難所にいる」
「どこですか?」
「横浜」
「横浜のどこですか」
「ここだよ」
胸ポケットから取り出されたちいさな紙切れがカウンターの上に置かれた。飛びつくようにしてその紙を手にし広げる。住所が書かれていた。カウンターから腰をあげ背を向けた瞬間、「待ちな」と呼び止められた。
「さっきも言ったろ? 満たちは無事だ。それよりも、あんた何も覚えてないんだろ?」
「……どうしてそれを」
「あんたは、一人でここにきた」
獏さんはグラスを口元へと運び、舌先でその液体を味わうようにゆっくりと流し込んだ。
「全員を見捨ててね、一人でここに来たんだ」
「……見捨てた」
その言葉は錨のようなものなのかもしれなかった。ずたずたに私の胸を引き裂きながら、ゆっくりと身体の奥底へと堕ちていく。胸が痛い。全員が無事であることをもし先に聞いていなかったら、私は発狂していたかもしれない。考えなかった訳じゃ無かった。あのホテルで奴らに襲われた時、私は皆といた。なのに、今は一人。もしかしたら私はまた自分を見失い、思ってもいない行動をとってしまったのかもしれない。獏さんと話していた間、一度でも考えなかったと言えばそれは嘘になる。途端に足に力が入らなくなり、カウンターにもたれかかるようにして腰を下ろした。獏さんはそんな私をみて薄く微笑み、優しげな目を向けながら話してくれた。私達の意識は肉体に入り込んだ天使の魂によって千年という長い期間をかけて奪われていくということ。ただ、それよりも早くに天使の魂に侵食される場合もあるという。本当のところはどれくらいの期間で天使の魂に肉体を侵食されるのか分からないそうだ。「なにせサンプルが少ないからね」と獏さんは自嘲気味に笑った。
「あたしのタトゥーは」
煙草に火をつけてゆっくりと煙を吐き出しながら獏さんはぼんやりと宙を見上げた。
「天使の魂にどれくらい蝕まれているのかを表してる」
獏さんの身体は、左半身は指の先までタトゥーで埋め尽くされている。首筋から頬にかけてまでは蜘蛛のタトゥーが彫られており、その長い脚は身体の右半身へと今この瞬間も伸ばそうとしているようにみえた。
「これは、あくまで私の感覚での話だ。実際のところは、もうほとんどあたしの意識なんてものは食いつくされているのかもしれない。どうしてあんたに記憶がないことが分かったかというとね、このあたしもそうだからだ。突然見知らぬ場所に立っていたり、した覚えのない約束を果たせと見知らぬ人間から怒鳴られたことだってある。それに……いつの間にか人を殺めていたことだって。あんたもそうなんだろ?」
問い掛けられ、私は力なく頷いた。私は数年程前から記憶が飛ぶようになっていた。宮崎にいた頃は、綾子さんにおつかいを頼まれお弁当を手にしたまま海沿いの道を歩いていたはずなのに、いつの間にか店に辿り着いていた。神戸にいた時は気付いた時には夜になっており、陸斗を追放するか否かの決を取ることになったという話を、私は知らなかった。手紙の件についてもそう。ドアの隙間に挟まっていた手紙は私が見つけたという由奈は言うが、私にはその記憶がない。そして私は、つい数時間前に全員を見捨てたらしい。
「なんで私だけこんなに侵されるのが早いんですか?」
「さっきも言っただろ? 侵食されるまでの期間やその速さは人によって違う。あんたの肉体に宿った天使の魂が強ければ、その分だけ天使に呑まれる速さも早くなる。だから気を強く持ちな」
出来ることなら天使には呑まれたくない。そんな事は当たり前だが、その対処法がないのであればやりようがない。獏さんはそんな私の心境を悟ったのか微かに笑みを浮かべた。
「まあ確かにね、あんたも、あたしも、アメリアだって最後はそうだった。皆、最後は天使の魂に侵されていくんだ」
「……アメリア。確か、先生の」
聞き覚えのある名前に、気付いたらそう口にしていた。
「そうだ。よく覚えていたね」
「確か、死にたがってたって」
獏さんは顔をしかめながら煙を吐き出し、カウンターの上に置いた灰皿に煙草を押し付けた。それからちいさく頷いた。先生とアメリアという女性は想い合っていたのだという。老いることもなければ、死ぬこともない。互いにその苦しみや悲しみが分かるからこそ寄り添い、相手を想うその気持ちを生きる為の糧にした。やがて、二人は約束を交わしたのだという。死が2人を分かつ時は必ず一緒にいよう、と。
「あの日はね、凄い雨だった」
先生と獏さん、それからアメリアさんは一軒家を住居兼事務所にし、その当時何でも屋のような仕事をしており、依頼さえ受ければ人を殺める以外は何でもやったのだという。だが、アメリアさんは美しく、その分だけ人の目を引いた。年を取らないことを不審に思った近隣の住民の噂が奴らに伝わり、奴らに家を囲まれた。雨の日だった。
「アメリアに逃げてと言われた時、あたしは三人で逃げようって言った。でもね」
そこで言葉を切り煙草に火を付けた。
──そろそろ終わりにしたいと思ってたからちょうどいいのよ。
陰日向にひっそりと咲く花のような笑みを浮かべたのだという。
「あたしは何も言えなかった。その気持ちが痛い程によく分かったから。それを汲み取ってやらなくちゃならないって瞬時に思った。泣き叫ぶ満を気絶させ、抱えながら走って逃げたよ」
「どんな女性だったんですか?」
「容姿も内面も、その仕草一つまで、全てが美し人だった。アメリアはね、天使の能力まで美しいんだ」
「……天使の能力」
「ああ、あいつの指先は、触れたもの全てを灰に変える。それまで形をなしていたものがあいつが触れると砂のように崩れて終いには灰となって散る。最後にみた時は、触れることなく灰に変えれるようになってた」
その言葉を聞きながら、なぜか頭の中に白い手が過った。並木道を歩く女性は両手をひらりと持ち上げている。木々の枝から生えている葉は赤や黄色に色付いていた。けれど、その女性が通った傍から葉の先から順に砂のように崩れ去っていく。そうならなかったものは枯れ落ち、アスファルトの上をからころと転がっている。
「どうしたんだい」
私は目元を強く抑えていた。頭の中に幾つもの残像が浮かんでいる。この数週間で、それが日に日に強くなっている気がした。ゆっくりと瞼を開けると、獏さんが心配そうな顔で「なあ、あんた」と私をみつめている。
「その肉体に天使の魂が入り込んでいるという事実をちゃんと受け入れるんだ」
「受け入れる」
「ああ。あたしはちゃんと受け入れた。だから五百年間生きてこられた」
「一つ、聞いてもいいですか?」
問い掛けると、小さく頷いた。
「五百年間もの長い間、どうやって生き続けていたいって気持ちを持ち続けることが出来たんですか?」
獏さんに初めて会った時からずっと思ってたことだった。私は、たった三十三年で生きるという意味を見失いかけてた。獏さんは少し考える素振りをみせ、顎をしゃくった。その先にはカウンターの端に座る男性たちがいる。
「あの子達はね、あたしの娘なんだ」
皆等しく顔にメイクを施しており、先ほどから私と獏さんの会話に入ってこようとすらしない。時折笑みを溢しながら真剣にトランプをしている。
「全部で六人いる。全員が不老不死だよ」
獏さんはなんてことない顔で言ったが、私の口からは驚きのあまりに「えっ」という声が零れ落ちた。
「残りの三人は、事が起きてから満の指示でずっとあんた達の家族の家の近くに潜伏させてる。奴らの気配を感じ取ったらすぐに私の元へと連絡がくるようになってるからね」
先日家族の無事を確かめたいと先生に訴えかけた由奈に「皆さんのご家族には守護者をつけているので大丈夫です」と先生は言った。彼らがいるからそう言ったのか、と妙に納得した。
「私やあんたみたいな存在は、不老不死だとは言っても完全ではない。言ってみれば不完全なんだ。あたしたちの肉体は、他の天使たちがそうであったように天使の魂が抜け落ちたら死ぬんだよ。でもね、あの子達は違う」
「どう違うんですか?」
「あたしたちの肉体に流れる血液は、分け与えることが出来る。その適合者こそが、完璧な不老不死だ。肉体に天使の魂が宿っている訳ではないからそれに呑まれることも、抜け落ちることもない。でも、それと同時に老いることも死ぬこともない。人類が長年求め続けてきた不老不死の肉体はね、あの子達のような存在なんだ」
天使の血を分け与えられた適合者たち。一瞬にして頭に浮かんだのは、工藤と呼ばれる奴らの師団長の一人だった。獏さんは私の頭に浮かんだそれを汲み取るように「そう」と呟いた。
「今あんたの頭に浮かんだ奴もそうだ。完全な不老不死。恐らく奴らはそれを知ってる。奴らが本当に恐れているのはね、あたしたち天使ではなく自分たちと同じような適合者を増やされることだよ。適合者が更に不老不死の力を分け与えることは出来ない。だが、天使の魂を宿しているあたし達にはそれが出来る。だからこそ、奴らはあたし達を狙っている。自分たちのような人間をこれ以上増やさせない為にね」
獏さんは喉の奥へと、グラスに残っていた液体を流し込んだ。少しばかり軽くなったそれをカウンターの置き、ゆっくりと視線を彼らに向けた。
「さっき聞いただろ? どうやって生き続けていようって思えたんですかって。答えはあの子達だ。私には責任がある。いくら不老不死にしてくれと頼まれたとはいえ、血を分け与えた以上は幸せに生き続けさせる義務がある。あたしは神様じゃない。だから、この世界で生きる人たちが幸せでありますようにと願うことは出来ても、全員に手を差し伸べることは出来ない。でもね、あの子達だけなら」
獏さんは目を細めた。
「人は群れをなす生き物だ。友人間に、学校に職場。それから社会。それぞれの世界に大小はあっても、必ず幾つものコミュニティが生まれる。そして、多数の意見や思想はあたかも全員がそうであるというように捉えられ、少数派の人間を排除しようとする。あの子達のようにゲイであるということもそう。大多数の人間が異性を好きだから、それが自然の摂理だからという理由で、同性愛者は迫害されてきた。私はこの何百年間ずっとそれをみてきたんだ。傷付けられ、迫害され、場合によっては殺されることだってある。その結果、一部の同性愛者の中には過激な思想を持つものが現れ、同じ立場からみても苦言を呈したくなる現場もみてきた。でもね、あたし達は違う。そいつらのように多数の人間に無理にでも認めさせようとしてるんじゃない。ただ、あたし達がそういう風にしか生きられないことを受け入れて欲しいだけなんだ。同じ世界で、同じ空の下で、同じ空気を吸い、手を取り合って、ただ一緒に生きることを受け入れて欲しいだけなんだよ」
私は獏さんの送る視線の先に目を向けた。彼らは、今この瞬間の幸せを心底噛み締めているように感じた。
「それはね、天使として生きることにも通じるものがある。不老不死として生きる人間なんてそうはいない。世間はまだ知らないがもしこの事実が世に広まれば、同じような目に合うかもしれない。その時は、あの子達の傘になってあげたい。降りかかる悲しみや火の粉から守れる傘であり続けていたい。だから何百年も生きてる。あたしが死ぬとしたらあの子達を守る時か、名誉ある死をこのあたしが望む時だろうね」
誰かの為に傘になってあげたいとを想う。私ならと思い浮かべた時、真っ先に浮かんだのは自分の両親と由奈や翔太や陸斗、それから先生だった。会いたい、と思った。
「獏さん、皆のところに帰ります」
目を見てそう言った。獏さんはゆっくりと微笑み、「そうかい」と煙草に火をつけた。店を出てすぐのところにある階段に足をかけようとした時、お見送りをしてくれていた獏さんは「ちょっと手を貸しな」と私の手を取った。その上に手を重ねられた瞬間、ふわりとひかりが放たれそこから微かに熱を感じた。
「これがあたしの能力だ」
戸惑っていた私に微笑みかけてくる。
「あたしは人が持つ運を吸い取ったり、与えたりすることが出来る」
その瞬間、先日先生が「お代は今払います」と言って獏さんの前に腕を差し出したことを思い浮かべた。その後、血塗れでホテルに帰ってきたという事も。瞳に恐れが混じっていたのか獏さんは 「安心しな」と笑う。
「あんたからは運を吸い取ってないよ。逆に与えたんだ。少なくともこの先数時間の間はあんたの身に危険が及ぶことはない。この店が奴らに見つからないのはそれが証拠だよ。あたしが人から貰った運を垂れ流しにしてるから」
先生が獏さんの店に向かいますと言った本当の意味がようやく分かった。
「まあ勿論、あたしにも守れる範囲に限度があるから全員を守ってあげられる事は出来ないのが申し訳ないけどね。でも、あんたに今与えた運はきっとこの数時間いい風に作用するはずだ。もしかしたら本当の意味での天使であることを受け入れるひとつのきっかけになるかもしれない」
私はゆっくりと獏さんに重ねられた自分の手のひらを持ち上げた。少しだけ、以前みた時よりも白く感じた。
ピアノの綺麗な旋律が鼓膜に触れる。私は自然と耳を傾けており、その音色がゆっくりと心を凪いでくれていることを、舌先で飴玉を転がすように味わっていた。だが、瞼を閉じかけて、首から顔へと巻き付くように彫られている蜘蛛のタトゥーが目に入る。
「ば、くさん」
呼び掛けた。私の目の前には獏さんが立っていた。ぼんやりと私の顔を眺めてから「どうしたの?」と笑みを向けてくる。少しの、間があった。
「あれ、私」
いつからここに? そう言いかけて、そもそも私はどうしてここに一人でいるのだろうという疑問が芽生えた。この店にきた覚えがない。今日一日、一体私はどうやって過ごしていたか、その記憶がない。もしかしたら夢をみているのかもしれない。獏さんは、色とりどりの酒瓶が並ぶ棚を背にし、そこから放たれた飴色の照明に包みこまれるようにしてカウンターの中に立っている。思わず、目の前にある木製のカウンターに指先で触れた。つめたい。確かにそう感じた。
「夢じゃないよ」
「え?」
「これは現実だ。あんたがここに来たのは八時間前だよ」
「……八時間」
「覚えてないのかい? ほら、あんたの服」
指をさされ、目を向ける。Tシャツに黒のレザージャケット、それから紺のスキニージーンズ。一瞬にして私の服じゃないと分かった。獏さんは「そんな服しか用意出来なくて悪いね」と笑う。ポケットから取り出した煙草に火をつけた。
「あんたがここに来た時、全身の服が焼け焦げてたから娘たちに服を買いに行かせたんだ」
獏さんが指先で挟んだ煙草を向けた方へと目を向けると、カウンターの端で三人の男性がトランプをしていた。服装はどこか女性的で、皆等しく顔にメイクを施している。
──焼け焦げてたから
男性たちをみながら、先ほど獏さんの放った言葉を思い浮かべていた。瞬間、全てを思い出した。鉄製の塊が床を転がっていたこと。身体に焼けるような痛みが走ったこと。眩い光にに包まれたこと。そうだ。私は、あの時。
「獏さん!」
カウンターから身体を浮かしていた。
「皆はどこですか?」
声を張り上げた私をみて、端に座っていた男性の内の一人が席を立った。だが、獏さんがあごをしゃくると、再び腰を下ろした。
「満たちは無事だよ。万が一の時の為にと用意しておいた避難所にいる」
「どこですか?」
「横浜」
「横浜のどこですか」
「ここだよ」
胸ポケットから取り出されたちいさな紙切れがカウンターの上に置かれた。飛びつくようにしてその紙を手にし広げる。住所が書かれていた。カウンターから腰をあげ背を向けた瞬間、「待ちな」と呼び止められた。
「さっきも言ったろ? 満たちは無事だ。それよりも、あんた何も覚えてないんだろ?」
「……どうしてそれを」
「あんたは、一人でここにきた」
獏さんはグラスを口元へと運び、舌先でその液体を味わうようにゆっくりと流し込んだ。
「全員を見捨ててね、一人でここに来たんだ」
「……見捨てた」
その言葉は錨のようなものなのかもしれなかった。ずたずたに私の胸を引き裂きながら、ゆっくりと身体の奥底へと堕ちていく。胸が痛い。全員が無事であることをもし先に聞いていなかったら、私は発狂していたかもしれない。考えなかった訳じゃ無かった。あのホテルで奴らに襲われた時、私は皆といた。なのに、今は一人。もしかしたら私はまた自分を見失い、思ってもいない行動をとってしまったのかもしれない。獏さんと話していた間、一度でも考えなかったと言えばそれは嘘になる。途端に足に力が入らなくなり、カウンターにもたれかかるようにして腰を下ろした。獏さんはそんな私をみて薄く微笑み、優しげな目を向けながら話してくれた。私達の意識は肉体に入り込んだ天使の魂によって千年という長い期間をかけて奪われていくということ。ただ、それよりも早くに天使の魂に侵食される場合もあるという。本当のところはどれくらいの期間で天使の魂に肉体を侵食されるのか分からないそうだ。「なにせサンプルが少ないからね」と獏さんは自嘲気味に笑った。
「あたしのタトゥーは」
煙草に火をつけてゆっくりと煙を吐き出しながら獏さんはぼんやりと宙を見上げた。
「天使の魂にどれくらい蝕まれているのかを表してる」
獏さんの身体は、左半身は指の先までタトゥーで埋め尽くされている。首筋から頬にかけてまでは蜘蛛のタトゥーが彫られており、その長い脚は身体の右半身へと今この瞬間も伸ばそうとしているようにみえた。
「これは、あくまで私の感覚での話だ。実際のところは、もうほとんどあたしの意識なんてものは食いつくされているのかもしれない。どうしてあんたに記憶がないことが分かったかというとね、このあたしもそうだからだ。突然見知らぬ場所に立っていたり、した覚えのない約束を果たせと見知らぬ人間から怒鳴られたことだってある。それに……いつの間にか人を殺めていたことだって。あんたもそうなんだろ?」
問い掛けられ、私は力なく頷いた。私は数年程前から記憶が飛ぶようになっていた。宮崎にいた頃は、綾子さんにおつかいを頼まれお弁当を手にしたまま海沿いの道を歩いていたはずなのに、いつの間にか店に辿り着いていた。神戸にいた時は気付いた時には夜になっており、陸斗を追放するか否かの決を取ることになったという話を、私は知らなかった。手紙の件についてもそう。ドアの隙間に挟まっていた手紙は私が見つけたという由奈は言うが、私にはその記憶がない。そして私は、つい数時間前に全員を見捨てたらしい。
「なんで私だけこんなに侵されるのが早いんですか?」
「さっきも言っただろ? 侵食されるまでの期間やその速さは人によって違う。あんたの肉体に宿った天使の魂が強ければ、その分だけ天使に呑まれる速さも早くなる。だから気を強く持ちな」
出来ることなら天使には呑まれたくない。そんな事は当たり前だが、その対処法がないのであればやりようがない。獏さんはそんな私の心境を悟ったのか微かに笑みを浮かべた。
「まあ確かにね、あんたも、あたしも、アメリアだって最後はそうだった。皆、最後は天使の魂に侵されていくんだ」
「……アメリア。確か、先生の」
聞き覚えのある名前に、気付いたらそう口にしていた。
「そうだ。よく覚えていたね」
「確か、死にたがってたって」
獏さんは顔をしかめながら煙を吐き出し、カウンターの上に置いた灰皿に煙草を押し付けた。それからちいさく頷いた。先生とアメリアという女性は想い合っていたのだという。老いることもなければ、死ぬこともない。互いにその苦しみや悲しみが分かるからこそ寄り添い、相手を想うその気持ちを生きる為の糧にした。やがて、二人は約束を交わしたのだという。死が2人を分かつ時は必ず一緒にいよう、と。
「あの日はね、凄い雨だった」
先生と獏さん、それからアメリアさんは一軒家を住居兼事務所にし、その当時何でも屋のような仕事をしており、依頼さえ受ければ人を殺める以外は何でもやったのだという。だが、アメリアさんは美しく、その分だけ人の目を引いた。年を取らないことを不審に思った近隣の住民の噂が奴らに伝わり、奴らに家を囲まれた。雨の日だった。
「アメリアに逃げてと言われた時、あたしは三人で逃げようって言った。でもね」
そこで言葉を切り煙草に火を付けた。
──そろそろ終わりにしたいと思ってたからちょうどいいのよ。
陰日向にひっそりと咲く花のような笑みを浮かべたのだという。
「あたしは何も言えなかった。その気持ちが痛い程によく分かったから。それを汲み取ってやらなくちゃならないって瞬時に思った。泣き叫ぶ満を気絶させ、抱えながら走って逃げたよ」
「どんな女性だったんですか?」
「容姿も内面も、その仕草一つまで、全てが美し人だった。アメリアはね、天使の能力まで美しいんだ」
「……天使の能力」
「ああ、あいつの指先は、触れたもの全てを灰に変える。それまで形をなしていたものがあいつが触れると砂のように崩れて終いには灰となって散る。最後にみた時は、触れることなく灰に変えれるようになってた」
その言葉を聞きながら、なぜか頭の中に白い手が過った。並木道を歩く女性は両手をひらりと持ち上げている。木々の枝から生えている葉は赤や黄色に色付いていた。けれど、その女性が通った傍から葉の先から順に砂のように崩れ去っていく。そうならなかったものは枯れ落ち、アスファルトの上をからころと転がっている。
「どうしたんだい」
私は目元を強く抑えていた。頭の中に幾つもの残像が浮かんでいる。この数週間で、それが日に日に強くなっている気がした。ゆっくりと瞼を開けると、獏さんが心配そうな顔で「なあ、あんた」と私をみつめている。
「その肉体に天使の魂が入り込んでいるという事実をちゃんと受け入れるんだ」
「受け入れる」
「ああ。あたしはちゃんと受け入れた。だから五百年間生きてこられた」
「一つ、聞いてもいいですか?」
問い掛けると、小さく頷いた。
「五百年間もの長い間、どうやって生き続けていたいって気持ちを持ち続けることが出来たんですか?」
獏さんに初めて会った時からずっと思ってたことだった。私は、たった三十三年で生きるという意味を見失いかけてた。獏さんは少し考える素振りをみせ、顎をしゃくった。その先にはカウンターの端に座る男性たちがいる。
「あの子達はね、あたしの娘なんだ」
皆等しく顔にメイクを施しており、先ほどから私と獏さんの会話に入ってこようとすらしない。時折笑みを溢しながら真剣にトランプをしている。
「全部で六人いる。全員が不老不死だよ」
獏さんはなんてことない顔で言ったが、私の口からは驚きのあまりに「えっ」という声が零れ落ちた。
「残りの三人は、事が起きてから満の指示でずっとあんた達の家族の家の近くに潜伏させてる。奴らの気配を感じ取ったらすぐに私の元へと連絡がくるようになってるからね」
先日家族の無事を確かめたいと先生に訴えかけた由奈に「皆さんのご家族には守護者をつけているので大丈夫です」と先生は言った。彼らがいるからそう言ったのか、と妙に納得した。
「私やあんたみたいな存在は、不老不死だとは言っても完全ではない。言ってみれば不完全なんだ。あたしたちの肉体は、他の天使たちがそうであったように天使の魂が抜け落ちたら死ぬんだよ。でもね、あの子達は違う」
「どう違うんですか?」
「あたしたちの肉体に流れる血液は、分け与えることが出来る。その適合者こそが、完璧な不老不死だ。肉体に天使の魂が宿っている訳ではないからそれに呑まれることも、抜け落ちることもない。でも、それと同時に老いることも死ぬこともない。人類が長年求め続けてきた不老不死の肉体はね、あの子達のような存在なんだ」
天使の血を分け与えられた適合者たち。一瞬にして頭に浮かんだのは、工藤と呼ばれる奴らの師団長の一人だった。獏さんは私の頭に浮かんだそれを汲み取るように「そう」と呟いた。
「今あんたの頭に浮かんだ奴もそうだ。完全な不老不死。恐らく奴らはそれを知ってる。奴らが本当に恐れているのはね、あたしたち天使ではなく自分たちと同じような適合者を増やされることだよ。適合者が更に不老不死の力を分け与えることは出来ない。だが、天使の魂を宿しているあたし達にはそれが出来る。だからこそ、奴らはあたし達を狙っている。自分たちのような人間をこれ以上増やさせない為にね」
獏さんは喉の奥へと、グラスに残っていた液体を流し込んだ。少しばかり軽くなったそれをカウンターの置き、ゆっくりと視線を彼らに向けた。
「さっき聞いただろ? どうやって生き続けていようって思えたんですかって。答えはあの子達だ。私には責任がある。いくら不老不死にしてくれと頼まれたとはいえ、血を分け与えた以上は幸せに生き続けさせる義務がある。あたしは神様じゃない。だから、この世界で生きる人たちが幸せでありますようにと願うことは出来ても、全員に手を差し伸べることは出来ない。でもね、あの子達だけなら」
獏さんは目を細めた。
「人は群れをなす生き物だ。友人間に、学校に職場。それから社会。それぞれの世界に大小はあっても、必ず幾つものコミュニティが生まれる。そして、多数の意見や思想はあたかも全員がそうであるというように捉えられ、少数派の人間を排除しようとする。あの子達のようにゲイであるということもそう。大多数の人間が異性を好きだから、それが自然の摂理だからという理由で、同性愛者は迫害されてきた。私はこの何百年間ずっとそれをみてきたんだ。傷付けられ、迫害され、場合によっては殺されることだってある。その結果、一部の同性愛者の中には過激な思想を持つものが現れ、同じ立場からみても苦言を呈したくなる現場もみてきた。でもね、あたし達は違う。そいつらのように多数の人間に無理にでも認めさせようとしてるんじゃない。ただ、あたし達がそういう風にしか生きられないことを受け入れて欲しいだけなんだ。同じ世界で、同じ空の下で、同じ空気を吸い、手を取り合って、ただ一緒に生きることを受け入れて欲しいだけなんだよ」
私は獏さんの送る視線の先に目を向けた。彼らは、今この瞬間の幸せを心底噛み締めているように感じた。
「それはね、天使として生きることにも通じるものがある。不老不死として生きる人間なんてそうはいない。世間はまだ知らないがもしこの事実が世に広まれば、同じような目に合うかもしれない。その時は、あの子達の傘になってあげたい。降りかかる悲しみや火の粉から守れる傘であり続けていたい。だから何百年も生きてる。あたしが死ぬとしたらあの子達を守る時か、名誉ある死をこのあたしが望む時だろうね」
誰かの為に傘になってあげたいとを想う。私ならと思い浮かべた時、真っ先に浮かんだのは自分の両親と由奈や翔太や陸斗、それから先生だった。会いたい、と思った。
「獏さん、皆のところに帰ります」
目を見てそう言った。獏さんはゆっくりと微笑み、「そうかい」と煙草に火をつけた。店を出てすぐのところにある階段に足をかけようとした時、お見送りをしてくれていた獏さんは「ちょっと手を貸しな」と私の手を取った。その上に手を重ねられた瞬間、ふわりとひかりが放たれそこから微かに熱を感じた。
「これがあたしの能力だ」
戸惑っていた私に微笑みかけてくる。
「あたしは人が持つ運を吸い取ったり、与えたりすることが出来る」
その瞬間、先日先生が「お代は今払います」と言って獏さんの前に腕を差し出したことを思い浮かべた。その後、血塗れでホテルに帰ってきたという事も。瞳に恐れが混じっていたのか獏さんは 「安心しな」と笑う。
「あんたからは運を吸い取ってないよ。逆に与えたんだ。少なくともこの先数時間の間はあんたの身に危険が及ぶことはない。この店が奴らに見つからないのはそれが証拠だよ。あたしが人から貰った運を垂れ流しにしてるから」
先生が獏さんの店に向かいますと言った本当の意味がようやく分かった。
「まあ勿論、あたしにも守れる範囲に限度があるから全員を守ってあげられる事は出来ないのが申し訳ないけどね。でも、あんたに今与えた運はきっとこの数時間いい風に作用するはずだ。もしかしたら本当の意味での天使であることを受け入れるひとつのきっかけになるかもしれない」
私はゆっくりと獏さんに重ねられた自分の手のひらを持ち上げた。少しだけ、以前みた時よりも白く感じた。