「沙結には本当に申し訳ないことをしたと思っています」

 私達は誰一人として口開くことなく、翔太の話に耳を澄ませていた。ソファチェアに座る翔太は膝のうえに立てた腕に額をつけ、顔を歪ませた。十五年前の日々を思い浮かべているのかもしれない。

 「天秤が傾いたんです」

 ぽつりと翔太が呟いた。ここから先の出来事を私は知らない。どうして私との約束を破ったのか。どうして私を一人にしたのか。早く答えが知りたい。

「天秤ってなに?」

 だから、そう問い掛けた。

「沙結と、俺の母さんだよ」

 翔太は母子家庭だった。翔太が五歳の頃に父親は病気で亡くなっており、それから先は女で一つで育ててくれていたのだという。

「母さんには、もう俺しかいなかった」

 残された家族は翔太だけ。だから、たった一人の家族を失った自分の母親が心配で仕方なかった翔太は、天使の能力を使って時折様子を見にいっていたのだという。だが、やがて耐えられなくなった。私達全員が死を偽装してから五年目の春だった。翔太の母親は夫を失い、たった一人の息子まで失い、心を病んでいた。働きに出ることすら出来ず、国から降りてくるお金だけを頼りにカーテンも閉め切った明かりの入らない部屋で閉じこもっていた。そんな母親を見続けている内に翔太は支えることを決めた。全てを打ち明け、自分が生きていることを決して他言してはいけないことを伝え、月の半分を母親と過ごし、残りの半分を自分と母親の生活費に充てた。本当は毎日一緒にいたかったが、新しく移り住んだ土地のアパートの家賃や生活を捨てると先生に怪しまれる。だから、月の半分は働くしかなく、私に割く時間もお金も無くなってしまったのだという。

「奴らが接触してきたのは、今から二ヶ月程前のことでした」

 翔太の家は東京の大久保にある。駅やその周辺には監視カメラも多く、母親に会うために何度も足を運んでいた翔太は監視カメラに映り込んでしまった。ある日、家に帰ると口や手足をガムテープで塞がれた母親が床に転がっており、その周りには黒いコートの男たちが立っていた。

「どうして僕に相談しなかったんです!」

 ずっと押し黙って聞いていた先生が初めて声を荒げると、ふっと笑った。

「言える訳ありません。母さんは人質に取られたんです。本当なら俺も母さんも、あの場で殺されるはずでした。でも、ある条件を提示すると奴らはあっさりと受け入れてくれました。それどころか俺の望みを聞いてくれると言ったんです」

 聞きながら、私は胸を抑えた。鼓動が速い。なにか、嫌な予感がした。

「佐藤秋穂。先生が言ったようにあの女性のインフルエンサーの正体は俺です。最初にXに俺たちが生きていると告発した匿名のアカウントもそうです。ある時にXでもお金を稼げると知り、少しでも母さんの生活を楽に出来るようにと架空の女性のアカウントを立ち上げました。これから来そうなものをピックアップして文章に書いていたら運良くバズり、いつの間にかフォロワーは十一万人を超えていました。でも、まさかこんな使い方をする事になるとは思わなかった」

 翔太は床に置いていた飲みかけのコーラに手を伸ばし、口に運ぶとごくりと喉を鳴らした。

「奴らにはこう提案しました。俺が匿名のアカウントを使って全員が生きていることを告発し、それからフォロワーが十一万人いるアカウントで拡散して誘い出すと」
「何を、言ってるんですか?」

 先生が目を見開いた。

「先生の性格は良く分かっています。慎重であるがゆえに自らが作り出したルールに縛られる傾向がある。だからこそ、あのアカウントで俺たちが生きていること拡散させたら、きっと皆を集めると思いました。でも、事態はそれよりも早く動いた。僕が行動を起こすよりも早く、沙結の元に手紙が届いた。正直、これは想定外でした。冥土の土産に一つ教えてあげますが、Xにポストした二つのアカウントは僕ですが手紙に関しては無関係です。ユダは恐らく僕以外にもいますよ」

 ベッドから腰を浮かせ先生が立ち上がろうとした時、「すみません先生」と翔太が呟いた。その顔は一切の感情を纏ってはいなかった。

「先生がおっしゃて下さった通りに僕は天使の能力の鍛錬を惜しまなかった。身体を透明にすること。そのうえ物質をすり抜けるようにすること。それの切り替えや、あるいはそのどちらも同時に行うことは前から出来ました。でも、僕は嘘をつきました。以前先生に尋ねられ、透過出来る時間は五分だと言いましたが、本当は三十分程出来るんです」

 「それと」と言いながらスボンの左ポケットに手を伸ばした。

「以前は指先で触れなければ僕以外のものを透過させることは出来ませんでしたが、今は身体に触れるもの全てを透過させることが出来るんです。それも、部分的に。先生にさっき渡した携帯は仮のものです」

 ポケットの中から何かを摘み出したかのような動きにみえたが、翔太の手のひらには何も乗っていない。だが、「僕と奴らが繋がってる携帯はこっちです」と言った瞬間、そこに黒い携帯が現れた。画面が光を放っている。翔太はそれを私達にみせてくる。通話中と表示されていた。

「逃げろっ!」

 それをみた瞬間、先生が声を張り上げた。だが、遅かった。凄まじい音が鼓膜に触れたかと思えば、何かが窓ガラスを突き破ってきた。ガラス片が飛び散り、煙が一瞬にして広がる。それが目に染みると焼けるような痛みが走り、思わず身体を仰け反らせた私はベッドから床へと転がり落ちた。見上げた先には翔太がいた。椅子に腰を掛けたまま微動だにしていないが、ぐしゃぐしゃに顔を歪め涙を溢している。翔太。そう呼び掛けようと手を伸ばした次の瞬間、翔太の頭が不自然な向きに大きく傾き、壁一面に血しぶきがかかった。

「いやぁぁぁっ、翔太!」

 すぐに駆け寄ろうと身体を起こそうとすると、「沙結!」と陸斗に身体を抑えつけられた。振り返る。

「いいから、伏せてろ」

 そう呟いた陸斗も泣いていた。瞬間、部屋の気温が一気に下がった気がした。窓の外から撃ち込まれたものと、割れた窓ガラス全体が氷に覆われている。先生がやったようだった。部屋の中は煙で満ちており、視界がぼやけている。だが、床に倒れている翔太だけはよくみえた。額から血を流したまま、大きく目を見開いている。そこに先生が駆け寄ってきた。翔太の身体を揺すっている。

「翔太くん!」

 何度も呼び掛けている。こめかみの辺りに空いた黒い穴がゆっくりと塞がっていったのはそのすぐ後だった。ひゅっと息を溢し、大きく咳き込み始めた。自分は一度死に再び息を吹き返したことをゆっくりと自覚しているのか、翔太は呆然としている。

「翔太くん」
「せん、せい。俺は、化け物なんですか?」

 息も絶え絶えになりながらそう言った。先生は自分の膝のうえに翔太の頭をのせていた。血に塗れた翔太の前髪を指先でそっとよけてあげている。

「ごめんなさい……先生、皆」
「何をしたんですか」
「俺は、母さんを、人質に取られて、皆のことを売りました。奴らが約束してくれたんです。俺を、普通の人間に戻してくれると。以前のような何でもないような人生に、戻してくれるって」
「翔太くん、よく聞いて下さい。一度でも天使になった人は、もう二度と普通の人間には戻れません」

 部屋の中に由奈の叫び声が放たれた。「先生!」と何度もそう呼び掛けている。

「僕たちが人に戻れるとしたら、天使の魂がこの身から抜け落ちて死ぬ時だけです。君は、奴らにはめられたんです。きっと君のお母さんはもう」

 苦しげに先生がそう言った瞬間、翔太が唸り声をあげた。叫びにも似たようなその声が、私の心を切り裂いた。翔太は普段感情をあまり表に出すことはない。その翔太が、こんなにも悲しげに叫んでいる。ただ普通の人として生きていたかっただけ。お母さんと、一緒に過ごしたかっただけ。なのに、それなのに、どうしてこんなに苦しめられなければならないの。

──世界のバランスを壊しかねない存在を排除する為に作られた組織です。

 先生が以前放った言葉が、頭の中で反芻される。世界のバランス。そんなもの、私達には関係ない。胸の中で芽生えたちいさな怒りはあっという間に膨れ上がり、抑えられそうになかった。

「陸斗、どいて」

 私の身体の上には陸斗がいた。私の目を見た瞬間、すっと身体を動かした。許さない。絶対に許さない。あいつらを、一人残らず殺してやる。身体を起こした。先生が部屋に撃ち込まれたものを氷結してくれたおかげで部屋に満ちていた煙は薄くなっていた。

「沙結さん、待って下さい」

 先生に呼び掛けられる。振り返らなかった。

「あいつらを殺します」

 部屋の扉の向こうからは、幾つもの足音が聴こえていた。きっと通路の辺りにも何人かいる。

「翔太をそんな目に合わせた奴らを私は絶対に許しません」

 私の怒りは、翔太には向いていなかった。たとえ私達をはめたという事実があったとしても、その状況に追い込んだ奴らの事が許せなかった。

「出るなら全員で出ましょう」

 先生はそう言って私達全員に視線を配らせた。

「この扉の先に何人いるか分かりません。ホテルから脱出出来たら真っ直ぐに獏さんの店へと向かいます。ただ、あの場所を知っているのは僕と沙結さんだけだ。もし五人で向かうことが出来ない状況に陥った場合は、必ず僕か沙結さんのどちらかの後を追いかけて下さい」

 その声に翔太以外の全員が頷いた。先生はそんな翔太に優しげに目を向けた。

「君は許されないことをしました。それは、君自身もよく分かっていると思います」

 翔太は目元を拭いながらも、何度も頷く。

「過ちは正すことが出来ます。時間は掛かるかもしれない。皆は、許してくれないかもしれない。だけど、君が罪と向き合う姿を皆にしっかりと見せればいずれは」

 その言葉に翔太はゆっくりと身体を起こそうとする。先生が肩を貸した。私はそれをみながら目元を抑えていた。罪。その言葉が鼓膜に触れてから、頭の中で赤い傘をもつ女性や、(つた)の巻き付いた家がみえる。残像が浮かび上がっている。なんでこんな時にと目を擦る。

「右側の通路の奥に……おそらく五人はいます」

 翔太が様子をみてきてくれたようだった。先生はちいさく頷いてから冷蔵庫からペットボトルを取り出し、由奈の手元へとひらりと投げた。

「どれくらいの速さで飛ばせますか」

 その一言で由奈は悟ったようだった。

「前に試した時は木とかは粉々になったけど」
「分かりました。部屋から出た瞬間、僕が右側の通路には氷の壁を作ります。万が一左側の通路からも奴らが出てきた場合、由奈さんはその水の銃弾を出来るだ奴らに向けて下さい。沙結さん、陸斗くん、翔太くんは不測な事態が起きた時のサポートに回って下さい」
「まあ、俺の力は身体に触れられないとなんの意味もないから使い物にならないもんな」

 萎れた花のように笑みを溢す陸斗に、先生は「万が一の時は頼りにしてます」と笑った。その瞬間、それまで銃弾を防いでくれていた氷の壁が割れ、部屋の中へと入り込んできた何かが陸斗の脇腹へと突き刺さるように当たった。陸斗は弾かれたように壁に打ち付けられ、床に転がった鉛の塊のようなものからは煙が溢れ出した。

「部屋から出て下さい! 早く!」
「えっ、陸斗は?」

 由奈が声をあげると、「陸斗くんは死にません。奴らを排除した後で迎えにくればいい」と先生が勢いよく扉を開けた。私たちもそれに続く。等間隔に並ぶ扉が廊下の奥まで続いている。私達の部屋から二つ程先の部屋の前に先生が氷の壁を作り出した。ひやり、とした冷気が霧のように足元へと流れていった。次の瞬間には、金属が破裂するような音に鼓膜を引き裂かれそうになる。びしっ、びしと、と氷が軋む音がたつ。おびただしい数の銃弾が撃ち込まれているようだった。壁の向こうにはうっすらと人影がみえる。

「向こうからも足音が聴こえる」

 由奈が指を指す方向からは確かに無数の足音が聴こえた。通路の左側。突き当りには大きな窓ガラスがあり、その手前には確か階段がある。

「由奈さん、そっちは任せますっ! 僕の壁はもうすぐ破られそうだ」

 先生は声を張り上げる。そうしなければ、銃声によって一瞬にして掻き消されてしまう程の音が通路には満ちていた。じゃり、という音を立てながら床を這うようにして陸斗が部屋から出てくる。

「大丈夫ですか?」

 先生が横目にみながら、声をかける。

「やっと……痛みがマシになってきた。あれ、銃だよな? 銃で撃たれるのってこんなに痛いのか。痛みで吐きそうになった」
「どうやら、奴らは本気で僕たちのことを殺すつもりのようです」
「先生っ!来るよ!」

 由奈が声を張り上げた時には床に置かれたペットボトルの中から吸い上げらるように中に入っていた液体が由奈の身体に纏わりつき、やがてそれが細切れに分裂していった。無数のちいさな水の塊が由奈の身体の周りで浮いている。

 由奈の目は青く染まっていた。右手をゆっくりと持ち上げた瞬間、通路から飛び出してきた三人の男の方へと向かって周りに浮いていた水が凄まじい勢いで飛んでいく。男たちが身に纏っている特殊部隊のような、黒い鎧を思わせる服から血しぶきがあがった。真後ろにあった窓ガラスや壁にも穴があいている。だが、悲痛な声をあげる三人の男をみて由奈の動きが止まった。

「由奈さん!」

 振り向きざまに先生が声を張り上げた。

「何をしてるんです。早く殺して下さい!」
「……出来ない。由奈は、人を殺したくない」

 数秒の出来事だった。人を殺したくない。その数秒の躊躇いが、下腹部と左肩に銃弾を浴びる結果を招いた。ゆらりゆらりと揺れながら倒れ込んだ由奈をみた瞬間、私は奴らの方へと目を向けた。先程由奈が殺すことを躊躇った男たちがこちらに銃を向けていた。一瞬にして怒りで染まった私は、その三人に全身の身体を炎で包まれる幻覚をみせた。叫び声をあげる三人の元へと、ゆっくりと歩みを進めた。殺してやる。殺してやる。私は、私の大切な友達を傷付ける人間を許さない。

 歩数で言えばあと二十歩程のところだった。持ち上げた右腕を床に転がりながら叫ぶ男たちに向けていると、通路の奥にある割れた窓ガラスから一人の男が飛び込んできた。一瞬にして銃を向けられる。死ぬと思った。だが、次の瞬間には風のような速さで何かが私の前に立ち塞がり、銃弾を受けながらもその男に掴みかかった。翔太だった。力付くで窓の方へと押し付けていき、その手前で二人の姿が一瞬消えたかと思えば、窓から外に出た瞬間二人の姿が浮かび上がった。重力に導かれるように二人は私の視界から一瞬にして消えた。その時だった。

「沙結、伏せろぉ!」

 誰かが私の名を呼んだ。それに溶け合うように、床の上を何かが転がっていく音が聴こえた。振り返る。金属製の、ちいさなボールのようなものだった。なにこれ。ふいに頭にその言葉が頭に浮かぶ。その頃には身体に焼けるような痛みが走り、目の前は眩いひかりに包まれていた。