ようやくこの町での生活もフルリでの仕事にも慣れ始めた頃だった。仕事を終えたあと、自転車で並木道を抜け、それから防波堤沿いを通り、ようやく辿り着いたアパートの前には一人の男性が立っていた。辺りは夜が溶け落ち暗かったけれど、その身体の輪郭や溢れ出る空気感からすぐに誰か分かった。私は、自転車を乗り捨て駆け寄った。

「翔太、どうして? なんでここにいるの?」

 私達はそれぞれが身を隠している県までは知っていたが、正確な場所までは知らなかった。知れば、会いたくなる。それは、ルールに反する。だから、と先生は一人一人に潜伏する場所を伝えたが決して他言する事を許さなかった。勿論それは翔太も例外ではない。だからこそ、私の住むアパートの前にいる時は驚きを隠せなかった。

「翔太。なんで?」

 翔太の腕に抱かれながら問い掛けた。翔太は目に涙を浮かべながら話してくれた。私達が離れ離れになったあの日、翔太はこのまま十五年もの間私に会えないなんて無理だ、と私のあとを付けてきていたのだという。防波堤で泣き崩れる私をみて何度も声をかけようとは思ったが、一人の女性に声を掛けられていたからやめた。それから一年の間は、慎重な先生のことだから様子を見に来る可能性がある為この日まで私の前に姿を現さなかったのだということを、私の部屋で話してくれた。

 翌日には、私が移り住んだ町を案内して回った。

「みて、ここの防波堤から向こうの水平線まで綺麗にみえるの」

 私はその海の果てへと指を指す。防波堤に登り、二人横並びになって腰を下ろしていた。翔太は目を細めながらいいなぁと呟いた。

「翔太」

 水平線をみながら言った。風は少しつめたかったけれど、透き通るような青さを持つ空と海が綺麗だった。

「会いにきてくれてありがとう」

 微笑みかけるとそっと身体を寄せてくれる。

「あの日、沙結が駅の方へと歩いていくのをみて気持ちを抑えられなかった」

 沙結。この一年は美月という名前で過ごしていた為にそう呼ばれるだけで嬉しかった。私の、本当の名前。

「十五年も会えないなんて、俺には無理だった」
「私も」

潮の香りが孕んだ風が優しく頬を撫でてくれる。翔太の指先は、それよりもうんと優しく私の頬に撫でてくれる。目を閉じて唇を重ねた。身体の奥底から湧き上がる気持ちが溢れそうだった。もっと触れたい。もっと一緒にいたい。叶うことなら、ずっとこのまま二人で。そんな風に思いながら目を開けると、目の前に澄んだ瞳があった。二重幅の均整のとれた瞼の中にある、綺麗な瞳。私はいつも、この瞳に吸い込まれそうになる。自分から唇を重ねにいった。恥じらいも、躊躇いもなく、何度も青い空の下で唇を重ねた。

「たった一年でルール破っちゃったな俺たち」
「だね」

 防波堤に寝転びながら二人で空を見上げ、微笑みあった。

 その日の内に綾子さんと宗弘さんにも紹介した。彼氏だと紹介するといろいろと深く聞かれそうだったので友達だと嘘をついた。綾子さんは「ほんとに優しくていい子。息子にしたい」と抱き締める程に翔太を気に入ってくれていた。本当はこの町でずっと一緒にいたかったが、先生の性格からして隠れて様子を見に来る可能性は大いにある。だから、毎月の1日は必ず会いにくるよ、と翔太は約束してくれた。それ以来、私は月の終わりからそわそわとし始め、毎月訪れる1日という日付を待ち遠しく思うようになった。

 四年だった。そんな日々が続いたある日、それは突如終わりを告げた。毎月の1日。その日も翔太がくるはずだった。メイクをし、部屋を片付け、翔太が大好きなカツカレーを食べさせてあげようと、朝から準備をしていた。だが、夜になっても翔太は来なかった。翔太の携帯の番号は知らない。知ることは出来たけれど、私達の携帯は先生から与えられたもので、発着信の履歴はこちらで確認出来ますので間違っても個人間で連絡を取り合おうなどと思わないで下さい、と言われていた為に番号を交換しようとすら思わなかった。翌日も、その翌日も、翔太は現れなかった。私は数ヶ月ずっと待ち続けていた。何かあったのかもしれない。そう思い、年に一度の定期連絡の時にそれとなく先生に尋ねてみると、翔太くんは変わらず元気そうでしたよ、と返され私は悟った。もう、翔太は私の元を尋ねて来ることはないのだと。

 それから先の十年間は、まさに地獄だった。翔太という存在は、私が東堂沙結であるという証明のようなものであったということを、いなくなってから気付いた。綾子さんや宗弘さんは私に優しくしてくれた。沢山の愛も貰った。けれど、それはあくまで佐久間美月としての私で、心の奥底まで満たされることは無かった。私の、本当のお父さんとお母さん。高校時代の大切な友達。平凡だったけど、幸せだった日々。それらの大切な記憶の世界に、私は翔太といる時だけ足を踏み入れることが出来たのだ。毎月訪れる1日は唯一孤独を忘れられる瞬間だった。薬のようなものだったのかもしれない。それが無くなったあの日から、私の心は次第に孤独に|蝕〈むしば〉まれていった。