私達の中にユダ──裏切り者がいる。その事実が、信頼や信用といった人が安心する、ある種担保(たんぽ)のようなものを粉々に打ち砕いた。

「ねぇ、沙結」

 振り向くと、隣に座っていた由奈が私に目を向けてきていた。疑心を孕んだような、つめたい眼差しだった。

「さっき部屋に届いた手紙を覚えないってとぼけてたけど何で?」
「えっ?」
「あの手紙が扉の隙間に挟まってるのを見つけたのって沙結だよね?」

 再び「えっ」という声にもならないものが口から零れ落ちる。私が、あの手紙を。どれだけ記憶の海に手を伸ばしてもそれを思い出せなかった。

「沙結が覚えてないはずないんだよ。そのとぼけてる理由を教えてよ」

 畳み掛けるようにして問い掛けてくる。私は言葉を紡ぐことが出来なかった。そんな私を悟ったのか「由奈、沙結は混乱してるだけだよ」という翔太の声が鼓膜に触れた。

「最初の手紙も、今回の手紙も、宛名は全部沙結だった。自分で自分に手紙を送りつけるはずがないだろ? もしあの手紙を書いた犯人を探したいなら真っ先に沙結を選択肢から外さないと時間を無駄にするだけだ」

 翔太に諭され、渋々といったかたちで由奈が頷く。それから「由奈だって沙結を疑いたい訳じゃないの。ただ、信じたいからああ言っただけだから」と手を握られ、私は「分かってるよ」と今の自分に出来る精一杯の笑みを向けた。けれど、本当はおかしくなりそうだった。由奈が言うように手紙を見つけたのが私ならどうして何も思い出せないのだ。夜の十時から深夜の一時まで、その三時間の記憶が頭の中からすっぽりと抜け落ちている。

「お前はどうなんだよ」

 ベッド脇にあるソファチェアに腰掛けている陸斗が送る視線の先には、翔太がいた。

「えっ、俺?」

 翔太は自分の顔に人差し指を向け、陸斗はちいさく頷いた。

「この三時間の間に部屋から出たのは由奈と沙結とお前だけだからな。あの手紙をドアに挟む為には一度扉を開く必要がある。全員の気が張り詰めている中、扉の隙間に手紙を挟むなんて簡単なことじゃない。万が一挟みが甘かったら手紙は落ちて物音で気付かれるしな」
「だろうね。だから何?」
「でも、お前なら簡単に出来るだろ? 手紙を透過させてから能力を解除したら扉を閉めたままでも手紙を挟むことが出来る。それも音も無くな」

 陸斗の説明は理にかなっていた。確かに翔太の力ならそれが可能だ。だが、翔太は腑に落ちないようだった。

「それを言うなら全員が可能だろう。沙結は俺たち全員に幻覚をみせればいいし、由奈は風を操ればいい。陸斗は、操れる人間を駒のように使えばその椅子に腰掛けたまま可能じゃないの? それが出来ないのは先生だけだ」

 氷結。それが先生の能力だ。翔太が説明してくれたように先生の能力をドアの隙間に手紙を挟むことに用いるのは難しい。先生に皆の視線が集まる。窓の向こうに広がる東京の夜景を眺めていた。私は先生の背をみながら先程翔太が放った言葉を思い返していた。駒のように。その言葉がやけに強調されており、皮肉じみていた。

「言いたいことでもあんのか」

 陸斗自身にもそれは伝わったようだった。

「今日店に来ていた女性」

 翔太の澄んだ瞳がゆっくりと陸斗に向けられる。

「あんなことしていいって、本気で思ってるの?」
「あ?」

 陸斗は眉間に皺を寄せ、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

「生きる為だとか言ってたけど、それを言うなら彼女もそうだよ。身体を操ってお金まで使わせて、それで彼女の生活に支障をきたしたらどうするんだよ」
「そんな綺麗事ばかりで通用する世の中じゃねぇんだよ」

 陸斗は翔太の元へと詰めよっていったが、翔太は臆することなく続ける。

「この世界は残酷で理不尽極まりないって事くらい僕だって分かってる。でも、今この瞬間も幸せに生きている人たちの生活を奪いかねない行為はやめるべきだよ」
「そんな甘いことばっか言ってたら生きていけねえよ」

 少し前から翔太の胸元は陸斗に抉るように掴まれていた。空気がひりついている。みながら「もういい加減にしなよ。二人ともやめて」と由奈が声をかけている。

「誰が」

 翔太が陸斗の目を向けながらぽつりと呟く。

「誰が、生きていくつもりだと言った」
「あ?」
「不老不死にわけの分からない力。僕たちみたいな存在はこの世界に蔓延(はびこ)る膿みたいなものだ。幸せになるべきなのは彼らだよ。今この瞬間も何気ない日常を生きている普通の人たち。彼らが幸せである為なら僕たちなんか死んだって構わない。そんな事はこの世界全体でみたら些細なことだよ。生きる為だ? 笑わせんなよ。陸斗、お前は彼女の身体を操って日銭を稼ごうとしてたけど、逆にお前が彼女の生きる糧にでもなって死ぬべきなんだ」

 この世界のバランスの崩しかねない存在は排除する。翔太の放った言葉は、まるでequlitus (エクリタス)のようだった。つめたい眼差しを向けながら言い切ったその瞬間、陸斗の目が大きく見開かれ、振りかぶった拳が翔太の頬を撃ち抜いた。壁に倒れ込んだ翔太に馬乗りに乗り、もう一度頬を撃ち抜いた。私と由奈は咄嗟に駆け出し陸斗の身体を引き剥がそうとしたが、陸斗の身体はぴくりとも動かない。腕力では無理だと思い、幻覚をかけた。

「さ、ゆ、てめぇ、何しやがんだ」

 口の端から唾液を垂らし、息を荒げながらみつめてくる陸斗に「ごめんね。でもこうするしか無かったから」とだけ告げ、翔太に駆け寄った。寸前まで目の周りに出来ていた痣も、腫れていた顔も、すっかりと引いていた。

「気は済みましたか?」

 振り返ると、それまで一言も発していなかった先生がこちらをみていた。私達全員に視線を配り「茶番は、もう終わりです」と言った。