先生が私の住むこの町に来てくれたのは、その翌日のことだった。

「決定的ですね。この手紙をあなたに充てた人物は、間違いなくあなたの過去を知っている」

 私が握り締めたせいでしわくちゃになってしまったそれに目を通したあと、ため息を混じえながら言った。先生は、今から十五年前の、私が高校三年の時の担任の先生だった。身長は百八十センチもあり線が細く、真ん中の分け目で綺麗に分けられた長い前髪はいつも先生の眼鏡に手を伸ばそうとするみたいに軽く触れている。身体から滲み出ている落ち着いた雰囲気は当時から何も変わってない。私の部屋の、壁際に設けられたソファに腰掛けている先生の眼鏡の奥にみえる瞳は今日も穏やかな色を纏っていた。冷たそうでも優しそうでもない瞳。まるで夕暮れ時の、()いだ海みたいだった。

「どうしてバレてしまったのか見当もつかなくて」

 その目を見ながら言うと、先生は胸ポケットに手紙を仕舞いながらただ一言「違います」と言った。

「今重要なのは何故バレたのかではなく、誰にバレてしまったのかです」

 その通りだった。誰にバレてしまったのか。それ次第では、私は死ぬまで陽の光の差す場所では生きられなくなるかもしれない。手紙に書かれていたあの文字が、まるで脈を打つように頭の中で反芻される。

〈東堂沙結 様

 あなたが今も当たり前のように息を吸い、この世界で生きていることを知っています。〉

 思い出しただけでも肌が粟立った。一体誰が、私が生きていることを突き止めたのだろう。まるで心当たりが無かった。

「あの日に起きたことを誰かに話しましたか?」
「いえ、誰にも」
「本当ですか? いつだったか、定期連絡の際に今のお店で働いている二人のことを本当の親のように(した)っていると言っていましたよね? その二人にも話していませんか?」

 まるで尋問だった。けれど、テレビや映画でみるような白い壁に囲まれた尋問室ではなくて、今の私がいる部屋はカーテンの隙間から溢れたひかりが薄い線を引いてくれている。

「確かに私は、あの二人のことを本当の両親のように思っていました。でも、誓って誰にも話してません。勿論二人にもです」
「分かりました。僕は美月さんを信じます。この手紙はどうやらパソコンから印刷したもののようですし、筆跡を辿ることは出来ない。それに、このような短い文章では相手からの得られる情報もないでしょう。だとしたら、今の僕たちに出来る事は一つです」

 すっとソファから立ち上がった先生は、私がなにかを尋ねるまでもなく「身を隠しましょう」と言った。その言葉が意味することを私は分かっていた。

「……町を離れるって、ことですよね? いつですか?」
「今夜です」

 言葉を失った。

「今すぐに荷物を纏めましょう」

 先生はそう言ってから、全てを持っていく事は出来ないですから必要なものを教えて下さい、とクローゼットからソファの上へと私の服を並べていく。私は呆然とそれをみていた。声を出すことも、身体を動かすことも出来なかった。

「これから寒くなりますから冬物の服が多い方がいいですね」

 引き出しから取り出したゴミ袋の中へと、ソファには並べられなかった私の服や雑貨、カバンが次々と放り込まれていく。ひらり、と先生の服の袖の辺りから長方形の紙切れが落ちた。拾い上げ、少しの間ぼんやりと眺めてから、先生はそれを胸ポケットに入れ、再びゴミ袋の中へと服を放り込み始める。

「残念ですが夏物の洋服は全て諦めて下さい。安全な場所をみつけたらまた買えばいい」
「……せん、せい」
「あと漂白剤は家にありますか? 荷物を纏めた後、それを家中に撒きます。美月さんの指紋や毛髪の痕跡を出来るだけ無くす為です」
「先生、ちょっと待ってよ!」

 もう限界だった。私が声を張り上げると、先生がぴたりと動きを止めた。手にしている私の白いワンピースが萎れた花のようにだらりと垂れ下がっている。

「今夜って、そんなの無理です。勝手なことばかり言わないで下さいっ! 綾子さんと宗弘さんにはどう言えばいいんですか? 何の前触れなくもなく町を離れる理由をどう説明するんですか? 少なくともあの二人は私を大切にしてくれた。娘のように想ってくれた。そんな二人の気持ちを無下にすることなんて出来ない」

 服や雑貨ならまだいい。十五年という月日と共に私が集めてきたものを、一瞬にしてゴミ袋に捨てられたところでなんてことない。また、買えばいい。だけど、人は無理だ。想いや絆が、それまで過ごしてきた日々の記憶がある。それを一瞬にして断ち切ることなんか出来ない。

「……昨日」

 膨らみ始めた想いは一瞬にして私の中から溢れ、涙が止まらなかった。鼻をすすり、両の手のひらで涙を拭いながら続ける。

「昨日、言われたんです。美月ちゃんは変わらないねって。十五年経っても出会った日のままだって。そう言われて、もうこの町で生きることは無理かもしれないって私だって思いました。でも、別れを告げるなら準備がいる。しっかりと段階を踏んで気持ちを告げてからお別れをする。それが出会った人たちに対する最低限の礼儀なんじゃないですか?」

 思いの丈を一度にぶつけたその瞬間、初めて、恐らく人生で初めて、氷のようなつめたい眼差しを先生から向けられた。

「この期に及んで、あなたは一体何を言ってるんですか?」
「えっ」
「出会った人たちに対する礼儀? 僕たちは、そんな事を悠長に考えられる状況にいないでしょう。それに」

 手にしていたワンピースをゴミ袋に静かに入れ、先生はゆっくりとソファに腰を下ろした。顔を俯向けたまま、苦しげに、物悲しそうに、ぽつりぽつりと言葉を溢していく。

「さっきからずっと待っていましたが、一向にあなたの話に出てこないので言わせて貰います。あの日、僕は言ったはずです。いつかこうなるかもしれないと。そして、今回のような事が起きた場合は何時如何(いついか)なる状況であったとしても、僕を含めた全員が身を隠すという選択に従ってもらうと。忘れてしまいましたか?」

 問い掛けられ、私はちいさく首を横に振った。

 ──これから僕が言う事をよく覚えていて下さい。万が一、身元を知られ生きていることがバレてしまった場合、あるいは君たち自身の肉体を不信に思う人物が身の回りに現れた場合、その際は必ず僕に連絡をして下さい。携帯は一人一台ずつ与えます。いいですか? 一人に差し迫った危険は、僕たち全員の危険です。万が一先程述べたような事が誰かの身に起きた場合、何時如何なる状況にあったとしても身を隠して貰います。これは、僕を含めた全員に課せられたルールです。絶対に忘れないように。

 深い森の、自然が織りなす木々のトンネルを抜けた先にあるあの家で、まるで先生は授業をするかのように私達を椅子に座らせ、そう言っていた。確かに先生の言う通りだと思った。私は追い込まれ、自分のことしかみえなくなってしまっていたのかもしれない。

「町を離れるのはあなただけじゃない。僕を含めた全員です」

 止めていた手を再び動かし始めた先生には、ちょっと出てきます、と告げてから家を出た。海沿いの道を泣きながら歩いた。綾子さんと宗弘さんには真実を話せない。だとしたら、どんな言葉を並べたら二人は理解してくれるだろう。どんな言葉を並べたら、唐突に町を離れますという私を二人は許してくれるだろう。なんで私がこんな想いをしなくちゃならないの。こんな人生、もう嫌だ。涙で滲んていだ世界の端が、微かに橙色に染まった気がして目を向けた。防波堤より更に向こう、水平線の果てに溶けるように沈んでいく夕日が、怖いくらいに綺麗だった。