無数の看板がひしめく通りを歩いていた。飲食店やマッサージ店、ホストクラブにキャバクラ。様々な業種のお店の看板が歩みを進める度に視界に飛び込んでくる。まだ夕方前だというのに香水や化粧品やお酒の匂い、それからこの通りを歩いた人の体臭が混じり合ったものが辺り一帯にたちこめている気がした。言わがれるままに先生に付き添い、宿泊していたホテルからタクシーに乗り、辿り着いたのは新宿の歌舞伎町だった。

「沙結さん、ここです」

 先生は古びた雑居ビルの前で足を止めた。埃やすすで壁や階段が黒ずんでいる。先生はその階段をゆっくりと降りていった。高速に点滅する蛍光灯はその役割を全く果たしておらず薄暗い。私は暗がりでもみえるからそれは問題なかったが、階段の幅が狭すぎて手すりに手を沿わせなければ転んでしまいそうだった。降りきったところで木製の扉が姿を現し、そこには『ゲイバー ZOE(ゾーイ)』と彫られていた。

 先生がドアノブに手をかけ視界が広けたその瞬間、私は思わず感嘆のため息を溢した。店内はビルの外装から想像も出来ない程に清潔感で溢れており、真っ先に視界に飛び込んできたカウンターは一本の幹をそのまま薄切りにして貼り付けたかのような厳格な雰囲気を漂わせている。見るからに値が張りそうだった。入口の傍にある大理石の壁からは静かに水が滴っており、それがガラス張りになっている床の真下へと続いている。照明も明るく至るところに大きな壺に入った観葉植物が瑞々しい葉を広げていた。

(みつる)、久しぶりね」

 カウンターの中からぬっと立ち上がった男性は、先生に向かってそう言って微笑みかけた。

「こうやって面と向かって顔を合わせるのは十五年ぶりかしら?」
「ええ。その節はいろいろとお世話になりました」

 深々と頭を下げる先生をみて、私もぺこりと頭を下げた。男性は「相変わらず硬いわね。人間の性格は百六十年生きてても変わらないものだなんて、なんか笑けてきちゃう」と微かに肩を揺らしてる。

「まあ、座って」

 促され、先生と一緒にカウンターに腰を下ろした。

「生搾りのオレンジジュースで良かったかしら」

 それが私に向けられているものだとは思わず、私はカウンターの木目に目を向けていた。「沙結ちゃん」と声をかけられ、初めてそれが自分に向けられているものだと気付いた。「あっ、はい」と顔をあげる。

「好きでしょ?」

 マスカラののった長いまつ毛を上下させながらそう問い掛けられ、ちいさく頷いた。少し、怖いと思った。男性の髪は微かに透き通ってみえる程に白く、よく手入れしているのか指通りの良さそうな髪が肩の辺りで綺麗に切り揃えられている。言葉遣いや髪の毛、顔に施されたメイクこそ女性のような柔らかさを保ってはいるが、黒いタンクトップから伸びる腕は恐らく私の太ももよりも太く、身体の左半身だけがタトゥーで埋め尽くされていた。首から顔の左半分までにかけては蜘蛛が巻き付くようなかたちで彫られている。私がこれまで出会ったことのないタイプの人だ、と男性の姿をみた瞬間、私はひるんでしまっていた。それに、と思う。尋ねなくても直感で分かる。間違いなくこの人が第二の天使だ。

「これは沙結ちゃんに」

 男性はスクイーザーという器械で絞られた、オレンジの果汁が入ったグラスをコースターの上に置き、柔らかく微笑みかけてきた。先生の前には琥珀色の液体が入った丸いグラスが置かれる。氷が擦れる澄んだ音がたった。

「まずは乾杯しましょうか」

 その声を聞いて、私はグラスを手にしようとした。その瞬間「待って」と声をかけられる。目があう。瞼には青いアイシャドウを入れており、ラメものった、その男性の目が凄く綺麗だった。顎は細く、鼻筋はすっと伸びている。私が彼のことを怖いと感じたのは、これまで出会ったどの男性よりも綺麗な顔をしているのも理由の一つかもしれない。

「あたしったらお客さんにおしぼり出すの忘れてた」とカウンターの下から袋に入れられたおしぼりを手渡される。受け取ろうと広げた私の手のひらは真っ黒だった。

「あっこれはたぶん」

 思い当たる節があり声をあげた。

「階段の幅が狭すぎて転んでしまいそうだったから手すりに手を沿わせた」

 私が次に繋げようと思った言葉は、男性に先に繋げられた。「学習しないのね」と薄く笑みを浮かべている。どうして。私の頭の中がまるでみえているかのようだった。ちいさな疑問が膨らみかけた時、「早く乾杯しましょ」と促されたので急いで手を拭いた。それから三人で持ち上げたグラスを合わせ、ちいさな音を鳴らした。

「ばくさん、仕事の話を」

 グラスをコースターに置いてから、先生が切り出した。

「ば、く?」

 聞き慣れない名前に思わず声に出してしまう。

「そう。夢を食べる妖怪で(ばく)っているでしょ? あれからとったのよ」

 獏さんはポケットからタバコを取り出し、火をつけた。後ろには蜜色の照明に包まれるようにして色鮮やかな無数の酒瓶が並んでおり、吐き出された煙が照明から映し出された光を吸い込みながら赤や黄色や青へと移ろいでいく。その煙が、なぜか私には十五年前にみた星雲のようにみえた。

「満が探していた陸斗って子」

 獏さんの口から、陸斗という名前が鼓膜に触れた瞬間、私は身を乗り出した。

「あたしの娘たちが探してくれたんだけどね。まさかの場所にいたわ」
「というと?」

 問い掛けた先生も心做しか身体を前のめりにしている気がした。ほら、と茶色い封筒をカウンターに放り投げられ、先生が中から取り出したのは無数の写真だった。そこには確かに陸斗が写っていた。ソファ席で女性に肩を回す陸斗。シャンパンか何かが入ったボトルを手にし、数人のスーツ姿の男性たちと笑っている陸斗。髪型こそ変わってはいたが、それ以外の容姿は十五年前から何一つとして変わってない。

「どうやらホストクラブで働いているみたいね。高速バスを乗り継いで東京に入ってきた所までは掴んでいたんだけどね、まさかあんな所で働いてるなんて夢にも思わなかった。灯台下暗しってやつよ。なんと、この店から目と鼻の先。同じ歌舞伎町で歩いて十五分くらいのとこよ。それを知った時、あたし笑いが止まらなかったわ」

 タバコをふかしながら獏さんの身体が肩が小刻み揺れる。それと同時に首から頭にかけて巻き付くように彫られた蜘蛛のタトゥーも揺れ動いており、蜘蛛まで一緒に笑っているみたいだった。

「獏さん」

 先生はグラスに入った琥珀色の液体を喉の奥に流し込んでから、呼び掛けた。

「陸斗くんの件はありがとうございます。ですが、今日はもう一つお話があってきました。この街に工藤がいます」

 その瞬間、常に笑みを絶やさずに話し続けていた獏さんの顔が凍りついたように固まった。ぼんやりと宙を見上げ、煙を吐き出した。ゆらゆらと揺れ動き消えゆくそれをみながら「そう」と呟く。私は工藤と呼ばれる人物を知らない。けれど、何故かあの黒いコート羽織りロマンスグレーの髪を綺麗に後ろに撫でつけいたあの年配の男性が頭に浮かんだ。

「それが理由かい?」

 カウンターの上に置いた灰皿でタバコを押し潰しながら、獏さんが問い掛ける。すぐに新しいタバコに火をつけた。

「五人分の新しい名前と住居がいる。あんたがそう言ったから慌てて用意してたのに、今日になって僕の分は必要ありません、って急に言い出すもんだから疑問に思ってたけど、やっと分かった気がしたよ」

 吐き出された煙が手を伸ばすように先生の身体へと伸びていく。先生は顔を俯いたまま口を開く素振りすらみせなかった。

「やめときな。復讐なんて自分の身を滅ぼすだけだ」

 獏さんはそれを答えとして受け取ったようで、
ぴしゃりと言い放った。それに、と続ける。

「あんたが殺ろうとしている工藤は死なない」

 私は二人が一体何を話しているのか全く分からなかった為にずっと押し黙って聞いていた。だが、獏さんの放った一言が妙に頭に引っ掛かり尋ねずにはいられなかった。

「死なないって、どういうことですか?」

 真っ先に頭に浮かんだのは不老不死という言葉。それは天使の魂が宿った私達だけに与えられたものではないのだろうか。

「話してなかったのかい?」
「必要が、ありませんから」

 先生は顔を俯向けたまま言った。

「でも、この子は実際にその工藤に殺されかけたんじゃないのかい?」

 タバコの先端を私の方へと向けてくる。赤い炎の先からはらりと灰が落ち、舞った。先生が両の手のひらで自らの太ももを握りしめながら「それは想定外でした」と言った瞬間、獏さんは鼻で笑った。

equlitus (エクリタス)は、構成員の数もその実態も分からない、幽霊みたいな組織だった」

 獏さんが私に向かって喋り出すと、すぐに先生が「やめて下さい!」と声を張り上げたが、構わず続けた。

「でもね、今から百年程前にあたしは何でも屋みたいなことをやっててね。そこにいる満と、もう一人アメリアという名の女性もいた。当時から血眼になって私達を探し続ける奴らを調べている内に色んなことが分かった。まず一つは、奴らは政府と繋がっているという事。警察や行政、ありとあらゆる公共機関にまで奴らの手は伸びてる。末端の工作員は影のように息を潜め、普段はなんてことない顔をして社会に溶け込んではいるが、あたしたちのような存在をこの世から抹消する為に常に目を光らせてる。今の時代でいえば監視カメラやオービスなんて奴らの目だといってもいい。好きな時にアクセスし、好きな時にあたし達を探せる。本来人間の秩序や治安を守るべくしてあるそれらのものは、あたしたちを炙り出す為の、まあ言ってみれば殺人兵器みたいなものさ。それだけの事を成し遂げるなんて、ただの一組織に出来るような芸当じゃない。必ずバックにどこかしらの国が絡んでる。もう一つは、奴らの組織は六つのグループに分かれていてそれぞれに師団長と呼ばれる肉体的にも精神的にも屈強な兵士がいるということ。そして最後にもう一つ。その師団長たちは死なないということ」
「どうして、ですか」
「天使だから」

 間髪入れずにそう言われて、私は言葉を失った。そんな私の反応が面白かったのか獏さんはうっすらと笑みを浮かべ、棚から一つのボトルを手に取った。それまで飲んでいたグラスを下げてからカウンターの上に新しいグラスを置き、ゆっくりとそのボトルを注いでいく。琥珀色の液体が照明の光を吸い込んで、黄金に輝いているようにみえた。

「少し語弊があるかもね」と獏さんは言いながらボトルを棚に戻し、グラスの中に氷を一つだけ落としてから指でかき混ぜた。その指はゆっくりと持ち上げられ、獏さんの口の中へと吸い込まれていった。

「天使の魂が宿ったものには不老不死の肉体が授けられる」
「はい」
「その肉体を流れる血液を輸血すれば、適合者には不老不死の力を分け与えることが出来る。そこまでは知ってる?」

 問い掛けられ、頷いた。それは十五年前に既に先生から聞いていたことだった。思い返している内に、あっ、と思う。獏さんはまるで御名答とでも言うように、持ち上げたグラスを向けてくる。

「そう。師団長たちは全員がその適合者。恐らくは奴らの組織内で独自のルールのようなものがあって、適合しなければそのポジションにはつけないんだろうね。天使の魂が宿っている訳ではないから特異な力を持っている訳ではないが、不老不死の肉体を持っているうえに人を殺す為の特別な訓練も受けてる。言ってみれば、奴らは化け物だよ。ただの天使のあたしたちなんて可愛いものさ」

 気付いたら腕をさすっていた。鳥肌が立っている。人を殺す訓練をしているうえに不老不死。それに、監視カメラや公共機関にまで監視の目を張り巡らせることが出来る。そんな奴らに勝てる訳がない。

「一昔前まではね、奴らと戦おうとした天使たちもいたのよ。けど、第三から第五までの天使は全員奴らに捕まった。恐らくはもう死んでるか、殺してくれと当の本人が願っているかの、そのどちらかだろうね。そして最初の天使だったアメリアもつい百年前、工藤に」
「そこまでです」

 獏さんの声を遮るようにして先生が強く言い放つ。だが、獏さんが口を閉ざす事は無かった。

「アメリアの為に復讐するなんてやめときな」
「あなたには関係ありません。それと、彼女の名前を軽々しく口に出さない下さい」
「誰に口聞いてんだい? 若造が」

 その瞬間、獏さんの目が氷のようにつめたくなり、二人の間にある空気が明らかに変わった。

「あんたは、自分が惚れた女が死にたがっていたという事実を受け入れられないだけだ」
「……違う」

先生の手にしていたグラスが凍りついていく。

「交わした約束を破られたことも」
「やめろ」

 グラスの底から侵食するように広がっていく氷が、カウンターを白く染めあげていく。

「思い描いていた未来も」
「………違う」
「全て捨てられた。それが、受け入れられないだけだ」  
「やめろ!」

 先生の手にしていたグラスが音を立てて割れた。その破片の一つが獏さんへと向かっていく。だが、それに意識が宿っているかのように獏さんの身体に触れる寸前で向きを変えてから地に落ち、からん、と音を立てた。隣に座る先生の顔をみて、私は息を呑んだ。普段は穏やかな色を纏っている先生の瞳が、深い黒に染まっており、その面持ちからは悲しみや苦しみといった負の感情が、濁流のように溢れていたのだ。「満」と諭すように獏さんが言う。

「アメリアはあの時点で千二百年も生きていた。つまり、今のあたしが生きてる年数の二倍も生きてることになる。死にたいと思っても何も不思議なことじゃない。あたしたちの肉体が老いることはないが、心は日々着実に老いていくんだよ。人は、限りがあるから幸せを見出せる。限りがあるから生きていられる。けど、永遠(とわ)に続く果てしない日々を生きるあたしたちは、そんな幸せは望めない。だから、許してやってくれ。もう、十分生きたんだよ」

 獏さんの放ったその言葉を最後に静寂が降りた。先生はひどく辛そうな面持ちで、奥歯を噛み締めているようにみえた。

──千二百年も生きていた。

 先程獏さんの放った言葉が、私の頭の中で脈を打つように熱を持ち続けていた。獏さんはアメリアというその女性が生きていた年数が、今の自分の生きてきたそれの倍だと言った。つまり、五百六十年も生きてきたというのだろうか。五百六十年と千二百年。二人の生きてきた年数を胸の中で呟き、それを舌の上で転がしている内に、とてつもなく怖くなってきた。私はたった十五年で、何度も孤独に押し潰されそうになった経験がある。そんな私が、それだけの年数を生きていけるとはとてもじゃないけど思えなかった。怖い。と思った。漠然と理解していたつもりになっていた不老不死という言葉の持つ本当の意味を、ようやく理解した気がした。思わず胸を抑えた。その時、「獏さん」と先生が顔をあげた。

「今日はこれで失礼します。出来ればあなたにも力を貸して頂きたかったのですが、その様子だと僕の想像している通りの答えしか返ってこないと思いますので」

 獏さんは「御名答」と薄く微笑む。

「あたしは奴らと真っ向からやり合う気はないよ。この五百六十年そうやって生きてきたんだ」

 その言葉に先生は椅子から立ち上がり、「貴重なお時間をどうも」と頭を下げた。だが、再び顔を上げた時「そういえば」と右手を持ち上げカウンターの上で宙に浮かせた。

「陸斗くんの件や五人分の名前や身分証、住居などの今回獏さんにお願いした諸々のお代ですが、今払います」

 獏さんは一瞬目を丸くしたが、それから柔らかく笑みを浮かべた。

「今でいいのかい? 今回は高くつくよ。この店から一歩でも外に出たら、どんな目に遭うかも分からない」
「構いません。どうせ、僕は死ぬことが出来ませんから」

 その言葉に獏さんは「まあ、それもそうだね」と目を細め、宙に浮いていた先生の手のひらの上に自らのそれを重ねた。程なくして、ふわりとちいさなひかりが二人の手のひらから放たれる。獏さんは目を閉じていた。薄く瞼を開き、「確かに」と呟く。

「沙結さん、行きましょう」

 呼び掛けられ、椅子から腰をあげた。扉の方へと向かう先生の背中を追いかける。

「満」

 獏さんが先生を呼び止めたのはそんな時だった。振り返った先生に「ちょっとこっちにきな」とカウンターに呼び、「これのお代はいらない。おまけみたいなものだ」と薄く微笑んだ。それから何かを耳打ちをした。

「気を抜かないことだね」

 扉が閉まる寸前、獏さんはそう言った。先生はちいさく頷いて、私と共に店をあとにした。外に出ると既に夜の帳を降りていた。

「沙結さん、今日一日僕と過ごすことは危険です。先にホテルに戻っていて下さい」

 先生は、私の目をみようともしなかった。どこか遠くをみるような目で「それじゃあ」と言った。足がゆっくりと持ち上がり、きらびやかな照明が瞬く歌舞伎町の中を、その人混みに、先生は溶けるように消えていった