その家は、なにかの薬品の香りとアンモニア臭で満ちていた。まだ日が暮れる前だというのに家の中が薄暗いのは、窓にある全てのカーテンを閉め切っているからだろう。玄関で靴を脱ぎ、手にしていた赤い傘を靴箱に立てかけたあと、その家の中へと入っていく。床はひやりとつめたく、時折ぎしっと軋む音を立てる。

 案内してくれた女性は泣きながらリビングに通してくれた。顔をぐしゃぐしゃに歪ませて、悲しみや恐怖、それから安堵と喜び、いろんな感情が混じり合った結果なのだろうと、歩きながら思った。色のあせたソファと枯れ落ちた観葉植物、ヒビの入ったテレビ。部屋の中はそれら全てが音を吸い取ってるみたいに静かだった。女性の嗚咽だけが、その空間を支配していたように思う。部屋の奥へと進むと、微かに音を立てている者がいた。簡易ベッドに横たわっているその人の胸が微かに上下していることだけが、その人の命の灯火がまだ消え去ってはいないことを教えてくれている気がした。首に手を添える。さっきみた枯れ落ちた観葉植物のように細い首だった。脈も呼吸も弱い。いっそのこと、と手をかざそうとした時、その人はうっすらと目を開けた。

 誰かは言う。

「ただいま」と。


*
「わ、たし」

 目が覚めて、ぽつりと呟いた。すぐさま由奈がかけてきて、あの後少しでも遠くに逃げようとバスに乗り椅子に腰掛けた瞬間、事切れたかのように私は意識を失ったのだと告げられた。それから由奈は先生に連絡をし、私をホテルまで運んでくれたのだと説明してくれた。

「沙結さん、大丈夫ですか」

 先生は由奈の隣で腰を下ろした。心配そうな面持ちで私をみつめてくる。

「私、意識を」
「はい。能力を使ったことで脳が疲弊してしまったのでしょう。まさか、こんなに早く奴らにみつかるなんて。危険な目に合わせてしまってすみませんでした」

 事情は全て由奈から聞いたのだろう。頭を下げた先生のつむじをみながら「あの」と身体を起こした。

「最近変な夢をみるんです。妙に鮮明でリアルで、まるで別の現実を垣間見ているかのような感じで。私はおかしいのでしょうか」
「今日の沙結は確かにおかしかったよ」

 私と先生のやり取りを黙って聞いていた由奈が横からぽつりと言った。

「あいつらに幻覚をかけてた時、笑ってた」
「笑ってた?」
「うん。まるで人を殺すことを楽しんでるみたいにみえた。なんか、沙結じゃないみたいで」

 言いながら、当時の私の表情を思い浮かべたのか由奈は両手で肩をさすっている。確かに私は、あの瞬間このまま人を殺してもいいかもしれないと思った。自分でもおかしいとは思った。三十三年も生きてきて、私は自分がどのような人間かを理解している。部屋の中に入り込んだ虫を殺すことすら躊躇ってしまうのだ。そんな私が、人を殺そうとするなんて考えられない。

「もうやめましょう」

 会話に区切りをつけたのは先生だった。

「沙結さんは、勿論由奈さんもそうですが、奴らと初めて出くわしたんです。殺されるかもしれない。そんな風に感じたことだって初めてのことでしょう。極度の緊張状態に陥ると、人は自分を見失うことがあります。これまで経験したことのない感情が生まれたり、思ってもいなかった行動をとってしまうことだってあります。とにかく今は先のことを考えましょう。奴らに僕たちの存在がバレた以上、もう一刻の猶予もありません。翔太くんがホテル内やその周辺をみてくれていますが、この場所だっていつまで安全か分かりません」

 言われてから気付いた。シングルベッドが二つだけある、シンプルな部屋の中には私と先生と由奈しかいなかった。翔太が部屋に戻ってきたら、あの紙に書いた文章の真意をちゃんと聞きたい。そう思っているとひとりでに扉が開き、由奈と先生が腰を浮かした。テーブルの上に置いていたペットボトルが揺れ動いている。

「俺だよ」

 部屋の中央に突然翔太が現れた。

「ねぇ、翔太の能力は分かってるんだけどさ、せめて部屋に入る前に透明になるの解除出来ないの? っていうか翔太ならドアもいちいち開かなくてもいいじゃん」

 眉間に皺を寄せた由奈に詰め寄られ「そんな訳にはいかないよ」と肩を竦めている。

「廊下で透過を解除して誰かにみられる訳にもいかないし、それに俺はふつうの人としての感覚を絶対に忘れたくないんだ。あっ、沙結目が覚めたんだね」

 自然に笑みを向けられて、反応に困った結果曖昧に頷いた。何かが吹っ切れたような顔をしている。あの紙切れを私に渡した事は無かったことにでもしようとしているのだろうか。納得出来ず、名前を呼び掛けとした時、私より先に先生が「翔太くん」と目を向けた。

「これから僕はちょっと出ますので、定期的にホテルの周辺をみて回って下さい。少しでも異質な雰囲気を纏った人物をみかけた場合は、すぐに僕に連絡して下さい。それから沙結さん」

 翔太が頷いた時には、私に目が向けられていた。

「今日は疲れたでしょうが僕と一緒に外出して頂けますか?」

 問い掛けられ私が曖昧(あいまい)に頷くと、「えっ、今から? あいつらに追われたばかりだよ?」と由奈が訴えかける。

「確かにその通りです。しばらくは外出を控え、最悪の場合は陸斗くんを諦め、また以前のように僕たちは身を隠す。その選択肢もあります。けど、以前と違うのは僕たちの顔写真がSNSに晒されているということ。そして奴らは実際に君たち二人をみつけた。あのXに書かれていた内容は真実であると確信したでしょう。だからこそ、今動きましょう。向こうも僕たちが臆すると思っているはずです」
「どこに行くんですか?」
「先程、とある人物から連絡がありました。陸斗くんの居所を掴んだ、と。十五年前君たちの新しい名前や身分証、それから住居に至るまで、全てを手配してくれた人物です」

 十五年前、私達は親から授かった名前を捨てるしかなかった。その時も疑問に思っていた。一体誰が私達にそこまで協力してくれているのだろう、と。当時のことを思い浮かべていると、窓の向こうに広がる東京の空をみながら、「ちなみに」と先生が付け足すようにして言った。

「その人物は、第二の天使です」