──こう考えてみて下さい。

 静謐な空気が充満した森の奥深くで、私達は円を描くようにして座り、先生の言う話に耳を澄ませていた。

 「初めて跳び箱を目にした時と同じようなものです。ジャンプ台までの直線距離を何秒で走れるか。踏み込んだ結果、どれくらい飛び上がることが出来るのか。自分はこれくらいの段数なら飛べるだろうと直感で思い浮かんだと思います。君たちの中にある天使の能力を引き出すのはそれと同じです。自分には何ができるのか。どこまでやれるのか。目を閉じて向き合って下さい。そうすると自ずとみえてくるはずです。不老不死とはまた別の、君たちの肉体に宿ったもう一つの天使の能力が」

 路地を走り抜け、ロータリーに差し掛かってから階段を駆け上っていた。足を動かしながら十五年前に先生と過ごした日々を思い浮かべた。不老不死とはまた別の、私の肉体に宿った力。それは、幻覚だった。私が望む者には、私が思い描く現実をみせることが出来る。幸福や快楽、そして苦痛や恐怖。先生からは、いつ不測な事態が起きてもいいように鍛錬を惜しまないで下さい、と言われていた為、私は毎日自らに幻覚をかけ、この十五年間ずっと練習をしていた。追ってきていた三人組の男との距離はどんどん縮められていた。大の男と、女である私と由奈との脚力の差は歴然だった。もう足では逃げ切れない。思い立ち、足を止める。振り返ると、ちょうど階段に足をかけようとしているところだった。

「沙結?」

 由奈は階段の中腹にいる。足を止めた私に気付いたのだろう。背中越しに由奈の荒い息遣いが聴こえる。ここで必ずこいつらを食い止めないと。右手をゆっくりと持ち上げたその瞬間、男たちの足がぴたりと止まった。当然だった。動けるはずがない。私は今、鋼鉄の金具によって四肢を固定され壁に張り付けにされている幻覚をみせている。男たちの前には坂がある。ちょうど階段の中腹にいる私たちと男たちとの配置と同じだ。現実と幻覚が乖離し過ぎるとその影響する持続時間が短くなるのは、この十五年で研究済みだった。

 現実世界で男たちは階段に足をかけ、その傾斜を人間の平衡感覚を司る三半規管が確かに認識している。だから坂を幻覚でみせ、現実世界では両脇にある手すりを壁と認識させる。そして鋼鉄の金具で四肢を固定する。あとは、坂の上から土石流を流す。轟音を上げながら迫りくる土砂の海を目にした瞬間、男たちは叫び声をあげた。手首より先や頭だけをバタバタと動かしている。まるで陸地に打ち上げられた魚みたいだった。

「……結」

 私の持ち上げた右手の先では、男たちが目が零れ落ちるのではないかという程に見開いていた。心と肉体は強い結び付きがある。だから、その幻覚が強ければ強い程、肉体に及ぼす影響は大きくなる。土砂に呑まれたら、息は出来ない。男たちは今、呼吸することすら出来ないはずだ。もう少しで窒息するのかもしれない。空を流れゆく雲の動きを観察するような心地で、私はそれをみていた。無だった。それに対して、なんの感情も湧き上がらなかった。

「沙結!」

 いつの間にか由奈が私の前に立っていた。

「もういいって。殺すつもりなの?」 

 殺す。その言葉がゆっくりと頭に広がり、ようやく理解した。自分が何をしようとしていたのかを。右手を下げた。その瞬間、バタバタと男たちが地面に倒れ階段を転げ落ちていった。二人は荒々しく息を吐いていたが、一人は泡をふいたまま身動きひとつしなかった。

「逃げるよ」

 呆然とそれをみていた私の手を引いて、由奈は階段を駆け上がっていく。幻覚は人にかけるのは初めてではなかった。だが、今日あの男たちに幻覚を使った時、私は人生で初めてこのまま人を殺してもいいかもしれないと思った。