「ねぇ、確か近くにマックあったよね」

 歩きながら由奈が声をかけてくる。先生からはホテルの部屋が取れ次第連絡を貰うことになっている為、それまでの時間をどこかで過ごそうという由奈の提案だった。由奈はオーバーサイズのパーカーのフードを頭から被ったまま、目線は足元へと向けていた。パーカーの色が黒いのも相まってか、その先から伸びる由奈のすっきりとした細い足がより白く際立っていた。私も上下共に似たような格好をしていたけれど由奈程は白くない。頭にはキャップを被り、由奈と同じように目線を下げて歩いていた。そうしていると正面から歩いてきたサラリーマンと肩がぶつかった。舌打ちをされる。

「……すみません」

 頭を下げたけれど、私のことを見向きもしていなかった。時刻は午前七前。スーツ姿のサラリーマンやOLさん、派手な服装をしている若い人たちと、バスから降りてからそれ程時間は経っていないのに人の数が一気に増えた気がする。ロータリーから路地に抜けると、いろんなお店の看板がひしめていた。その真下を沢山の人が行き交っている。ひゅっと微かに風が吹いたのか、全身をつめたい何かでなぞられたような悪寒が走った。人の頭と頭の間に、一瞬何かがみえた気がした。通りの向こう。看板の文字すらみえない距離のところに、黒いコートを羽織った人がいた。たぶん、男性。私はその人を、向こうは私を、視線が強く強く結びつけられていた気がした。

「沙結、顔上げすぎ。もう少し目線下げなよ」

 諭されて、今あそこに、と指を指そうとしたが既に男性の姿はなかった。代わりに「だよね……ごめん」とちいさく呟く。五分程歩いた先で、見覚えのある看板が目に入った。Mの文字が中心を陣取っている、赤と黄色の看板。

「朝マックにする? でも起きたばかりだしセットはさすがに重いよね」

 列に並んでいる間、由奈は久しぶりのマックにテンションが上がっていたのか、レジの真上に並ぶメニューをみながらぶつぶつと呟いていた。結局私は、ハッシュドポテトとオレンジジュースにするか迷ったが生搾りじゃないからとコーヒーを頼み、由奈は朝マックのセットを頼んだ。

 トレイにそれらを載せてもらい、二階へと階段を上がっていく。店内は二人掛けの席が沢山並んでおり、奥の方にはカウンター席があった。中央の席はまばらに空いていたが、私達はカウンターを選んだ。他のお客さんたちから背を向けられる為に人の目を避けられるのと、正面がガラス張りになっていて外を眺められるのが理由だった。

「なんかさ、懐かしいね」

 由奈はホットコーヒーのカップをあけ、粉砂糖を注ぎ入れている。マドラーでゆるりとかき混ぜてから再びカップを閉めた。

「うん。高校の時は基本的に陸斗と翔太入れて四人で遊ぶことが多くなったけど、中学の時は由奈と今みたいな感じでマック来てたよね」

 私はホットコーヒーで喉を湿らせてから、ハッシュドポテトを手にした。口に運ぶと、ほとんど歯に力をいれることなくじゃがいもが(ほぐ)れていき、後から油の甘みが追いかけてくる。久しぶりに食べたけれど、やっぱり美味しい。

「うん、来てた。お金も無かったしさ、あの頃の私達からしたらマックって聖地だったよね」
「分かるよ」
「中二の時に一緒だった理沙(りさ)とか覚えてる? 細くて色が白くてさ、よく一緒に遊んでたじゃん。細いくせに朝マックのセットおかわりするとか言って、ほんとにしてた子」

 由奈は言いながら記憶が鮮明に蘇ったのか、口元を手で抑えて笑った。店内は幅広い年代の人たちで溢れていたが、若い女の子やちいさな子供たちの笑い声や泣き声がよりくっきりとした輪郭を持っている気がした。

「確か、高三の時にモデルにスカウトされたんだよね」
「えっ? 嘘?」
「ほんと。インスタに上がってたよ。理沙って綺麗だったもんね」

 ハッシュドポテトの入っていた紙を丁寧に折り畳み、それから口直しにコーヒーを口に含んだ。直線的な苦みが口いっぱいに広がる。

「綺麗だった」
「ねっ」
「理沙、元気にしてるかな?」

 由奈は消え入るような声でそう言って、「それに、由奈のお父さんとか髪の毛薄くなったりしてないかな。お母さんも太ってなかったらいいけど。弟も」とぽつりぽつりと溢すように付け足された。その言葉に導かれるように、私も自分の父と母の顔を思い浮かべた。十五年前の、遠い過去の記憶の断片ばかりだった。父は公務員で、母は専業主婦だった。裕福な家庭では無かったけれど、父は定時で必ず帰宅した為に夜ご飯は他愛もない話をしながら母の手料理を三人で囲み、そのなんでもないような日常が幸せだった。父も母もよく笑う人で、私は一人娘だったこともあり二人から抱えきれない程の愛を注がれて十八歳まで生きてきた。なのに、私は突然二人の人生から消えた。

 私と由奈の間にある空気が一瞬にして湿り気を帯びた気がする。由奈はせっかく頼んだハンバーガーにはまだ手を付けていなかった。食べないの、と問い掛けようとして、由奈が遠い目をしていたのでやめた。

「あれから十五年経ったって事は、理沙は三十三歳だよね」
「うん」
「三十三歳になった理沙か、どんな感じなんだろ。結婚してるかな。子供もいたりして」

 わざとおどけたように言う由奈の横顔をみている内に、私は少し前から胸の中で膨れ上がっていた罪悪感に押し潰されそうになった。

「ごめんね」

 目をみて言う。それから唇を噛み締めた。泣きそうだった。

「えっ?」
「私があの時、しし座流星群を観に行こうなんて言ったから……それから星雲をみて、こんな事に」
「違うよ」
「でも、神戸にいる時由奈も言ってたじゃん。私のせいだって。あれ、ほんとにその通りだと思った。図星すぎてあの場ではちゃんと謝れなかったから今謝るよ。ごめんね」
「沙結」
「私があの時」
「沙結、違う! 聞いて」

 カウンターの上に置いていた私の手を取って、声を張り上げた。由奈の目は水の膜が張ってるような気がした。

「あの日のことは、沙結のせいじゃないよ。だって提案してきたのは陸斗と翔太だし、沙結はそれに賛成しただけでしょ? あとになって、私だって賛成したんだし結果的に全員が納得した訳じゃん。あの日は、沙結の手紙のこととかXに呟かれた事とかいろんな重なって由奈もどうにかなりそうだったの。誰かのせいにしたかった」

 手のひらのうえに涙が滴った。

「それで……由奈ってこんな性格でしょ? 瞬間的に思ったことを見境なく誰にでも言っちゃうし、性格破綻してるからさ、逆に謝らせて。沙結をそんな気持ちにさせて本当にごめん」
「いいの」
「いいのって?」
「私を許してくれるの? だって由奈も翔太も陸斗だってそう。ふつうに生きてたら理沙みたいに三十三歳になれてたんだよ? 全員の人生を私が」 

 ずっと思ってきたことだった。もしあの日、私がしし座流星群を観に行こうと言わなければ。私を含めた全員が、今のような地獄の底に堕ちることもなかった。私が。私が。この十五年間、そんな自分を責め続けた。

「……れば」

 由奈は少し前から泣いていた。声が潤んでいるのと、店内の喧騒のせいで全てを聞き取ることが出来なかった。

「ごめん由奈、なんて言った?」

 問い掛けると、由奈は手のひらで乱雑に涙を拭い去り、それからふぅっと息を吐いてから、ぐいっと顔を前に出してくる。

「だから、たらればだって言ってんの」
「え、どういう」

 由奈が何を言いたいのか分からなかった。

「事が起きてから、あの時こうしていたらああしていたらなんて悔やみ続けてもしょうがないでしょ? いや、それを由奈が言うなって話なんだけどさ、生まれ育った東京に帰ってきてから、なんかこう気持ちが前向きになったの。そんな今だからこそ思う。もし神様がほんとにいるなら、運命なんてものが予め決められていて私達はそのレールの上を歩かされてるなら、(あらが)ってやろうよ。過去も、未来も、全部引っくるめて幸せになってやろうよ。生き続けてやろうよ! 天使として」

 淀みなく言い続けたせいか、力んだせいか、白い歯をみせて笑った由奈の目尻からつぅっと涙が溢れ落ちた。その涙も、由奈自身も、私にはひかり輝いてみえた。ああ、と思う。由奈は私にとってのひかりだと思った。

「ありがとう。おかげで元気出た」

 微笑みかけると、鏡を映すように笑った。

「こちらこそだよ。沙結と友達になれてほんとに良かった」
「私も」
「ねぇ、写真撮ろうよ」

 携帯を取り出した由奈をみて、えっ、と呟く。

「こんな状況で?」
「こんな状況だからだよ。中学の時にずっと友達でいようねって誓い立てて写真撮ったの覚えてる?」
「うん、覚えてる。お互いに秘密はなし。嘘はつかないってやつだよね」

 中学の時、学校の屋上で二人で誓いを立てた。ずっと友達でいる為にお互いに秘密は作らない。嘘もつかないという、破れぬ誓いを立て指を結んだ。

「あの時も今も同じだよ。ずっと友達でいようっていう証でほら、写真撮ろう」

 由奈は既に腕を持ち上げていた。インカメラだった。画面の中に私と由奈が映る。蜜色の照明から溢れたひかりが薄暗い店内を柔らかく染めている。二人掛けの席はどこもお客さんで埋まっていて満席状態だった。顔の傍にピースサインを作る。由奈も作ってる。

「はいチーズ」

 由奈の親指が、画面の右端に触れようとした時だった。その真下にこちらをみている男性がいた。

「ちょっと、笑ってよ」

 カメラのシャッターを切る音が微かに聴こえた。

「由奈、携帯貸して」

 おどけたような笑みを浮かべる由奈から携帯を奪い取り、先程撮った写真を開く。人差し指と中指で画面を広げたその瞬間、ひっ、と声が漏れそうになって咄嗟に手で抑えた。間違いはなかった。黒いコートを羽織った男だった。ロマンスグレーの髪は後ろに綺麗に撫でつけられており、口の周りには白い髭を生やしている。そして、目はつめたく、落ち窪んでいた。店内には老若男女で様々な客がいたが、その男の身体の輪郭が店内で浮き彫りになる程に異質な雰囲気を孕んでいた。そして、明らかに私達をみていた。

「どうしたの? 沙結、なんで震えてるの」

 由奈が身体を動かそうとしたその瞬間、私は咄嗟に手を掴んだ。もし振り返れば、私が気付いたことを悟られるかもしれない。

「由奈。落ちついて聞いてね。あと、絶対に振り返らないで」

 この喧騒が溢れた店内で私の声を聞き取れる限界まで声を落とす。言いながら、携帯の画面を開いたままカウンターに置いた。男に指を差す。

「この人、ここに来る前にもみた」
「えっ?」
「その時も明らかに私のことみてた」
「見間違い、じゃないの」

 由奈はゆっくりと持ち上げた手で口元で覆った。その手が微かに震えてる。

「間違いない。それにみてよ。この人明らかに普通じゃないよ。なんか、異質っていうか」

 言葉に詰まり、唾を飲み込む。心臓が早鐘のように打ち始めていた。

「明らかにふつうじゃない」
「それは、由奈も思う」

 画面を見つめていると、子供の悲鳴が店内に響き渡り、私達はびくりと身体を揺らした。程なくして「だからちゃんと座って飲んでって言ったでしょ」という女性の声が鼓膜に触れる。子供が何か溢したのかもしれない。由奈が「ねぇ」と口を開いたのは、そのすぐ後だった。

「この人ってさ、equlitus (エクリタス)じゃないよね?」
「……分からない」

 違うとは言えなかった。写真に映りこんだ男性は明らかにふつうではない。もし、由奈が言うように本当にequlitus (エクリタス)なのだとして、どうして私達が天使であることに気付いたのだろう。と、その疑問が頭に芽生えたが、すぐに霧散した。あのインフルエンサーのポストだ。そう思った。Xに呟かれていたあのポストは、死んだはずの私達が生きていることを晒す内容に引用するかたちで呟かれていた。私達の顔写真まで貼り付けられ、今朝の時点ではインプレッション数は百六十万に達していた。それだけの人間にみられたということは、その中に奴らが混じっていても不思議ではない。

──第二の天使以外は全員奴らに捕まりました。恐らく、死ぬまで殺され続けています。

 瞬間、あの深い森の奥にある家で、先生が放った言葉を思い出した。私は、私達は、老いることも死ぬことも出来ない。天使の魂が肉体に宿った時点からは不老不死なのだ。天使がその肉体で過ごす人生に飽き、魂が抜け落ちるまでは。

「だから……死ぬまで殺される」

 先生の放った言葉の持つ本当の意味が、今になって腑に落ちた。

「由奈、逃げよ」

 声をかける。死ぬまで殺されるなんて絶対に嫌だ。

「でもどうやって」

 写真で見る限り、男は一階へと繋がる階段の手前にある椅子に腰を下ろしていた。何食わぬ顔をして自然に通れるだろうか。そこまで考えて、いや、と思う。万が一腕や身体を掴まれれば、力で押さえつけられるかもしれない。そうなれば女性の私達では太刀打ち出来ない。

「とりあえず先生に電話する」

 携帯を手に取った由奈をみて、待ってと声をかけた。

「今変な動きをしたら、私達があの男に気付いてることを勘付かれるかもしれない」
「じゃあどうすんの」

 由奈の顔は恐怖で歪んでいた。きっと私も。今にも泣き叫びたかった。とにかくこの空間から一刻も早く逃げ出したい。恐怖でおかしくなりかけている頭を必死に働かせる。男に背を向けたまま、何気なく左右を見渡した。使えそうなものは何もない。とふいに顔を上げて、思い付いた。

「由奈」

 声を落として呼び掛けた。若い女の子たちの笑い声が店内に響き渡っている。

「私の頭の真上に火災報知器があるの。みえる?」

 由奈はカウンターに肘をついたまま、さり気なくそれに目をやった。ちいさく頷く。

「ライターって今持ってるよね」
「うん」
「あれに届く?」

 私の考えを悟ったのか大きく目を見開いた。

「ちょっと待ってよ。何やらせる気? 人前で能力なんて使ったら先生に怒られるよ」
「そんなこと言ってる場合じゃない。あいつがもしequlitus (エクリタス)なら、私達死ぬまで殺されるよ」

  由奈の目が恐怖で染まった。それからちいさく頷く。

「分かった。とりあえず火を操って火災報知器を鳴らすってことだよね」
「そう。火災報知器が鳴ったらスプリンクラーが作動する。天井から水が降り注いだらきっと店内にパニックが起きる」
「うん」
「その瞬間、この目の前のガラスを風圧で割って欲しいの」
「えっ、嘘でしょ」
「まだ終わってない。ガラスが割れたら、私と一緒にここから飛び降りて」
「はあ?」

 由奈は不服そうだったが、構わず続ける。

「ここは二階だろうから死にはしないだろうけど、出来たら風圧で身体を受けとめて欲しい」

 言いながら、無茶難題を言ってる事は分かっていた。でも、これ以外は思い付かなかった。

「分かったよ。やれるだけやってみる。っていうかさ、沙結が幻覚を使ったら一瞬で解決出来るんじゃないの?」

 私自身、真っ先にそれを思い付いた。だが、それでは駄目だともすぐに気付いた。

「私が使う幻覚には対処法がある。まず、それをされたら終わりなのが一つと、同時に五人までしか幻覚をかけられないから万が一あいつが一人ではなく複数人潜んでいた時のことを考えたら、さっきの計画が一番うまくいく可能性が高い。だからお願い」

 カウンターの上にある由奈の手のひらの上に、自分のそれと重ねた。

「きっとうまくいく。私達なら切り抜けられるよ」

 数秒間見つめ合い、覚悟を決めた。

「じゃあカウントするね」

 言いながら背筋を伸ばし、身体の力をふっと抜いた。すぐに身体を動かせるようにと、カウンターの足掛けに置いた足にだけ力を込める。

「5」

店内が人の声で溢れてる。ガラス窓の向こうには無数の看板がひしめいており、遠くの方ではガラス張りのビルがみえる。

「4」

 すぅっと大きく息を吸った。

「3」

 早鐘のように打っていた鼓動が少しだけ緩やかになる。

「2」

 由奈が手にしていたライターに親指を添わせ、私はもう一度大きく息を吸う。

「1」

 窓の向こうでは冬の柔らかな陽が充満している。遠くの方にみえたガラス張りのビルがそのひかりを反射し、店内に差し込んだ。直線状にのびるそれが私達を包み込んだその瞬間、「由奈っ!」と声をかける。

 カチッという音が鼓膜に触れて、ライターの先からちいさな炎が灯る。由奈の目が青く染まり、瞬く間にライトーの先から火柱があがった。鼓膜を切り裂くような警報音が鳴り響き、天井から水から降り注いでくる。店内に叫び声が充満した時には、由奈は目の前のガラスに向かって手をかざしていた。空調からなだれ込んだ風を利用したようだった。ガラス窓が粉々に砕け散り、無数の雨が降り注いだ。

 全身にその破片を浴びながらもカウンターに足をのせる。ガラス片で切ったのか一瞬頬に痛みが走ったが、その頃には消えていた。二階だ。思ったよりも高い。

「沙結、いくよ」

 飛び降りる寸前、振り返った。黒いコートを羽織った男は血走った目をこちらに向けながら走ってきている。身を乗り出し地面を蹴った。一瞬にして浮遊感に襲われるが、地面には緩やかに着地した。

「どっちにいく」
「ロータリーに戻ろう! 人が多い方が隠れやすい」

 そう声をかけ、それからは無我夢中で走った。飲食店が立ち並ぶこの辺りは時折生ゴミのような匂いがする。本来なら息を止めたくなる衝動に駆られるが、それすらも肺の中に取り込まなければ息が続かない。腕を振り、とにかく足を動かした。

「沙結! 追いかけてきてる奴らがいる」

 振り返った由奈につられるように、私も視線を送った。三人だった。先程の目が窪んでいる男はいないが、闇を纏っているかのような黒いコートに身を包む男たちが、血走った目をこちらに向けながら走ってきていた。

「あいつらは私がなんとかするから先生に電話して」

 走りながらも由奈はポケットから携帯を取り出した。画面に指を滑らせている。先生の連絡先をアドレス帳に登録することは禁止されているから番号を打ち込んでいるのだろう。腕を振りながらそれをやっている為に何度も押し間違えているようだった。先生、助けて。お願い。みながら、私は祈りを捧げた。